さて、旭川にはアイヌ文化がどれだけ残っているのか。
川村兼一氏によれば、昭和30年に北海道知事からイヨマンテ禁止令が出たのだが、旭川ではそれを無視してやったという。川村氏も既に3回やった。熊はどこから連れてくるのかというと、登別のクマ牧場からもらった熊でやった。
「北海道の環境課に行ったら殺しちゃダメだ殺しちゃダメだ、と言うんだけど、『うるせえこの野郎、殺さなきゃイヨマンテにならんだろ』と言って」
動物愛護団体など、いろいろなところから圧力はかかるが、これからもやって行くつもりだという。アイヌにとって熊は神様であるし、アイヌに限らず人間は食べるためには命を奪っているのだ。
「被差別部落の人には『エッタ野郎』と言ってそういう仕事をやらせておいて、食べるだけ自分でやるのはないだろ」
と、川村氏は語る。
しかし、昔ながらのアイヌのコミュニティ、アイヌ語が残っているかというと、歯切れが悪い。旭川周辺にもアイヌ語の地名はあるし、ユーカラ(アイヌ語叙事詩)の伝承などの取り組みは行っているが、筆者がイメージするようなアイヌ語のネイティブスピーカーはいそうにない。
一方、旭川の生活館は、川村氏等の努力により、他の地域とは違って、単なる公民館ではなく確かにアイヌのための施設になっているという。とすると、地元のアイヌに会いたければ生活館にも行ってみなければなるまい。
旭川市民生活館は、遠くからでもひと目でそれと分かる建物だ。筆者が訪れると地元のアイヌの方が何人かいたので、ここはどのような施設なのか聞いてみた。
「この施設は半分がアイヌの予算で作られて、我々が使う分には無料となっていますが、一般の人とのコミュニケーションのための施設ということもありますので、アイヌが独占するということはありません」
つまり、位置づけとしたは誰でも使えるのだが、アイヌが優先して使えるということになっているのだ。例えば、冠婚葬祭がここで行われるのだという。ちなみに、「アイヌ様式」で葬式を行う人はいるにはいるが、非常に少なく、最近は行われていないという。
集落ごとのアイヌのコミュニティがないのか? と聞くと、
「今はもうないです」
ということだった。代わりに今残っているのが、北海道アイヌ協会旭川支部と、旭川アイヌ協議会なのだ。それぞれ20世帯、50世帯程度が加入しており、旭川ではアイヌ協会より旭川アイヌ協議会の方が大きい。
誰がアイヌか、ということをどう判断するのかという問題について聞いてみると、やはり戸籍からは「旧土人」のような直接的な記述は今は抹消されているという。そこで、拠り所となるのが、「伝承」である。
「それはね、地域に住んでいるエカシ(長老)とかフチ(おばあさん)とかのお話を聞いて、遡っていくんです。ある人がアイヌと結婚したらその子がアイヌで、その子が和人と結婚して子供が出来たと、そうやってあの人はアイヌだと分かるんです」
戸籍から辿るのは限界があるので、最終的には口伝で確認するというというのだ。なので、口伝が途絶えれば、アイヌも途絶えるということになる
それにしても、アイヌ様式の葬式というのが気になる。昔は女の人が亡くなると、家を燃やす習慣があったというが、さすがに今はそれはできない。しかし、筆者が非常に興味が惹かれたのが次の話だ。
「今でもアイヌ様式のお墓が5つか6つあるよ」
見たい。これは見ないわけにはなるまい。不謹慎かも知れないが、「死」に関わる事こそ、観光用でも、作り物でもない、真の文化が見られると思った。
ちなみに、金子氏の「アイヌ民族なんて、いまはもういない」発言については、このような感想であった。
「金子発言については心ない発言だったと受け止めざるを得ない。それで(アイヌの)団体は謝罪せよという要求は出してますね。ただ、彼も彼で、アイヌに難問を叩きつけたのさ。アイヌがいないってことはさ、アイヌはどこまでアイヌだと、どうやって証明するのかと」
さて、筆者は旭川市の市営旭岡墓地にやってきた。
この墓地は明治38年に作られ、昔はアイヌ墓地と言われていたという。旭岡墓地と名前が変わった今でも、この墓地に遺骨を納められるのはアイヌの子孫に限られている。
ただ、ご覧のとおり、ほとんどはアイヌ様式でない普通の墓である。最後にアイヌ様式の墓が作られたのは数十年前だという。
アイヌは本来土葬であり、墓標は木なので、放っておけば根本から腐って、最後は文字通り全てが土に還る。しかし、それはあんまりということか、アイヌ様式の墓は子孫によって時々建て替えられている。
全道でも同様の墓地は旭川くらいにしか残っていないということだ。
筆者が北海道で見た最もアイヌらしいものといえば、これだったかも知れない。
(次回へ続く)
石川一雄の墓も用意してやればいい
奴のような殺人鬼がのうのうと生きているのはおかしい
今すぐ身柄を拘束して死刑にしろ
石川一雄にどれだけ恨みがあるのかね?
