気鋭の文筆家・古谷経衡氏が講談社『現代ビジネス』(11月29日)に寄稿した論考「ネットを徘徊する怪物「差別的デマ」は、いま誰を餌食にしているのか」が物議を醸しだした。記事ではネット上にある「在日特権」「アイヌ特権」「沖縄批判」をデマと断じ左派や人権派には評価された。しかし一方的なデマ認定に保守派から漫画家の小林よしのり氏まで巻き込み批判や異論が噴出。一見はネット上でありがちな「場外乱闘」といった様相だが、これからのメディアを考える上で実に興味深い現象が見て取れた。
ファッション誌から出てきたデリッカー、ギャル男のような人物が報道番組、ワイドショーで政治や社会問題をぶった斬る。ここ数年、メディアで活躍中の古谷経衡氏である。2010年『日本文化チャンネル桜』に初登場しその後、キャスターを務めた他、保守系論壇誌にも寄稿。著書も多数で現在はメディア文化人やフリーアナウンサーを擁する「オフィス・トゥー・ワン」に所属している。国民的ニュースキャスターだった久米宏らを擁する大手芸能マネジメント会社の所属タレントになったのだから大変な出世だ。
現在は左派、または反差別活動家たちからも評価されるがその経歴は異色である。本格的な言論活動の出発点がチャンネル桜でかつては韓流ドラマの放送中止を訴えたフジテレビデモにも参加した経験を持つ。このデモをレポートした『フジテレビデモに行ってみた! 大手マスコミが一切報道できなかったネトデモの全記録』(青林堂)がデビュー作ということになる。この時期というのはむしろネット右翼にも擁護的なスタンスを取っており、保守派の論客、文化人として注目され始める。また今でこそテレビ、新聞といった一般メディアに出演するが、この当時は既存メディアの批判も得意分野としていた。
言論活動以外では元航空幕僚長の田母神俊雄氏が2014年、都知事選に立候補した際、応援演説に立った過去も見逃せない。しかしその後、主張の軸足を変えて現在はむしろ保守派・ネット右翼・ネット言説批判の第一人者に転身した。このため「保守批判」「ネトウヨ批判」といった趣旨の特集の場合、専門家としてコメントする機会も多い。不思議なことに過去の言動との整合性を問われることもない。
こうした活動歴からネット上では「手のひら返し」「変節漢」と批判されることも少なくない。今回取り上げる古谷氏の記事「ネットを徘徊する怪物「差別的デマ」は、いま誰を餌食にしているのか」も現在の古谷氏のスタンスが如実に表れていた。
同和利権の妥当性は関知しない不思議
記事の趣旨はタイトルだけで容易に判断できた。在日特権、アイヌ問題、沖縄問題に対するネット上の言説を「デマ」と批判するもので、それらを時系列で解説していく。ただ失礼ながら古谷氏以外の書き手でも執筆可能に見えた。ネットの過去記事をトレースすれば事足りる。要は講談社公式まとめサイトという域を出ない。過去、保守系メディア、保守運動のインサイダーだった古谷氏の記事という点に価値があるのだろう。だから主張自体は目新しいものではないが、ある記述に注目せざるをえなかった。この箇所である。
実のところ、この時期にネット上で自明のごとく言われた「在日特権」なるものは、シリーズ化され大ヒットした書籍『同和利権の真相』(宝島社、寺園敦史 (編), 一ノ宮 美成 (編), グループ・K21 (編) 2002年3月~)の中に登場する、近畿一帯で告発されたとされる所謂「同和利権」をそのまま「在日コリアン(在日コリアン)」に置き換えたもので、何の根拠も無いタダの妄想である(なお、本稿は「同和利権」言説の妥当性については関知しない)。
