今回は2つの部落を訪れた。互いに隣り合っているわけではないが、比較的近くにある。
岡田は1934年の記録では19戸の部落であり、戦後には厚木市により同和地区指定され同和対策の集会所(岡田集会所)が設置された。一方、旭町は1934年に7戸の部落があったとされるが、その後同和地区指定がされた様子はない。
岡田は『人権のとも』2008年8月15日号に「厚木A地区」として登場する。写真はそれに掲載されていた岡田集会所で、同和対策で作られたものである。
部落の近く…というよりも、ほとんど部落内のような気もするが、「ソニー厚木第2テクノロジーセンター」がある。ここでは半導体の設計など、ソニーの最先端の技術開発が行われている。
ソニー厚木第2テクノロジーセンター は相模川沿いにあり、船着き場のようなところがある。かつての部落は漁業もやっていたということなので、今も地元で漁業をしている人がいるのかも知れない。
川とは反対側には、何やら道が作られている真っ最中のようだった。この写真の右側に建物が見えるが、ここから正面に向けて立ち並ぶ家が、古くからの住宅地である。それ以外の場所は田畑が広がっていた。
これは古くからの街道。
部落の北の端に「岡田一本杉」のバス停があり、すぐ近くに御嶽神社がある。この神社が部落と関係があるかは分からないようだ。なお、 岡田一本杉 の由来は本当に一本杉があったためだが、関東大震災が原因で枯れたので切り倒されたそうだ。
そして、これが岡田集会所。『人権のとも』の写真と一致する。
しかし、同和や部落や人権の類の掲示物は一切ない。周辺からは自治会館のようなものと認識されているが、たまたま通りがかった地元の人に聞いてみると「自分は使ったことがない」ということだった。
この袋小路が部落の南端で、写真の左側が部落となる。
『人権のとも』には稲荷神社を祀る家が多いことが書かれているが、その通り。
見た所、もはや部落には見えない。古くからの家はそう見えないどころか、ことごとく豪邸だ。部落にはアパートが立ち並び、おそらくさらにアパートを増やすためか更地にして工事をしている場所がいくつか見られた。
そして、岡田部落から北に1キロほど街道を歩くと、この「きりんど橋」の石碑がある。ちなみにこの近くには「ソニー厚木テクノロジーセンター」がある。
この微妙にカーブした道は用水路の跡であり、「聖代橋」はそこにかかる橋だった。
下宿という名前から、この辺りが街道の宿場町だったことが分かる。
この写真の右斜め前の辺りが部落だった。街道の南端なので監視のためと思ったら、近世はこの場所ではなく宿場の中心に部落があり、明治になって移転したそうだ。
部落の中へと進むと、新しい家が見える。
細い道が入り組んだ場所には多くのアパートが。道路のあちこちで子供が遊んでいるのが印象的だった。
これは天理教の教会。
相模川の堤防の方に歩くと祠が。もしや白山神社かと思ったら。
内部に狐があるので稲荷神社らしい。
川沿いにはもう1つ神社があるのが気になった。こちらは金刀比羅宮、いわゆる金毘羅さんのようだ。
石に刻まれた発起人の中に「聖代橋」という姓が。しかも発起人の数は7戸よりもはるかに多いので、この部落は完全融和したということではないだろうか。
動画のスタート・ゴール地点のお宅はちょっとカメラを回しにくい雰囲気ではなかったですか?
どうしてそう思いましたか?
以前ストリートビューでそこを見たときに黒塗りの車がたくさん停まっていたり、その他もろもろコワイ感じだったものですから。現在も2011年の画像を見ることができます。
ググって分かりました。稲川会系のヤクザ屋さんの事務所なんですね。全然知りませんでした。
2014年2月24日にその組事務所で組員による殺人事件があったそうです。
2014.2.25 10:17
殺人容疑で暴力団組員逮捕「けじめとしてやった」 神奈川県警
神奈川県警暴力団対策課と厚木署は24日、殺人容疑で、同県愛川町角田の指定暴力団稲川会系組員、細川英治容疑者(36)を逮捕した。「けじめとしてやりました」などと容疑を認めているという。
逮捕容疑は、同日未明ごろに同県厚木市岡田の組事務所内で、同市に住む知人で無職の福井伸和(のぶたか)さん(34)に殴る蹴るなどの暴行を加え、殺害したとしている。
https://www.iza.ne.jp/kiji/events/news/140225/evt14022510220009-n1.html
たくみさんが、話されているのは、恐らく反社勢力の方が住んでいると、言われているからでは、ないでしょうか。動画映像のスタート付近の右側には、市営の火葬場でした。
十数年前、ソニーの横に火葬場があったような気がします。
岡田の白山社は、上記の岡田集会所とは別の、
岡田自治会館裏の三島神社に明治初期に合祀されてたはずです。
ここに「寛延二(1749)年九月廿九日」と銘文のある白山社の石祠があったはずなんですが、
もうネット上では無かったことになってるようですね。
新編相模国風土記では、12軒の長吏が祀る白山社のことが記されてます。
御嶽社は関係ないです。
詳しい解説ありがとうございます
明治13年の本照寺の資料を見ると、
厚木町はS川とI藤、岡田はI上とM嶋が本照寺の檀家です。
ちなみに、田村はF本、大神はN川が同じく本照寺の檀家です。
明治13年の本照寺の資料ってどれでしょうか?
厚木市文化財調査報告書第13集 『野だちの石造物(昭和47年2月1日発行』に、
明治13年の本照寺に建立された題目碑(南無妙法蓮華経の七字を刻み込んだ碑)の碑文として記載があります。
他に昭和6年建立の題目碑碑文も紹介されてますが、
融和が進んだせいか、上記に加え一般も名を連ねている様です。
又、同集の「供養塔」の項に、厚木市岡田一本杉 水死供養塔として、「□年四月 施主 当村桐部(きりべ)□(□は判読不能)」が紹介されているのも興味深い所です。
”きりべ(桐部もしくは桐辺)”が転じて、”きりんど”になったとの風説は周知の通りです。
菊池山哉は”きど”から転じたのではと推測している様ですが。
『厚木郷土史第一巻・第二巻(共に昭和29年発行)』では、
厚木町と岡田村との境界用水溝に架かっていた”きりんど橋”の素描を見る事が出来ます。
この橋は、明治に入って「桐辺橋」、日露戦争後位に「聖代橋」と改称された様です(『皇国地誌』より)。
クルマのナンバー映ってるのはまずいんじゃねえの?
江戸時代、厚木太郎右衛門という小頭がいたそうですが、ここが居住地だったんですか?
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