去年の8月、いわゆる2ちゃんねるの「なんJ」板に「【悲報】阪神ファンさん、坂本誠志郎が部落出身だと突き止めてしまう」というスレッドが立った。
要約すると、2015年にドラフト2位で指名され阪神タイガースに入団した坂本誠志郎選手の実家の住所が、八鹿高校事件で逮捕された人物の住所と同じだというのである。
そして、その住所があるのがここ、兵庫県養父市薮崎。1935年の記録では103世帯545人。産業は農業と藁製品。
この鉄橋が架かる大屋川を隔てて、薮崎の集落は西と東に分かれており。西が部落である。
西薮崎の中を国道312号線が突っ切っている。
国道の東側に坂本選手の実家がある。この辺りは比較的道が広く空き地も多い。何箇所かで住宅の新築かリフォームと思われる工事がされていた。
古い長屋がある。
近隣住民に坂本選手のことを聞いてみた。坂本選手はここで育って、薮崎にいた頃はあまり気にしていなかったけど、当然、今となっては地元でも有名人だという。
祖父が八鹿高校事件で逮捕されていると噂になっていることを話してみた。
「それは本当だよ。確か、あの時はお爺さんが薮崎の区長だったんじゃないかな」
国道の西側は、山際に家が密集している。おそらく多くの人が思い浮かべる、農村の部落の風景に近い。
背中に入れ墨をしょった爺さんが上半身裸で洗濯をしていたが、気にせずに進む。
道が細く、どこが道路なのか人の家の敷地なのか分かりにくい場所もある。
住民に八鹿高校事件のことを聞いてみると、あの事件は単なる暴力事件というよりも、解放同盟VS共産党の運動団体による内ゲバのように認識されていることが見て取れた。
「この辺りの部落は昔からいじめられてきた。それで、最初は共産党が手を尽くしてくれたんだけど、途中から同和事業を非難するようになって協力しなくなった」
こうして細い路地を見ると、全く部落は改善されていないように見えるが、実際はそうでもなくて、いろいろと事業があって、改善はされてきたのだという。
確かに、よく見ると暗渠になった水路があり、下水も通されているようだ。
部落では解放同盟が組織されていたのだが、今となっては全くと言っていいほど活動していないのだという。
「国が予算を出さなくなったから、それで全部終わってしまった。国には勝てれんね」
と住民は語る。
八鹿高校事件当時は解放同盟を組織して反共産党側だった部落なので、今でも解放同盟にシンパシーがあるのかと言えば、そうでもないという。特に、当時の急先鋒だった、澤部落の丸尾良昭の評判については次の通りだ。
「丸尾も始めはよくしてくれてたけど、あの人は事業の利益を自分が独占するようなことをするから嫌われるようになった」
共産党に関わってもなんの得にもならない、かと言って解放同盟側の人間も私利私欲ばかりで部落のことを顧みない。そのような意識があるように感じた。
ここは薮崎公民館。掲示物など、部落や同和を感じさせるものは全く無い。
何の移転記念だろう?
ここがお寺。ご覧の通り西本願寺だ。
廃墟、廃車もあるが、それほど多くはないと感じる。
崩れかかった墓地がある。この上は見晴らしが良さそうだ。
あの凄惨な事件の舞台の1つとは思えない、のどかな風景だ。
やや隔絶感のある佇まいであるが、あえて部落であることを強調するような物件はもはや見られなかった。ただ、私が八鹿高校事件について聞いていると、こんなことを言われた。
「ここらの人に部落とか言った話はしない方がいいよ。そういうのには敏感だから。ボコボコにされるぞ。」
もちろん、ボコボコになどされていないが、どこかで聞いた言葉である。
その後、今戸には行きましたか。
まだです。もう少し先に延期になりました。
純農村の一部集落だけが部落の扱いを受けるって、どういう歴史的背景があるんでしょう?ストリートビューで近くの東薮崎や大薮の集落も見ましたが、どこもあんまり変わらないような。どう見ても普通の田舎だと思う。高校の事件や政治団体の介入で、部落というイメージが逆に定着してしまった気がする。
あくまで今の状態の比較であれば、西薮崎と東薮崎には違いがあると感じます。
ストリートビューで見ると、東薮崎の方が道の広さや家の敷地に若干余裕がありますし、植栽も手入れされています。
道の広さの改善は難しいので仕方ないかも知れませんが、他の部分でも若干の格差があるようです。
東京の部落でまだ行ってなくて確定できるのは上組だけかい?
多摩地域はまだありますよ。
今、どうしても分からないのが町田のもう1つの部落です。この場所は特定できないでしょうか。
菊池山哉『長吏と特殊部落』第1巻87頁に何か書いてあるようですね。
『部落問題・水平運動資料集成』第3巻535頁によると融和事業で作られた共同作業場もあったとのこと。土地の古老なら何か知っているかも。
それ
全文を引用したら?
君はやはり本田豊、臭い解同の側だね。
「本田豊、臭い解同の側」だと妄想する根拠は何だ?
「打桐豊成」「ℵ」の次は「犬神差別」か。いくらハンドルを替えても、きみの書き込みは電波ゆんゆんだからすぐに判る。どのへんが電波かというと、事実と妄想の区別がつかないところ。
・のキチガイは引用しないならば書くな
「全文を読んでみたいので引用していただけませんか」といった頼み方ができないあたり、やはりコミュニケーション能力が小学校低学年ぐらいの段階で停まってしまっている様子が窺える。気の毒な人だ。
アホやろ・
書いてあるますよ読んで見なさいって昔の2ちゃんねるかよ全く価値が無いわ
承知しました。『長吏と特殊部落』を読んでみます。
本町田か。
鎌倉街道と鶴川街道が交差する菅原神社より東じゃないかな。
私ならば山上さんの墓を探すけどね。
町田市自由民権資料館に聞いたら分かるんじゃないのかな。
もしくはQeQとか。
ありがとうございます。ということは、藤木稲荷の辺りでしょうか。墓を探します。町田市自由民権資料館にも行ってみます。
私もその辺だと思います。
本町田村は、原町田村等含め分村を繰り返してますが、該当地は現住所でも「本町田」だと思います。
本町田宿のあった養運寺周辺から、適度に近いのもポイントかと。
菊池山哉が「古くは六軒だったので、六軒村と称して居った」と思わせ振りな事を書いてますが、
これは恐らく一般の百姓で、
天保14年3月の、『多摩郡 本町田村 差出明細書上帳(熊沢栄司家文書)』に記載の、
「一、家数六軒人別(以下略)」に該当するんじゃないかと考えてます。
(原町田村の分村で、一気に家数が減ってる様です)
これは『町田市史史料集 第二集』に所蔵されてます。
問題はその後の記述で、
最後の方に「一、□□□□村はづれに居住(以下略)」と伏せられてますが、
これがお探しの「町田町 本町田 下村 14軒」の天保の頃の様子じゃないかと思います。
明細書は、(恐らく)非人と死馬捨場について続いて記述されてます。
ところで、去年、菅原神社の境内に移管された「藤木稲荷」について、
何か情報はお持ちじゃないですか?
詳細な分析ありがとうございます。ここにコメントを書く方の博識ぶりには驚かされます。
藤木稲荷について、菅原神社で聞いてみようと思います。