在日特権という用語が喧伝されるようになって久しい。確かに同和利権を「在日コリアンに置き換えた」という指摘は同意できる。ところがネット上にも「同和利権」という言葉は存在する。ならば古谷氏が強く批判する「在日特権」の元ネタになった「同和利権」を検証しない限り、記事は成立しないのではないか。在日、アイヌ、沖縄に関するネット言説は「デマ」と断じ、「同和利権」を関知しないということは裏返せば仮に「同和利権」にもデマ、誤解があった場合、それは看過・容認するという態度なのか? また記事ではその後、アイヌ問題に触れこう訴えた。「私も北海道出身だが、アイヌ特権など聞いたことがない」としている。
居住地が北海道だったことをもって「アイヌ問題」について言及できるならば、同和行政が盛んな京都の立命館大学卒という経歴は大いに語る資質がある。しかもご本人、大学時代に同和問題を研究していたと公言している。ならば同和利権にも踏み込むべきだが、要は当人も現代ビジネスも「触れたくない」のは火を見るよりも明らかだ。同和利権は真実だ、と言えば人権派や左派の面々は怒る、逆にデマと言えばアンチ同和層が怒る。こう双方を忖度したわけでもあるまいが、ともかく「同和利権の言説の妥当性については関知しない」という “ 行政文書的表現 ” で厄介な同和問題を回避した。本来、気の利いた読者ならばこの一文は不自然と感じるはずだ。
普段、示現舎を批判する活動家や学者の類もツイッター上などで古谷氏を擁護した。ところが彼らもこの一文については全く“関知 ”しないご様子。彼らはおかしいと思わないのだろうか? 在日特権・アイヌ特権・沖縄問題はデマ、同和利権は「関知しない」というのならば人権問題の中にも擁護される事象と、等閑にされる事象があるということだ。同じ人権問題なのにこの扱いの違いはなんだろう。
しかも擁護者たちは古谷氏自身の「偏見」に満ちた過去の投稿について全く問題視しない。 民主党政権時代、故・松本龍復興担当相(当時)が宮城県知事に放った暴言をめぐり、古谷氏は2011年7月4日のツイッターにこう投稿した。
松本よ、おまえは議員より隣保館の受付が似合ってるよ。福岡の恥、日本の恥、童話のの恥さらし。お前のせいでまじめに運動やってる同和関係者が迷惑。 (*原文ママ)
隣保館とは同和事業の受け皿になってきた施設だが、地域社会の福祉、文化事業、生涯教育、地域サークル活動の運営に関わっている。隣保館の必要性には疑問を持たれる部分もあるが、多くの隣保館職員は「まじめに」福祉行政を担っているのが実態で、それにもかかわらず隣保館の受付が似合う、というのは中傷以外の何物でもない。自分自身が「差別的な言説」を吐いて、ネット上の言説には目を吊り上げる。自身の言説については無自覚だ。
しかしながら古谷氏の功績も見逃せない。たまにメディア関係者、学者といった類から「同和は怖くない」「もうタブーというほどでもない」という意見を頂戴する。しかし天下の講談社とイデオロギー問題に精通する作家が避けて通るという以上、やはり社会的に「同和は怖い」「めんどくさい」「タブー」だということを逆説的に証明してくれた。講談社自体は、森功氏の『同和と銀行』、村山祥栄京都市議の『京都・同和「裏」行政 京都市会議員がみた「虚構」と「真実」』など同和問題の闇に迫った刊行物を出版している。ならば古谷氏もこれらの著書を引用して「妥当性」を検証すればすむ話だ。ところがこの記事の流れで、同和利権の問題点を書いてしまうと、同和利権については一部事実だが、在日、アイヌ、沖縄は「デマ」という不自然な流れになってしまう。もっとも支持者もそこまで深読みはしない。要は差別というキーワードに敏感でネット言説を憎む人々の癒し記事であればいい。かつアンチを巻き込んでアクセス数が稼げれば「尚可」が本音ではないか。
伊賀市の市民税減免はどう説明する?