狭山事件のことも、いつか取材して下さい。
石川の言動には矛盾が多く、真犯人(の一人)と見るべき根拠が多いのに、解同が言論界に圧力をかけた結果、冤罪論しか報道できなくなってしまい、非常にいびつな状況になっています。
狭山事件に関する本をいくつか読んでみたのですが、事件の真実はどうだったのかということについては、分かる範囲では語り尽くされた感がありますね。
私が狭山事件について取材するとすれば、事件本体よりも、多くの狭山事件本が避けている政治的な背景、部落解放団体の動きという視点でやった方がよいのではないかと思います。昭和50年代の狭山同盟休校について、石川一雄自身がどう思っているかについて興味があります。
ちょっと待った。狭山事件を追求するのはやめた方がよいと思う。
かかわった人間に不審死が多すぎる。
かなり危険すぎる。解放同盟以外にも、何か裏で動いているような気がする。
管理人は、今、全国部落調査を出版しようとして、解放同盟から糾弾されようとしています。
少なくとも、今はこれらの問題に専念した方がよいと思う。
どうしても追求したいのであれば、大きな案件が片付いてからの方が現実的だと思う。
1963年から1977年にかけ、6人の狭山事件関係者が変死している。
1963年5月6日 – 被害者宅の元使用人が農薬を飲んで井戸に飛び込み自殺。
1963年5月11日 – 不審な3人組の目撃情報を警察に通報した者が包丁で自分の胸を刺して自殺。
1964年7月14日 – 被害者の姉が農薬を飲んで自殺。
1966年10月24日 – 石川がかつて勤務していた養豚場の経営者の長兄が西武新宿線入曽駅~入間川駅間の踏切で電車に轢かれて自殺。
1977年10月4日 – 被害者の次兄が首を吊って自殺。
1977年12月21日 – 佐木隆三『ドキュメント狭山事件』の取材協力者として事件を追っていたルポライター集団「文珠社」のひとり片桐軍三が暴行死とも見られる変死を遂げる。
さらに
1963年5月 – 石川一雄宅と同番地に住む青年O(警察は彼と石川との共犯を疑っていた)が行方不明になった。
1964年3月18日 – 身代金受け渡しの際に被害者の姉の脇で犯人の声を聞いていた教育振興会会長が石川の死刑判決の直後に脳出血で急死した。
1967年2月14日 – 証拠品の腕時計の発見者である男性が控訴審の途中で死亡した(享年83)。
1968年1月28日 – 主任検事の原正が浦和市の自宅にて脳出血で急死した。
1970年12月25日 – ハンガーストライキ4日目(1963年6月22日)の石川を診察したことのある川越署嘱託医が行方不明となった後、タイの港に停泊中の船内で死亡しているのが発見された。
養豚場時代の石川一雄の同僚で、石川と前後して別件逮捕され(1963年6月3日)、共犯容疑を追及され、1966年7月に証人として公判に出廷した被差別部落出身の青年TA(逮捕当時23歳)が行方不明になったとされる
狭山事件は学園紛争とも関係があるようです。
安倍総理は左翼思想のない大学をあえて選んだ感じがしますね。
学園紛争といえば、こんな話を聞いたことがある。
現在、60代の人から聞いた話。
通っていた大学が狭山闘争に明け暮れ、同盟休校だったのか、全然授業ができていなかった。
これでは卒業できないのでいい加減授業を再開してほしいと抗議したところ、
「明日から、一人で歩くな。気を付けろ」みたいなことを言われたそうです。
当時は狭山闘争に逆らうと殴り倒されかねない雰囲気があったのは事実です。(今も変わらない?)
