細野豪志を自民に導いたのは 野中広務の「保守二訓」!?(後編)

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By Jun mishina

2007年参院選、民主党・小沢一郎代表(当時)は自民党の地盤だった地方の一人区を重点的に遊説し、見事に議席を奪った。そして民主党は参議院第一党に躍進し、政権交代が現実味を帯びてきた。当時、「格差拡大」という言葉が政治、メディアのシーンで多用される中で、民主党が打ち出した「国民の生活が第一」というフレーズは実に効果的だ。

また公約として提示された「子供手当て」や「戸別所得補償制度」といった分配策は有権者を惹きつけた。そして2009年に政権交代を実現する。もちろん細野も党職について政権奪取に尽力することになる。しかしその後、政権運営に挫折し分裂を繰り返した挙句、民主党もその後継政党の「民進党」も消滅してしまった。前編で紹介した通り、民進党の解党は「細野の責任」を問う地元・三島からの声もあったが果たして――。

後編はこれまでの細野の歩みを検証しつつ、野中広務との関係性に迫っていく。

もし代表選で勝利していたら・・

細野は民主党時代から党の要職を歴任してきたが、党内をまとめ上げるまでにはいかなかった。2015年1月の代表選で岡田克也に敗れた点もそれを如実に物語ってはいないか。すでに民主党は下野し本来は何も捨てるものはないはずだ。党のイメージを刷新するためにも細野でフレッシュさをアピールする手もあったが結果は岡田になった。「岡田さんの持ち味はおさまりがいいところ」(元民主党議員)という話も納得できる。能力というよりもトップに据えておくとそれなりに安定するのが「おさまりの良さ」というものだ。

またこういう特徴もある。江田五月元参議院議長の講演で「民主党に綱領がないのは岡田さんが反対しているから」という話を聞いた。また別の民主党議員からは「政策そのものが綱領というのが岡田さんの考え方」という証言もあった。政権以前から民主党には綱領がないことが批判されており、その原因は岡田にあるというのである。

ネットスラングにおける「マスコミガ―、ジミンガー」(責任の所在を特定の団体・人物に丸投げすること)ではないが、民主党内における「岡田ガー」のようなものだろう。要はとりあえず「岡田の責任」という説明は党内部、メディアまた有権者もなんとなく「納得」させる妙な力があった。

さて対して長妻昭である。この人物については「ミスター年金」というニックネームがあったのはご存じのことだろう。本来、ミスター年金とはもちろん「称号」のはずだが、実は長妻にとって重荷となってしまう。消えた年金問題に対する世間の関心が失せ、また厚労相退任後は長妻の存在感も薄まってしまった。
もちろん年金以外の問題でも「政策通」として定評がある長妻だが、残念ながら「年金問題」以上のインパクトを残せていない。ちなみに長妻は東京七区選出の議員で著者は長らくこの選挙区の有権者だった。同区の自民党の候補は松本文明松本文明元内閣副大臣だ。しかし松本は選挙時以外、街頭で見たことがない。ところが長妻は定期的に「国政報告会」や駅前での街頭演説を行っている。こういう有権者に対する実直さが長妻にはあるが、しかし「政党の顔」としては迫力不足だ。

おさまりの良さの岡田、政策の長妻、これに対して細野は「若さ」で勝負ということになる。第一回の地方議員、党員・サポーター投票で細野は1位になるが、国会議員の決戦投票で岡田に敗れた。出世は早い細野だが党全体を統率するだけの力はなかったわけだ。無難に仕事をこなし、知名度もあり、メディア露出も高いが「リーダー」にはなれなかった。

そして2017年8月、細野は自身の派閥「自誓会」の会合で民進党を離党することを表明した。この年4月に『中央公論』誌上で「日本国憲法改正私案」を発表したが、同案が党の方針に反すると批判が殺到。その結果、細野は民進党代表代行を辞任する。細野の離党の裏にはこうした「火種」があった。

当時の民進党は「離党ドミノ」と呼ばれ、希望の党結成はその決定打となった。そして細野は希望の党のコアメンバーだ。だから細野へ批判は今でも根強いわけだが、民進党崩壊は細野一人の責任というのは早計だ。むしろ民主党時代から続く「脆弱性」が最大の原因だろう。つまり政権交代という大目標があるうちはそのエネルギーは外に向けることができた。特に2007年参院選勝利から政権発足後までの民主党のエネルギーは絶大だ。しかしいざ与党になればそのエネルギーは内に向かざるを得ない。