また他にも気になる点が多々ある。デマと断じる割にその論証がまるでないことだ。もちろんある問題を「利権」と断じる以上、証拠が必要だ。しかし逆に「デマ」と断定することもまた論証が必要のはず。しかし記事を読んでもおおよそ実証的ではなくただひたすらデマを連呼している。
2007年に三重県伊賀市他複数の自治体で在日韓国人・朝鮮人の住民税が減免されていたという事案があった。古谷氏が目に留めているか分からないが、彼も寄稿している『嫌韓流2014』(晋遊舎)で著者は「在日特権 徹底検証」という記事を担当した。
この中で実際に伊賀市の減免問題を取材した。ところが事件が古いうえに、もともと減免措置は行政文書公開や住民監査請求などで明らかになったものではなく、別の事件の裁判過程で発覚したものだ。それに行政文書が存在していたとしてもすでに保存期間は過ぎていた。実際に議会で取り上げた元議員ですら原因が分からないと説明した。ただ市内には過去、民団・総連の事務所も存在し、在日の商工業者も多く、在日コリアン住民と伊賀市の間で「覚書」を交わしたと取材を通じて結論に至る。またこの企画では大阪市立大学の朴一教授にもインタビューを依頼し実現したが、伊賀市の減免問題については答えないという条件がついた。
民団・総連の本部にもそれぞれ質問してみたが回答はない。しかし少なくとも民団と総連はこの問題を調査し説明すべきだ。なぜなら伊賀市減免問題は「在日特権」の最大の根拠になっているからである。全く無関係の在日コリアンにもあらぬ疑いがある以上、団体として誤解を解くべきだ。関係者の対応も問題だが、古谷氏も「デマ」の一点張りでは全く説得力に欠ける。理不尽な話だ。古谷氏が「デマ」と訴えれば支持者から賞賛されるが、しかし検証なしで「デマ」と訴えているからそのフラストレーションは無関係の在日コリアンに向けられる。「差別」「デマ」と訴えるがその実、自身も在日憎悪に加担してることを知るべきだ。
アイヌ特権「小林よしのり」の知名度に便乗!
さて記事で最もヒートアップしたのはアイヌ問題かもしれない。その説は「民主党政権=在日政権」という敵を喪失したネット右翼が次の敵として「アイヌ」を持ち出したという。アイヌ問題については弊社もルポを刊行した。蝦夷地(北海道)にはもともと様々な部族が住んでいたが、「アイヌ民族」「アイヌ文化」と一括りにはできない――そんな結論をまとめた。一方、古谷氏は在日特権の代替として「アイヌ特権」が浮上したとの説明だ。アイヌ問題をめぐっては過去、古谷氏は 2010年6月7日のツイッター上でこう投稿した。
私は札幌市で生まれ、幼稚園・小学校・中学校・高校と全部札幌でしたが少なくとも僕の経験上アイヌ民族に対する差別は無い。完全に同化している。
かつてはアイヌ差別はないと訴えたが、現在はアイヌを擁護する立場に立つようだ。そして批判の矛先を漫画家の小林よしのり氏に向けた。
この運動の最前衛に立ったのは、漫画家の小林よしのりであった。小林は「アイヌ民族など存在しない」というトンデモな主張を繰り返し、「アイヌは北海道の先住民ではない」という妄想を漫画やブログで発表した。
これは小林よしのり責任編集『わしズム Vol. 28 日本国民としてのアイヌ』などアイヌ問題をめぐる同氏の主張のことだろう。小林氏の取材や論理展開は文化人類学者の故・河野本道氏やアイヌ工芸家、著述家の砂澤陣氏の考えを取り入れたものだ。弊社も両氏を取材している。「トンデモな主張」と言うならば「小林よしのり」ではなくて、河野氏や砂澤氏の主張を検証すべきだ。ところが古谷氏が標的にしたのは実は小林よしのりという知名度ではないか。その狙い通り、小林氏から批判されネット上でも大きく関心を集めた。もちろんアクセス数が伸びたことだろう。ネット商戦大当たりというわけだ。もちろん砂澤氏からも疑問が呈され公開討論が呼びかけられたが、古谷氏が応じることはなかった。
