前回に続く「ガキ使」の黒塗りメイク騒動。映像、紙媒体を問わずメディアにおける黒人描写は、たびたび論議を巻き起こす。そして「ブラック」「黒い」これらのキーワードに関しても黒人差別を助長する、といった意見も散見される。果たしてこれらは本当に差別なのだろうか。表現のあり方、また差別と訴える側の実態や論理に迫った。
作務衣の前田朗教授が解説する「ブラック企業」の意味と意図
東京造形大学の前田朗教授。氏は、在日コリアン、同和問題など人権問題の研究者だ。弊社の『復刻版全国部落調査』についても自身のブログで問題視している。また永住外国人地方参政権、ヘイトスピーチ、朝鮮学校問題などのシンポジウムでは、トレードマークの作務衣を着込み登壇する。人権運動家たちの理論的支柱といった存在だ。この手の活動家の間で前田教授の名を知らぬ者は、まずいないだろう。ところがそんな教授も「差別」と批判されることもある。『前田朗Blog』(2017年12月27日)で佐高信『巨大ブラック企業』(河出書房新社)を取り上げた。すると教授も参加する市民活動家らのメーリグリストでこんな意見が投稿された。
トンデモ和製英語「ブラック」問題での前田さんの立場は分かっているので繰り返しませんが、名誉白人にはどんな皮肉も通用しないようですね。
つまり「ブラック」という表現は、差別というのである。差別問題の専門家が「差別」と指摘されてしまった。だが「ブラック企業」が差別的とは思えない。こうした意見に対して前田教授はどう答えるものか聞いてみた。前田教授によれば同ブログ(12月27日分)に限らず、以前も同様の論争があったという。
「メーリングリスト上ではもうずっと以前に論争をして終わっています。それ以降は一切相手にしていません。この間、ブラック企業という言葉について他人がどう言おうと私は何もしていないので反論も説得もしていません」
教授は「差別」という概念をこう説明する。
「差別は人間と人間、人間集団と人間集団の関係の中で起きる事態です。ブラック企業は、特定の人と人との関係ではなく企業の行動様式に対して使われている言葉で関係の局面が違います。一般の差別論の文脈で言えばまさに”文脈が違う”。そのブラック企業という言葉がどういう文脈で使われているか。それを見れば黒人に対して表現されているということは一切ありません」
教授は、こう続ける。
「英語のブラックの中に“黒人の意味も入るじゃないか”という人たちが”ブラックという言葉をマイナスの意味で使う”のは黒人差別である、そういう主張をしているんですよね。ブラックであろうが、レッドであろうが、ブルーであろうが、色彩に意味を込めるというのは世界中であることです。それは日本人が黒人を知らない時代から黒についてプラスやマイナスのイメージで使うこともありました」
そしてブラック企業という言葉が持つ意味を説明した。
「ブラック企業は、文脈の関わりなしに言葉自体が差別ということになると大抵の人がよく出すのは、腹黒いという言葉。白人に対して「腹黒い」という言葉を使った。これが全然関係のない黒人に対する差別である、となる。ブラック企業も黒人を問題にした文脈ではなく、(劣悪な)企業の経営方針、労務管理、長時間労働、労働者を潰すような悪徳な企業という事に対してのブラック企業なのであって黒人と白人とは関係ない文脈です」
今回のガキ使問題については「見ていないが、話は聞いている」とした上で「意図で差別か否か決まるのではなく黒人の人がどう見るかという問題。非常に不愉快な思いをさせる表現なのかが問題です。意図が差別的なのはもちろん論外で、差別的な意図がなかったとしても、差別になる場合はある。ダウンタウンの問題もテレビでオンエアするのが正しかったか否かを議論すべきでしょう」という見解を示した。なるほどただ「ごめんなさい」で済ますのは、よくないことだ。
教授はこう付け加えた。「もし日本語を読める黒人の方がこの言葉(ブラック企業)を見て不愉快な思いをしたというならばその方とはきちんと話をしなくてはいけない」
話し合い、これも重要なことだ。前田教授とは、人権という概念に対するスタンスは違う。しかしブラックという表現に関しては、理路整然とした意見で、同意できる部分が多かった。そして最後の部分に今回の問題を解決する鍵があると思った。
ブラック企業は「部落企業」の意味も持つ!?