寄り合い所帯と揶揄された当時の民主党。その議員を大別すると

①労組組織内候補 ②旧自民党出身者 ③若手改革派 ④旧社会党系 ⑤市民派

といったところだろう。このうち②は除いてそれ以外は「追及される立場」というものを経験したことがない。

このうち細野豪志とは③のタイプに該当する政治家だろう。実務能力もあり、メディア映えするタイプだ。本来、政権、党運営もこのタイプをより抜擢するべきだったが、なにしろ党の性質上、①や④系統の議員にも配慮せざるをえない。しかし彼らに「追及される立場」は荷が重すぎた。松本龍元環境大臣の言動と顛末は最たる例だろう。

民主党にとって不幸だったのは不慣れな政権運営の渦中で東日本大地震、福島原発事故という未曽有の大災害が直撃したことだ。そして細野は菅内閣の内閣総理大臣補佐官として原発事故の広報担当、そして原発事故収束や再発防止対応の国務大臣に就任する。最も困難な職を任された。なにしろあの当時、原発批判なら何を言っても許される空気があった。ジャーナリストと称する人々も原発報道で一旗挙げると鼻息も荒い。

にわか原発専門家が増殖し、ネットを見ればデマ、地震予知、不謹慎狩りが横行した。混沌とした状況でどんな言動もバッシングにつながる。こうした世相やメディア関係者の攻勢に耐え、なおかつ情報を正確に伝えることが原発対応の担当者に必要だった。あの時分の民主党の陣容を見るに細野以外、適任者が見当たらない。これは単純に細野を評価しているわけではない。「70~80点の男」の本領発揮というもので何をやっても無難にこなす、という特徴が原発事故対応の職に活きた。

野党時代の民主党議員ならば被災地に出向き政権批判につなげただろう。しかし今度は与党の立場だから自分たちに火の粉が飛ぶかもしれない。だから民主党議員たちの足は被災地から遠のいた。しかし細野は福島に足を運び頭を下げる。職務上、当たり前といえばそれまでだが活動家肌の議員にはできないことだ。

東電本社で記者会見にのぞむ細野。

野中「二階も古賀も所詮、秘書上がり」

原発の話を持ち出したのは以下の話につなげたかったこともある。震災がれきの処理をめぐり一時、京都市が受け入れを表明した。そこで2012年3月31日、環境大臣だった細野は京都駅前でがれき受け入れの理解を求めるキャンペーンで演説をした。この時、野中もイベントに協力し登壇している。

細野サイドの関係者にこの一件について聞いてみると「野中先生に協力頂いた」と感謝する声が多かった。また細野のご両親もこの時の野中の行動は「ありがたい」と言っていた。もしやこのキャンペーンで両氏の関係が深まったのか? そう推論し、生前の野中に近い自民党関係者に細野との関係性を聞いてみたのだが、特に思い当たるフシがないという。一応、当時行われた京都駅前のキャンペーンの映像を見せてみた。京都市にがれき受け入れを求める細野に対して聴衆が抗議し、ヤジを飛ばす模様だ。

同氏に動画を見せるとキャンペーンのことは知らなかったという。動画を映した端末をを下げたのだが、もう一度見せてくれという。するとこんなことを言い出した。

「プラカードを持ってヤジを飛ばしている中になんで自民党の連中がいるんだ?」

映像はかなり粗いがそれでも判別できるという。ネット上ではこのヤジ部隊が自民党関係のサクラと指摘する投稿が相次いでいた。しかしどうやら憶測ではなかったようだ。本来、こうした活動は野党支持者や脱原発運動家がやりそうなものだが自民党関係の動員という点が面白い。受け入れ反対が目的というよりも、細野、民主党政権に対する攻撃であるのは間違いない。

「先生(野中)もスピーチをされているのにとても残念なことだ。ちょうど離党された頃で周りの人間も先生から離れた時期だからこういうことになったのかな。孤立していた時期だったから話が聞きたいという議員がいれば党は関係なく相談にのられていた」(同氏)

さらに興味深い話を野中の後援会関係者から聞いた。

「生前、野中先生は二階(俊博)や古賀(誠元幹事長)に自分が築いた中国とのパイプを引き継いでもらおうと思ったが、あれはいつまでも中国のお客様だ、と言われていた。所詮、秘書上がりだから大所高所から物を見ることができないし、人脈作りが分かっていない、と。こういうことを言われていたよ」