「小林よしのり氏への言及がありますが、砂澤さんの「す」の字もありません」という反論も彼らしい。しかしもっと注目すべきは古谷周辺のシンパたちが砂澤氏をネット上で罵倒していることだ。これは古谷氏の責任ではなくいわゆる「反差別」「人権派」という人々の最大の特徴、悪癖といってもいい。
同和、在日、アイヌ、沖縄、また最近ではLGBTもそうだ。人権派たちは「差別」と訴える当事者に対しては必要以上に持ち上げ、まるで「聖人」のように扱う。ところが奇妙なことにこうした言説に疑問を投げる当事者に対しては憎悪むき出しに罵倒、中傷を繰り返す。つまり保護される被差別当事者と、憎悪の対象になる当事者が存在するということだ。こういう人権派の現実を炙り出した点でも“ 古谷論文”の功績は大きい。
チャンネル桜は偏差値38、でも出たい
それにしても異様な上昇指向、自己顕示欲がメディアを通じても伝わってくる御仁。著述家・菅野完氏との対談「幻冬舎plus新春対談 第1回「日本会議」は政権を牛耳る黒幕なのか?」(2017年2月8日)は面白い。彼の人間性がよく分かる。「承認欲求を満たせる自己表現の場を求めていた」と実に正直だ。
僕がチャンネル桜で発言するようになったのは2010年頃からですが、当時は自営業で稼いでいたので、お金の問題ではなかったですね。正直に告白すれば、承認欲求を満たせる自己表現の場を求めていたんだと思います。それは、たとえば東浩紀氏や宮台真司氏のところでもよかったのかもしれない。でも、彼らの書くものは自分にとっては難しく思えて、敷居が高かったんですよ。大学入試で言えば偏差値68ぐらいだから、第1志望にはしづらい。それにくらべるとチャンネル桜は偏差値61ぐらいで、自分でも模試でA判定かB判定がもらえるレベルだと思ったんです(笑)。(中略)まさにそのエリートコースを踏みました(笑)でも、チャンネル桜に集まった人々と何年かつきあってみて、僕が彼らを過大評価してたと思い知らされました。渡部昇一さん(上智大学名誉教授)や長谷川三千子さん(埼玉大学名誉教授)をはじめ、名の通った論客が顔を揃えているから、まともな集団だと思ってたんですよ。でも実際にそこで仕事をしてみると、ファクトに基づいて議論するといった、メディアとして最低限の作法も身についていない。要するに「陰謀論」と「トンデモ」の巣窟なんです。偏差値61どころじゃない、言ってしまえば偏差値38だったんですよ。
嬉々として出演していた「日本文化チャンネル桜」に容赦なく唾をはく古谷氏は保守論壇とその支持層を偏差値38とした。対して宮台真司や東浩紀らリベラル系の表現物や活動場所は偏差値68と考えているようだ。なぜ古谷氏はこう思ったのだろう。 確かに左右問わず「陰謀論」に逃げる人は存在するものだが…。リベラル系の刊行物と保守論壇誌を比較してみると前者の場合、執筆陣は大学教授、ジャーナリスト、あるいは著名でなおかつ学歴もある活動家、弁護士が目立つのに対して後者の場合、権威や学歴を有する知識人も加わっているが匿名ブロガーなどネット上の活動が認められた執筆陣も少なくない。
これは保守論壇におけるネット言説の依存度の高さが挙げられる。偏差値はともかく「軽さ」「薄さ」はある。ただし保守派は偏差値38で、リベラル派は68という指摘に“妥当性 ”があるのか。こんな例を挙げさせてもらう。
10年ほど前か。とある大規模デモの会合に潜入したことがある。実行日までに都内では会議が開催され、デモの時の諸注意、海外の活動家の招聘、滞在場所の確保などを討議した。事の成り行きでなぜかデモ隊や抗議集会のお手伝いをすることになってしまった。そんな会議の一幕である。その筋ではかなり有名な活動家がリーダー格を務めていた。事前にレジメが渡され、次回の会議まで目を通しておくように指示されたから熱心に読み込んだ。