対してブログ、メーリングリストなどで前田教授を批判した一人、ブロガーの檜原転石氏に「ブラック企業」という表現についてメールで尋ねてみると丁寧な長文の回答があった。ブラック企業の問題点についてはこう説明する。(要点部分を抜粋)
まず大前提として「ことばは人間が作ったものだから人間が変えられる」(田中克彦『差別語からはいる言語学入門』の第二講の題名)を確認しておきたいと思います。そう「ブラック企業(ブラック会社)」という言葉も人間が作った。だから私たち人間が変えられる。差別語「ブラック企業」採用者の今野晴貴(*NPO法人「POSSE」代表理事、2013年新語・流行語大賞で「ブラック企業」が選出され受賞)が解説しているように、この言葉はもともとネット卑語でした。ネット卑語といえば、例えば「除鮮」「放射脳」とかの言葉も散見されましたが、さすがにこれらを採用したモノカキはほぼいませんでした。だがなぜか、「ブラック企業」だけは採用された。答えは簡単です。ネット卑語を造語した若者も、採用者の今野晴貴も『しんぶん赤旗』も、米国の公民権運動もマルコムXも「ブラック・イズ・ビューティフル(黒は美しい)」運動も知らなかったからです。これは「黒塗りメーク」問題でも見られ、無知でやったとしても、批判され人種隔離制度(ジム・クロウ制度)を叩き壊した公民権運動を知れば二度と絶対できません(*原文ママ)
またこうも訴える。「トンデモ和製英語「ブラック」は解き放たれ、ブラック市政、ブラック大学、ブラック国家・・・と、もはやあらゆる悪を含意して白人英語のblackに限りなく近づいています」。つまり日本語におけるブラックも黒も黒人差別に該当するという考えだ。ブラックについては、こんな自説も披露した。
実は、私も「ブラック企業」とキーボードで打ち込む時に気づいたのですが、ブラックを、「ぶらく」と打ち込み、部落と変換されることがたまにありました。これでネット住民の底意は理解できました。これは邪推かもしれませんが、「ブラック企業」は「部落企業」も含意されネットでは流通していた。そうだとすると、差別語「ブラック」は黒人差別と部落差別を煽る恐ろしい差別語になりますが、今のところ大多数は、「ブラック」は英語の黒blackを意識した和製英語だという認識です。(*原文ママ)
「ブラック企業」=「部落企業」説も唱える。黒人と被差別部落、ブラック企業には国内外の差別問題の頂点に立つこの二大現象が込められている!? しかし『解放新聞』には、ごく普通に「ブラック企業」が掲載されていた。部落企業という意図があるとは思えないが…。とりあえず同氏の主張は、ブラックには黒人差別の歴史があり、「ブラック企業」も黒人差別への無理解に由来しているということだ。また同氏以外でも、和製英語のブラックには「黒人差別」の意味を持つ、こう考える人が少なからず存在していることも分かった。腹黒い、黒い人脈、こういう表現も黒人差別でNGとする人々もいた。
ブラックが差別と訴える人たちは、主にこんな主張をする。「世界では、ブラックという言葉が許されない」と。とかく日本人はこの「世界が云々」という表現に弱い。何やら「時代遅れ」「前近代的」そういうイメージ付けをされてしまうからだ。ただ海外ニュースを見ると「ブラックマネー」(black money)が「不正資金」として使用されているのが確認できた。少なくとも「世界ではブラックを使わない」というのは正確ではないと思った。
抗議者たちのターゲットは折れる人