石川一雄を政治利用した勢力がいたと思います。
>当時は狭山闘争に逆らうと殴り倒されかねない雰囲気が
実際に殴られた人もいますよ。どんな社会運動も「いかにして敵を味方にするか」「いかにして、敵でも味方でもない人を味方にするか」が成功の鍵ですが、部落解放同盟の場合は味方をどんどん敵にしていった結果、ここまで凋落したといえるでしょう。
ttps://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%97%A4%E7%94%B0%E6%95%AC%E4%B8%80&oldid=55528681
部落解放同盟の運動に部落外出身者として参加したものの、1970年、「狭山差別裁判糾弾闘争に連帯する会」の運動をめぐり、被差別部落出身者Sから「おまえを糾弾する」と電話で通告され脅威を受ける。狭山事件における警察の捜査について藤田が師岡佑行の文章を転載した際、警察に対する批判のコメントを附さなかったのが差別である、というのがSの言い分であった。同年4月、Sは藤田を暴行しようとしたが、藤田の友人がそれを阻止しようとして顔面を殴打される事態に発展する。このほか、狭山同盟休校に異論を唱えた折、部落出身ではないために「部落民でない君に何がわかるか。わかるはずがない」と疎外を受けて差別者扱いされたこともあり、最終的に運動を離れた。
狭山闘争に逆らうと殴られた、って、恐ろしい話ですね。
朝田派は、すごかったんですね。
小学校で先生が、「しっ、解同の話をするな」といつまでも教えているから、
議論が出来なくなるんですね。
解同の話ができるのは、ネットの中だけですものね。
リア充出来るように、学校を変えていかないと。
>どんな社会運動も「いかにして敵を味方にするか」「いかにして、敵でも味方でもない人を味方にするか」が成功の鍵です
この点、解放同盟は戦略が下手だと思う。
たとえば、大阪市立桜の宮高校体罰自殺事件のとき、当時、桜の宮高校をつぶしにかかろうとしていた橋下市長に対して、ツイッターで「部落民のくせに」と書き込んだ学校関係者がいたのに糾弾しなかった。
周知の通り、当時、この学校は体罰自殺で世論から叩かれており、加えて、SNSでこの学校の生徒が喫煙、飲酒などをしていたことを示す画像が出回っており、自殺者は出るわ、喫煙、飲酒は常態化するわ、部落差別はあるわ、なんだこの学校は?という状況になっていた。だから、桜の宮高校を糾弾しようと思えばいくらでも糾弾できたし、この糾弾については世論も味方になりやすい状況だったのに、糾弾しなかった。
その一方で、先日のAGFの糾弾がいい例だが、ほんと、つまらないことで企業を糾弾したりする。結局、金がほしいだけなのかな。差別解消なんて考えてないだろう。叩けば金になる者しか糾弾しないのであれば、そんな同和団体など消えてなくなれ。全国部落解放協議会こそが、真の同和団体である。
追記
本来、こういうふうに、自由に議論できるのが健全な姿だと思うのだが、議論できない状況を作っていた勢力があったのです。安全保障や歴史認識にしてもしかり。
私の持っている本は、共産党が各大学に、部落解放研究会を作って
学生を集めて学習会をしていた所、解同朝田派が暴力で邪魔をしたり、
嘘のビラをまいたりして、部落解放運動の妨害をした。
どちらも石川さんを助ける、というのは一緒なのですが。
それが何度も何度も繰り広げられ、最終的には、裁判で解決、となっていました。
共産党の解放研の学生は、解同朝田派から解放研を守るために
全国各地、戦いに行ったそうです。今は解放研というと、朝田派ですよね。
左翼の内ゲバは思想に違いがあったからではなく、組織に
因縁や妨害をつけられ、それから守る事が始まりだったのかもしれません。
連合赤軍は暴力的ですごく恐れられていたようです。
結局、アイヌ語をふつうに話せる人はどんだけいるんでしょうか?
アイヌ語のネイティブスピーカーという意味であれば、いないですね。日常会話で使われる言語としては、既に消滅していると思います。
あとは学術研究の対象と、北海道各地の地名として残るのみです。