「ガサ入れの朝の対処方法」「外国人活動家の入国支援の諸注意」「公務執行妨害の対策」などかなり踏み込んだ内容で面白い。それを読んでおけという課題だ。そして会議を迎えた。するとリーダー氏は会議の初っ端から何やら不服そうだ。
「共有化が必要だからもう一度、全体で読み合わせるべきだ」
「全体で再確認して相互補完の必要がある」
こう全体での読み合わせを促す。しかし時間がないからとの反論があった他、各自で読むものだとの声も挙がったが結局、この時は改めて読み合わせを行い本題は次回に持ち越された。さして理論家でもない著者は単純に「相互補完かあ。 なるほど 」と感じていたものだ。しかし実態は少し違っていた。
別の活動家は吐き捨てるように囁いた。
「違うよ。あの人(リーダー格)は運動で知り合った女の子と遊ぶのが忙しいから読んでないだけ。自分が読んでないから討議に加われないでしょ」
自分の不手際を理屈で言い逃れしたわけか。故・鈴木善幸首相は会議ばかりを繰り返し具体案が出ない社会党に幻滅して自民党に転籍したと伝わる。なんだかそんなエピソードがよぎったものだ。ソマリア沖海賊の自衛隊派遣が国会で論議された際、野党から「何をもって海賊か」という異議が出た。「定義論」を持ち出してはいかにも「考えている体」を演じるのもあの世界の伝統芸だ。
学力的な偏差値はともかくとして、革新系の人たちはインテリに見せる努力をしているものだ。いかにも社会思潮的な態度を演じ、目の前にある現実を「小難しく」する傾向がある。それに左派のカルチャー誌やオピニオン誌の演出方法も見逃せない。グレースケールのグラビア写真でいかにも「煩悶する進取の論客」のような演出はありがちではない?
普通、世にモノを申すという立場の人は本来「難解な事象を平易に伝える」という努力が必要だろう。しかしリベラル系のお方、特に学者や研究者という人々は少し異なる。「難解な事象をさらに難解な言葉と表現で伝える」ということに陥ってはいないか? あるいは聞きなれない「学術用語」を振りかざす。また読み手も「それを理解できない自分がバカ」となってしまうから「難解なものほどインテリの証」とする風潮がリベラル系、革新系には長年あった。
古谷氏が左派論壇に「偏差値68」を見たのは「小難しくする演出」と「考えている体」という点かもしれない。逆に「許すな北朝鮮」「反日勢力を一掃せよ」といった単純明快な保守派の主張はFラン大程度と感じたのか。
古谷氏がリベラル論壇を偏差値68と感じたとすれば実はご自身も「小難しく語る」「難解なものほどインテリの証」という浅はかなテクニックに釣られたにすぎない。
あるいはこういうケースで考えてみよう。『週刊金曜日』と古谷氏も編集長を務めた『ジャパニズム』(青林堂)のどちらが高偏差値的なのか。現在の彼の言説から判断するに週刊金曜日を選ぶだろう。しかし実態はどうか? 週刊金曜日は各地域で「読書会」を開催している。ところが実際に参加してみるとみな意識の高さほどたいして読んでないのだ。つまり週刊金曜日を購入すること自体が、目的化している人が少なからず いる。赤旗を販売すれども『資本論』など読んだこともない末端の共産党員のようなものだ。
かといって居心地が良かった古巣への色気も残す。チャンネル桜でキャスターを務める経済評論家の渡邉哲也氏に今年2月27日、ツイッター上でこんな要請をした。
FF外から失礼いたします。渡邉哲也先生を「漢」と見込んでちょっとだけお頼み申します。私ch桜に出たく「万機公論に決すべし」の意気込みですが、2014年以降オファーが一切ありませぬ。もし表参道に行かれた折にはお頼み申します。不快なら黙殺して下され・・・。