異なる外国語同士で同音異義語が存在している。ある国では日常語のはずが、別の言語では、差別語・不快語というケースもある。ではこんなケースはどうだろう。スイス の時計企業にETA社というブランドがある。これが差別用語の「エタ」を連想するから禁止せよ、と解放同盟あたりが申し入れをする。こんな事態はありえるだろうか。それに限らず「BICCO」(びっこ)だとか、海外には、こんな名称の団体があった。日本語で障害者差別用語だからと抗議するとは思えない。あるいはカナダの「マンコ湖」は、日本で放送禁止用語だから改称せよ、とPTAがカナダ政府に申し入れする? 誰もやらないはず。当たり前だ。バカげている。「ブラック企業」「ブラックマネー」を批判する人たちもまさかこうは考えないだろう。
単に異なる言語間の同音異義語でそこに差別的、猥褻な意図も意味もない。もし抗議したところでETA社やカナダ政府が応じるわけもない。しかし前田教授の「意図しなくても差別になる」という説を借りれば、ETAで傷つく人も存在することになる。実は、こんな揚げ足取りの言葉遊びが問題ではなく、ポイントは別のところにある。
「差別」と訴える側が攻撃対象にするのは、あくまで“折れる”であろう団体や人物なのだ。だから抗議者たちは、企業、自治体、報道機関、政治家、公務員らに対して一層、強く出る。こうした団体・人物は、とてもイメージ、風評、社会的評価を重視する。あるいは芸能人も同様だ。人気商売のタレントにとって「差別者」という烙印は何より恐ろしい。
もちろんこの問題は、メディア関係者こそ熟考するべきだ。日本国内のメディアもごく普通に「ブラック企業」「ブラックマネー」「ブラックボックス」という言葉を使用している。それも人権問題に関心があろう左派・リベラル系の報道機関、ジャーナリスト、作家もごく普通に、だ。普段、彼らはひとたび人権問題が発生すると厳しく批判する。しかしもし自分自身が「ブラック〇〇」を使用して、「差別者」と言われたら? 意図とは別に他者を「差別者」と批判しながら、自身に降りかかった場合、どう反応するものか。今やネットスラングにもなった「嫌なら見るな」、この反論もありえるだろう。ただ自分自身にとって不愉快な報道、情報が突き付けられても「嫌なら見るな」で納得しなければならない。
では一斉に「ブラック」を使用を禁止しよう、ついでに「黒い人脈」「黒い関係」、黒に関する否定的な用法を一切禁止しよう、こんな措置は愚の骨頂だ。繰り返すが黒が白、赤、黄になろうが、言葉狩りの面々はどんな現象でも粗探しするものだ。では「ブラック」を止めて、「ダーク」にしよう。そういう問題では済まない。物は言い様で「ダークも黒を連想するから差別だ」といかようにも抗議の糸口はある。それでも自主規制の道を歩むというならば、「汚い企業」「悪い人脈」「怪しい金」・・味も毒気もない表現を受け入れればいい。「安倍首相の黒い人脈」こんなタイトルはいかにもお好みでは? もちろんこれも御法度ということになる。しかし現在の表現規制を求める風潮を視聴者、一般人に責任転嫁してはいけない。長年、表現について細かい揚げ足取りをしてきたのは、報道機関、ジャーナリストたちでもある。
在日のゴンさんに見たーー絶対に「同意」できない抗議者たち
そんな報道関係者たちは、日々「少数派への配慮」「社会的弱者の擁護」を訴える。だから在日コリアン、同和地区住民など、こうした存在に対しては一層の熱を込める。ただ彼らをただ単に弱者と位置付けるのはあまりに軽率だ。少し古い話になるがこんな思い出話を紹介しよう。
ゴンさんという年配の在日コリアン女性がいる。この方、左派の集会でたびたび見かけた。出席しては意見を言う。ゴンさんはいつもイライラしていた。だからいつも語気が強く攻撃的だ。2009年12月3日、「国会改革」に異議あり緊急院内集会でゴンさんと同席したことがある。参加者たちからの質疑に移った際、なぜかゴンさんは、議題と無関係の「永住外国人の地方参政権」について出席した議員たちに問うた。応じたのは、佐々木憲昭元衆院議員だ。
佐々木は「今回のテーマとは関係ありませんが」と切り出し日本共産党が外国人地方参政権について取り組んできた経緯を説明した。ところがなぜかゴンさんが激怒し出した。