いずれも野中と近い議員たちであり、党の有力者だ。だがかつて「自民党のドン」と呼ばれた野中の眼には適わなかったのだろう。そんな野中も逆に細野に対しては感じるものがあったのかもしれない。野中と中国の関係性については前出の自民党関係者の話が面白かった。

「中国の唐家セン元国務委員が靖国神社参拝について批判をした時にこれを伝え聞いた野中先生が立腹して、すぐに中国側に連絡をつけて抗議しておられた。親中派だとか批判されることもあったけど決して中国の言いなりというわけじゃなかった」

野中に対しては媚中、媚韓といったイメージがまとわりつくが、友好とは別に日本側の立場も主張してきたということだ。かつて現代コリア研究所所長の故・佐藤勝巳は野中のことを「調停者」と論じた。中国、北朝鮮、韓国との関係が深く、歴史認識問題でも東アジア諸国に配慮する。内政ではハト派議員として左派からも評価されたが、「国旗国歌法」の制定にも尽力した。こういう荒業ができる政治家は現状、見当たらない。だから党は関係なく自分の意志を継げる政治家を求めていたはずだ。旧民主党の関係者からはこんな証言も得た。

「全土連 (全国土地改良事業団体連合会 )の関係で玄葉(光一郎元外相)さんを介して野中さんと知り合ったとも聞いていた。玄葉さんは福島出身だから復興関係で野中さんとパイプを持ったという話だ」

もともと野中は野党議員にも一目置かれる存在だから民主党の若手議員が交流を持っても不思議ではない。2008年10月10日、総評会館で開催された「浅沼稲治郎追悼集会シンポジウム」での話。この時は野中も出席して浅沼委員長を悼んだ。黙とうの場面だったか、当時まだ社民党衆議院議員だった保坂展人(現世田谷区長)に「おい保坂君、君がやれ」と野中が促した。

保坂もそれなりの知名度とキャリアを持つがやはり野中を前にすれば「小僧っ子」という感じでタジタジだ。なるほどやはり存在感はあるなあ、と思ったものだ。野中は自民党の重鎮ながら左派メディア、護憲派、野党議員からも評価されている。民主党政権もわずか一年程度でかなり迷走し出した。そんな時に細野ら若手議員にとって党内に“ 重し”になるような頼れるベテランがいない。そんな時、自民党を離党し、なおかつ人が離れていった野中に助言を求めるのは大いにありえる。

細野と長妻昭。年齢は11歳違うが当選同期。

野中二訓「保守は平和と中産階級作り」

本来ならば野中に直撃取材をしてみたいところだが、残念ながら鬼籍に入っている以上、それは不可能だ。ならばその親族に野中の晩年を聞いてみるという手もある。しかも野中の下の弟、一二三かずみ氏は京都府旧園部町(現南丹市 園部町 )町長を務めた人物だ。そのあたりの政治事情にも明るいはずだろう。

まるで大名屋敷のような一二三邸を訪れてみたが、大きな門を前にどう呼び出していいものか分からない。近隣住民に聞くと現在は長生園という特別養護老人ホームの理事長をされており、午前中なら事務所にいるという話だ。さっそく訪ねてみるが数日前にご病気で入院された。重病ではないという説明だったが、当然ながら取材は無理だ。ならばと教えられたのが三番目の弟、禎夫氏。南丹市園部町で旅行会社を経営されていた。

野中一二三氏の自宅。まるで大名屋敷のようで面食らった。

行ってみるとすでに同氏はすでに引退されていた。現在はその子息で野中一秀元南丹市市議の氏が会社を継いでおり、快く取材に応じてくれた。同氏は「野中連合会代表」という肩書も持つ。生前の野中を最もよく知る人物だろう。

「細野さんとどういう関係だったかは私には分かりません」

と言いつつ、こんなエピソードを明かしてくれた。

「伯父(広務)は生前、保守とは平和を守ること、それから中産階級を作ることだ、こう言っていました。平和といっても単に安全保障の問題だけではなく、災害対策や危機管理、そういうことも含めての平和の実現です。そして中産階級を作って国を豊かにすることが使命なんだと教えられました。こうした伯父の教えに細野さんが感銘を受けたのはありえるでしょうね」