「関係ないってどういうことですか。差別です。私、許せない」
確かにまるで関係ない質問だ。主題はあくまで国会の運営、議員定数問題など。ところが最後まで食らいつくゴンさん。会の終了後も佐々木氏に詰め寄り、主催者に制止されている。佐々木氏の説明自体、とても丁寧で参政権についても理解を示した。本来は、彼女にとって味方の立場。しかし「(テーマとは)関係ない」この一語が許せないというのだ。ゴンさん、人生をずっとこれでやってきたと思う。本誌は、一般の報道機関よりも同和、在日の運動家、あるいは差別と訴える活動家に密着、ウォッチしてきたと自負している。これは「差別」でも「偏見」でもない。その多くは、どうあっても「同意」できない性なのだ。というよりも宿命的に「差別」と言い続けなければならない。もしやその擁護者(報道関係者)たちは、こう反論するかもしれない。
「閉塞した日本社会がマイノリティの不快感を高めている」。なるほどもっともらしいことだ。だがその不快感という牙は、擁護者たちにも向けられる可能性だってある。参政権に理解を示した佐々木氏にすら食ってかかったほどだから。
現在の言葉狩り、表現規制を求める声も同様だ。その根底には、どうあっても「同意」しない、できない層が一定量いることを認識すべきだ。それは意図、目的とは別次元にある。特にこれが人権に関わる問題になると「差別はある」という前提で進んでしまう。ガキ使の黒塗りも同様だ。浜田に差別の意図があったとはどうしても思えない。そもそも差別的な意図があってあえて「黒人」に扮するものだろうか。おそらく今回も浜田からすれば「過去にも黒人のモノマネがあったんちゃう?」という不公平感を抱いているだろう。時代と世相の犠牲者としか言いようがない。
この不公平感を理解できない人にはこんな現象を紹介しよう。自治体が発行するカレンダーや職員用の手帳に六曜が掲載された。すると非科学的で差別を助長するとして回収、時には解放同盟による糾弾に発展することもあった。ところが松本龍元環境大臣はかつて「B型だから短絡的」と言った。血液型で性格判断も非科学的として批判される。しかし松本龍が糾弾された話は聞かない。差別者という烙印は、時に”大人の事情”も左右するわけだ。
気がつけば表現ポリス、人権憲兵だらけ・・・解決方法はあるか?
今回の黒塗り問題から見えたもの。それは、単に黒人差別という以上に、他者の行為に対してあまりに厳格さを求める風潮だ。そして黒塗りメイク問題が終息した今、彼らはまた別の攻撃目標を探していることだろう。しかしぜひ考えてほしいことがある。もしガキ使の抗議者が会社員の場合だ。自社製品の商品名や意匠が意図しないところで、「LGBTを中傷する意味」「韓国では差別用語」「ロマ差別の暗示」こんな抗議が発生したらどうする? もちろん意図云々という弁明は、通用しない。それは自分自身も他人に強いたことだ。他人の行為にあまりに厳格な人は、やがて自分の身にも降りかかることを心の片隅に置いた方がいい。最も「差別だ」「抗議する」という果実を味わっている間は、気付かないが。
もちろんメディアも同罪だ。ふだん彼らは、いざネット上で差別問題が発生すると、便乗して報じる。もともと浜田の黒塗りメイク批判もツイッターなどSNSを中心に巻き起こったことだ。新聞・テレビとネット住民は、一種の共犯関係と言ってもいい。しかしそんなメディアもいざ事件、トラブルがあれば責任の所在をネットに転嫁しがちだ。都合のいい時はネットを煽り、不都合の場合は批判する。あまりにご都合主義だ。こうした構造も表現規制、過激な抗議をを助長しているのではないか。
ならば仮に意図しないところで差別と言われたら? 前田教授も当事者に説明を、と言った。また前編で紹介したワイドナショーに出演した犬塚浩弁護士は「反論はあっていい。これをきっかけにいろんな議論があっていい」と言った。ここが重要だ。人間は、コミュニケーション能力を有しているのでは? 言葉を持っているのではないの? ところがどうだ。差別と訴える側は、その実、議論に応じないものだ。経験上、よく分かる。SNS上で黒塗りは差別と訴えた人々は、もし目の前に浜田がいたら「差別だ」と抗議できる? 話し合いができた? おそらくそんな機会があっても議論を閉ざすだろう。だがそれはもし自分の身に差別者という鉄槌が襲った時に、反論や弁明すら許されないことを意味する。自分自身で墓の穴を掘ってるとしか思えないのだ。また抗議された側もいつも議論なしで、「お詫び」で済ませている。これも表現規制の原因だ。
もちろん差別表現について我々は、敏感でなければならない。とは言え、意図を無視した批判に何の意味があるのか? 今後、表現規制と言葉狩りの波は、強まる可能性が大きい。自ら演出や表現に厳しい制限を求めたのに「テレビはつまらない」とまた炎上。こんな姿が目に浮かぶ。おかしなものだ。本来、表現規制は、体制・権力側が行うもの。ところがなぜか視聴者・読者といった民衆側が求めるという不可解な状況にある。そうではなく、厳しい表現規制時代を迎える前に「他人の権利は自分の権利を守る」今こそここに立ち戻る必要があるはずだ。
https://ejje.weblio.jp/content/niggardly
英語ではniggardly(けちな)という語がniggerを連想させるため、差別用語にされてしまいました。
語源の上でniggerとは無関係ですが。
初めて知りました。ありがとうございます。無茶苦茶ですね。
https://twitter.com/junmishina/status/958876499116941312
直接関係ない話題ですが、これは面白いですね。
津田大介が引き合いに出したのはシェンク対アメリカ合衆国事件というもの。徴兵制度に反対する社会主義者への刑事弾圧を正当化したのがホームズ判事ですよ。戦時下に徴兵反対を叫ぶ行為は有罪判決に値するという判決。
つまり米国の右翼に味方した判決を、日本の左翼の津田が文脈から勝手に切り離して我田引水的に引用しているわけです。ホームズ判事の判決をそんなに有難がるなら、津田は戦時下の言論統制を容認するというわけでしょうか。
そうなんです。私、最初、津田さんが右翼団体を擁護しているのかなと勘違いしたぐらいです。少なくともヘイトスピーチを制限したいという主張の中で持ち出す事例ではありません。
彼らは糾弾が自分の身にも降りかかっても、だからこそ償いのためにともっと熱心に活動するだけなのかもしれません。
とはいえ、そもそも普通の会話では意味の比重はそこまで高くないので、ツイッターのように第三者が意味だけを頼りに片言隻句を非難できるような世界はそもそも異常でもあるのですが。
「もう一段抽象度を上げて「自覚されざる罪への問い」ということで言えば、二つの対応があるとわたしは考えています。
一つは具体的な断片に粘りつき、中途半端にやることです。外山恒一の言う「ヘサヨ」が行っているナイーヴな言葉狩りなどがこれでしょうが、個別的な言葉、個別的な問題系に罪を仮託し、それを一個ずつ具体化していくと、「贖罪」は時間軸上の延長を備えます。つまり、言葉を狩っている間に時間が稼げます。そうやって一つずつ粘着して罪を削ぎ落としている間に、時間が流れて歳をとって死にますので、めでたしめでたしとなります。些事に粘着し顔を伏せていれば、地平線に迫りくる無限の罪と直面しないでいられます。淵に滑り落ちない為の「抵抗」として、パラノイア的言葉狩りを利用する、ということです。」
「しかし何か、すっきりしないものが残ります。それはPCの実践というよりはPCが前提としている理路、背後で働いている世界観の貧困化から来るものなのではないでしょうか。