確かに野中らしい教えである。いうならば野中流の「保守二訓」というものだろうか。ここでいう「平和」とは単なる護憲、反戦といったものではなくあくまで現実的な対処ということだろう。1995年、国家公安委員長在任中には阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件に対応し、1999年官房長官時代には東海村JCO臨界事故の指揮を執った。こういう危機管理は単なるハト派議員にできるものではない。

また「中産階級を作る」という教え。これはかつての自民党の政治理念といってもいいだろう。最後まで規制緩和、構造改革に異を唱えた野中らしい考え方だ。細野は生活支援策について関心を寄せるが、中産階級を増やすという野中の政治信条とも合致する。

細野が感銘を受けたことは大いに想像できる。自民党入りは果たして単に「寄らば大樹」なのか、それとも「平和と中産階級作り」なのかそれは今後の細野の政治活動を見るべきだろう。ではこうした取材結果をもとに一体、野中とはどのような関係でどう影響を受けたのか細野事務所に質問をしてみた。

野中先生との出会いは、ハンセン病患者の追悼式典です。多くの議員が会場となったホテルの一室を出入りする中で、微動だにせず座り続けておられたのが野中広務先生でした。小さな体から「俺はこういう時のために政治家をやっているんだ」というオーラを感じました。

野中先生の番頭秘書をされてきた方が、私の両親同様、綾部市出身であったことも、野中先生とのつながりが強くなった理由の一つです。私の母方の祖母と野中先生の番頭の方のお母様は親友で、お墓は同じお寺にあります。
東日本大震災被災地の瓦礫処理では、全国で反対運動が起こり、環境省をあげて全国で国民に理解を求める活動をしました。環境大臣として、瓦礫の埃が舞う学校に通っている被災地の子どもたちの姿が目に焼き付いていましたので、何としても実現しなければと思い野中先生に相談しました。反対運動が最も激しかった京都駅前で、共に街頭演説に立っていただいたことを私は決して忘れません。

野中先生には与党の時、瓦礫のこと、中国との関係など様々なことで相談に乗って頂きました。2014年の自誓会のパーティでご挨拶を頂いたのは、そうしたご縁があったからです。先生には、民進党離党についても相談に乗っていただくなど、亡くなるまでご指導をいただいて参りました。野中先生に志帥会入会について相談したことはありませんが、二階派入りが報じられた時に、番頭の方から「自民党の中で頑張れ」と電話をいただき、勇気づけられました。

やはり野中の薫陶を受けていたことがよく分かる。また本人から直接ではないにしても、野中周辺から自民党入りを後押しされていた。しかも民進党離党についても野中の助言があったということだ。現在の細野は二階派入りしたとは言え入党を目指しているに過ぎない。それに二階という後ろ盾ができたものの、現在の細野を取り巻く状況は四面楚歌と言わざるを得ない。 すでに支援者には選挙区替えの方針はなく静岡五区にこだわると誓っており、この選挙区を守り抜くしか道はない。野中の教えをもとにこの危機を乗り切れるのか見物である。

代表選で岡田克也に敗れた。クリーンなイメージの岡田だがイオンというしがらみも。
東京レインボープライド2018にて。

Jun mishina について

フリーライター。法政大学法学部法律学科卒。 月刊誌、週刊誌などで外国人参政権、人権擁護法案、公務員問題などをテーマに執筆。「平和・人権・環境」に潜む利権構造、暴力性、偽善性を取材する。

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細野豪志を自民に導いたのは 野中広務の「保守二訓」!?(後編)」への2件のフィードバック

  1. 伏見の子

     はじめまして。同和問題に興味があってこちらのブログもよく拝見させてもらっております。宜しくお願いいたします。

     細野氏と野中氏の関係についてですが昨日(2019年3月9日)関西テレビの「胸いっぱいサミット」という番組で元NHKの堀潤氏が「細野氏が民主党時代に派閥立ち上げた時に、野中氏が挨拶に立ったときのエピソード」を紹介していたので、管理人さまもご存じだとは思いますが一応お知らせしておきます。
     ttps://www.youtube.com/watch?v=__miwSSA5b0
     (35分50秒頃~)

    これからも素晴らしいレポート期待しております。

    返信
    1. 三品純 投稿作成者

      ありがとうございます。こういうニュースも引用すべきでした。
      野中さんが来賓に出た時、かなり同僚議員からは反発があったそうです。
      自誓会が自民に接近するという誤ったメッセージになりかねないという
      ことのようです。ただああいう政治家は民主党にいなかったから
      良い勉強になったかもしれません。

      返信