何度も言うように言葉は約束事です。構造主義的な言語観を持ち出すまでもなく、言葉は意味ではないし、物質でもありませんし、これらと一対一対応している訳でもありません。素朴表象論のように、物質的な世界をそのまま写し取ったものではないのです。しかし一部のPC左翼は、あたかも意味が直接世界に張り付いているかのような、言葉一つ一つに直接価値が粘りついているような、パラノイア的世界像に囚われているように見えます。」
ttps://arabic.kharuuf.net/archives/2305
「ステロタイプを肯定もできないし否定し切ることもできない。ならどうするのかと言えば、そもそもその軸で考えているのが間違っている訳でしょ。
お互いの距離感とか共通感覚、信頼関係、それだけでしょ。「こいつの言うことだから許す」みたいのは遍くあるんですよ。
(中略)
お互いに見えている関係については、上に書いた通り、間柄とかニンでしかないです。そしてそっちが基本。
問題は、後者についてはそんなやり方でやってられない、ということですよね。だって向こうはこっちを知らないんだし、向こうを知ってる人は無数にいるんだから、関係性とかなんとか言ってられない。それで仕方ないから、PC的なお約束コードを作って縛っていきましょう、ということでしょう。物事極端に単純化して、○○って言ったからアウト、みたいな。
この仕組みは実にバカバカしいのですが、そもそもテレビに出て皆んなが見ています、なんて状況は人類史的に異常事態な訳で、ナチュラルなソリューションなんかまだないのです。」
ttps://arabic.kharuuf.net/archives/2435
世界観の貧困化というのはなんとなくわかりますね。
解決方法は一つあります。
日弁連のロビー活動を停止させて、スラップ防止法を制定する事です。
http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/contents/151127/2358700042.pdf
宮部さんからこういうメールが届いています。
私は生活苦でとても忙しいので、詳しく説明ができません。
どうして投稿したのかは、どうか読む人が判断してくださるようお願いします。
ーーーー
宮部です
単刀直入に聞きますが、XXさんはアスペルガー症候群と診断されたことはありませんか?
かくいう私はそれを疑われたことがあり、リハビリに励んできました。
話が本筋から脱線し、話が噛み合わなくてもし続けることは、症状として合致するのです。
実は私も宮部さんと全く同じことを考えていました。斉藤ママさんは悪い人ではないと思いますが、何というか、いわゆる「不思議ちゃん」がそのまま大人になったような印象です。
もっとも私自身がASDの確定診断を受けており、宮部さんにも同じ傾向があるとのことで、「類は友を呼ぶ」というのが正確なところかもしれません。しかし同族だから何となく「あ、この人もそうじゃないかな」と気付く場合もあります。
お気を悪くされたらごめんなさい。
「このキチガイが、デタラメを投稿しよって」で終わりたいのかもしれませんが。(笑)
これを持ち出してきたのは私じゃないので、私はネットに挙がっていたのを
リンクしただけで、私があげたんじゃ、ないですからね。(笑)
この収支報告書からは自民党と日弁連の熱い蜜月が想像できます。
スラップ防止法を作らないのは、この沢山の献金が原因です。
こういう事件とかも。。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52743
痴漢冤罪もこういう仕組みだったのかなーって。
私は女だから全然関係がなくてお気楽でいいのですが、
殿方は痴漢冤罪で裁判5年をする人生を選びますか?
それとも日弁連の解体を選びますか?
>「このキチガイが、デタラメを投稿しよって」
そんなこと誰も言ってないですよ。斉藤ママさんは場違いな話を延々と続ける傾向があり、それで私も宮部さんもアスペルガーを疑っているのです。話がデタラメかどうかという問題ではありません。
不快ならば、削除しろ、と何度も言っているのですが。
あなたもしつこいわね。正しいルールは「削除」。
削除は管理人の仕事です。
私は忙しいのでいちいち細かい事まで説明ができません。
どうして日弁連の政治団体の収支報告書のリンクを張ったのか、
読み手が考えてください。
殿方は怖くて日弁連の悪口が言えなくて、
なんの役に立たないばばあを疎外しようとしているのがよくわかりました。
言わないでいたらいつまでたっても痴漢冤罪はなくなりません。
儲かるのですから。
まぁ、私には全然関係がないので、別にいいのですが…。(笑)
日経ビジネスの長谷川学さんのサイトが生きているのですから、
あまり怖くないんじゃないでしょうか。
私も弁護士に「訴訟を考えています」と勝手に手紙出されて激怒したことがありますよ。
本当に弁護士あくどい。日弁連あくどいです。
削除しろ、と言われたら、どうぞ削除してくださいませ。
「家庭争議で相手方の弁護士からひどい目に遭わされた→弁護士が憎い→家庭を破壊したのは、そうだ日弁連だ」という思考回路でしょうか。
憶測で物を言うのは慎むべきですが、家庭の不和の原因は、ひとつにはあなたのその「話の噛み合わなさ」「思い込みの激しさ」だったのではないかという気がしますよ。
何とぼけたことをおっしゃっているのかしら?
弁護士が正義の味方だなんて昭和の時代です。
新しい弁護士の実態は「おいはぎ」
弱者を見つけては、持っているものをはいでいく仕事です。
政治家に渡している十分な献金は、警察対策でしょ。
http://www.benseiren.jp/blogs/h3001.html
障害者やご老人、一人何千万かは持っている場合があるので、
一千万ぐらい政治献金しても痛くもかゆくもないんですよ。
私は、ばばあなので考えるのが面倒だから、
おいはぎはおいはぎだと言っちゃいますけれどね。
お年寄りが置かれた実態をみて、追いはぎだと思っていない人は
どのぐらいいるんでしょうか?
おいはぎを知らない人もいるのかもしれませんね。
ですから「弁護士が正義の味方」なんて誰も言ってないんですよ。あなたはご自身の脳内の敵と戦っているだけです。そこが病的だと思い、心配申し上げているのです。
三品です。気になるので少しだけ。
日弁連と弁護士の問題については示現舎としてもとても注視している問題です。
ただ黒塗りメイクとは全く関係ありません。今回の問題と日弁連のロビー活動が
どう繋がっているかよく分かりませんでした。
じゃあそのことの何が問題なのか? という話です。
仕事柄、政治集会というものによく行きます。
この手の集会に来る人はおおかた労組の活動家や左翼活動家といった人々です。
連中にとって集会は生業であり、趣味であり、人生です。
が、問題はそれ以外の人。「目がテン」になっている人です。
軽い認知症気味の人とか、精神的に病んでいる方がいます。
この人たちの目はテンになっています。死んでいます。
集会中、一人でブツブツ言っておられる。メモを取っているけども
ティッシュペーパーの空き箱をノート代わりに、延々と何やら書いている。
そういう人もいます。その様は憑りつかれたようであり、ある意味、何かに
すがるかのように。
会場からの質問は? と言われて颯爽と手を挙げるけど全く無関係のことを
長々と話している。だけど主催者としては一応、お客様だからむげに扱えない。
メディアで出てくる「市民」の実態は案外このようなものです。
要するに政治集会、人権シンポジウムはメンヘラたちの受け皿になっているのです。
政治集会と病んでいる人は親和性が高い。これは確実に言えます。
もちろん斉藤さんがこういう人と同類と思いません。ご自分の持ち場があり
本分もおありと思います。
ところがこれまでの投稿を拝見しますと
こんな人たちと同類に見えてしまうのですよ。
もちろん貴女様はもっと教養もあり、人格もおありだと思います。
だけど政治、人権、反戦、動物愛護、こういった現象には人を狂気と錯乱に
導く何かがあります。これは誰って話じゃないです。私もその
狂気の一人。しかし同じ狂気であっても、とても微々たるものだけど
生活の糧になっています。しかし斉藤さんはそうではない。何かを訴えても
何も得はありません。
私ごときがこういうのは僭越ですが、少しこういった問題から距離を置かれるのは
いかがでしょうか。
「.」さん、脳内の敵ってだれですか?
>ただ黒塗りメイクとは全く関係ありません。今回の問題と日弁連のロビー活動が
どう繋がっているかよく分かりませんでした。
不満や被害感情を増やすのが重要なのです。
今や法テラスを使えば、弁護士費用が公費で払われます。
タダでやるので、不満があるのならば、被害回復しませんか?という声掛けはあるし、権利があるので手続きしませんか?(怪しい権利)
という本も昨日入手しました。
>だけど政治、人権、反戦、動物愛護、こういった現象には人を狂気と錯乱に
導く何かがあります。
障害者を会場に連れてきている人がいるからではないですか?
会場に来るまでの情報を、正しく判断出来るのはもう認知症でも統失でもないですよ。政治集会を選んで来れるのならば素晴らしいです。
うちの母は家から2キロぐらいの所までしか行けません。
道に迷いますからね。(笑)
障害者団体に資料を請求したら、ダウン症の障害児者がエイエイオーってやっている新聞が送られてきました。
代表者はなんと、外国人でした。こういう感じなんだと思います。
どうでもいい事ばかり書いて大変失礼しました。
「ガキ使」の黒塗りメイク騒動は、最近新聞記事で見たので、興味深く拝見しました。
その新聞記事では、日本在住の黒人作家の方の、「悲しみ、怒り、心配など何とも言えない複雑な心境になった」ということや差、「差別する意識がなくても放置するのはよくない」といった趣旨のコメントが載っていたように思います。
記事を読んで「なるほど、差別する意図を持ってやってなくても、差別になったり、相手が傷つくことには配慮しないとな」と思ったものです。
では、今回書かれていた「ブラック企業」はどうか。?おそらく黒人を差別する意図で使われる人はほとんどいないでしょう。でも、前述の理屈で、それを見た黒人の方が不快な思いをするなら、やめるべきか?
それは「差別にあたるか」という問題ではなく、それで相手が傷つくなら使わない、という、単なる気配りや性格のレベルの問題かな思います。
日本人も、海外で「イエローモンキー」と揶揄されたりすることがあるわけで、「イエローモンキー」は明らかに侮辱した差別用語といえると思いますが、「イエローピープル」とか、仮に「イエロー企業」なるものが、黄色人種に対する差別意図がなくても、否定的に使われていたら、不快に感じる人も、たいして気にしない人もいるでしょう。
何年か前に、「野呂」という苗字の人たちが、「ノロウイルス」という名称は、いじめられるから使わないでほしいと声をあげて、国際ウイルス分類委員会が「ノロウイルスという用語は使わないように」という趣旨のプレスリリースをしたことがあったと思います。
これも、ノロウイルスという呼称には差別する意図は当然なかったでしょうが、それで苦しむ人がいるなら、という配慮によるものではないでしょうか。
そもそも、日常生活では、差別にあたらなくても、人を傷つけたり、傷ついたりすることは、いくらでもあるわけで、「こう言ったら相手が悲しそうだったなとか、傷つけそうだなと」思って、配慮するかどうかは、その人の気配り、思いやり、性格のレベルの話だと思います。
それを「それは差別だからNGだ」「差別でないからOKだ」という議論と一緒にすると、変な平行線の議論になってしまうのではないでしょうか。
と思いました。
素晴らしいご意見ありがとうございました。
確かに野呂さんがノロウィルスを気にするというのも
私からすれば気にしすぎ!と思ってしまうのですが
そこはやっぱり人の感情があるから尊重、配慮も必要ですね。
ただその反面、
「差別する意図を持ってやってなくても、差別になったり」
これはこわいですよ。じゃあ日常生活の中で何気ない仕草がや言葉が
差別だと非難されるのって監視国家みたいじゃないですか。