この場合、「万機公論に決すべしの意気込み」というのも意味不明だが、ともかくこれがフォーマルな文章と思ったのだろう。かつての主張とはスタンスを変えつつもやはり右世界に後ろ髪を引かれる思いがあるようだ。チャンネル桜から左派メディア、罵倒から擁護、氏の著書に『日本を蝕む「極論」の正体』があるが、面倒見がいいことに著者自ら極論を渡り歩いておられる。
ゆるオピニオン時代の先端をいく開拓者
過去の発言について古谷氏や現代ビジネスは何を思うか。またネット上の差別を問題視しながらなぜ同和利権については「関知しないのか」。なぜアイヌ問題で河野氏や砂澤氏について言及しないのか? またこのついでに現代ビジネスには2年前、「全国部落調査」をめぐり作家の上原善広氏が弊社代表の宮部に取材をしたが、いまだに記事が掲載されていないこと。 これらを講談社・現代ビジネス編集部と古谷氏に対して12月25日を期限に質問状を送ったが回答はなかった。
もっとも明確な答えがあるなら、そもそも「関知しない」というご都合主義的な論理はなかったと思う。それに何よりもネット批判をしながら、実は「小林よしのり」という名前を持ち出してアクセス数を稼いだのはミエミエだ。現代ビジネスや古谷氏の方がむしろ実に「ネット的」である。しかし誰も責めることはできない。みなやっていることだからだ。
綿密な取材、調査、研究に基づいたノンフィクション、ジャーナル記事よりもブログ、まとめ記事やSNSを活用した小気味のいい罵倒芸が評価される「ゆるオピニオン時代」というのが現在だ。もちろんそれは一般メディアも同じである。内外に重大な課題があるにも関わらずメディアが勇んで報じるのは「貧困問題」「ヘイトスピーチ」。それも大方、市民団体に密着して集会やデモをそのまま垂れ流すだけ。挙句の果て、貧困女子高生を無理やり引っ張り出し、逆に彼女は中傷を浴び、プライバシーも丸裸にされたがまるで反省も弁明もなし。新聞、テレビもまた無責任でユルい言論空間を作り出している。要は一部の信者たちと「エイエイオー」と気勢を挙げればそれでよし。一般メディアもネットメディアもそんなレベルの報道に終始している。そんな最中、
「オピニオン王に俺はなる!」
といって出てきたのが古谷経衡なのだ。
左右の立場を問わずたった一つの投稿で著名人になれる、平凡な日常から脱してメディアの寵児になれるのがこの「ゆるオピニオン時代」。彼はその体現者だ。そんな時代には自身の言説に対する責任、整合性、事実関係、そんなものは無用。ネットの信者は問題にすらしない。少々の不都合が生じても同氏の著書『もう、無韓心でいい』ではないが 「もう、無関知でいい」のだ。そう無敵のフレーズ、関知しない。おそらくネット上にはオピニオン商売の志願者、第二の古谷氏を目指す予備軍が多いことだろう。そんな後継者たちにあえて成功の秘訣を贈ろう。それは「もう、無関知でいい」 ということだ。
>同和利権は真実だ、と言えば人権派や左派の面々は怒る、逆にデマと言えばアンチ同和層が怒る。こう双方を忖度したわけでもあるまいが
「あるまいが」ではなく、まさにその通りでしょう。同和利権の語はもともと日本共産党系統の刊行物で使われていたものですが、かつて同和利権追及の急先鋒だった寺園敦史でさえ、最近は同和について発言していません。松本龍による恫喝騒動の時「これが解放同盟の地金」とツイートした小池晃も、いつの間にかこっそりツイートを消してしまいました。要するに、日本共産党も含めて「火中の栗を拾いたくない」のです。
そもそも古谷レベルのフリーライターだと、自己の信念を貫くというよりは、編集部から要求された原稿を書く。研究者ではないので、発言に矛盾があるかどうかはどうでもよい。というのが身も蓋もない実態でしょう。
編集部のオーダーに応えるのはまあ仕事だからとしてもあそこまで
立ち位置をコロコロ変え、また周囲が許しているのがすごいです。
朝令暮改どころではない変節でも全く意に介さないのはメンタルが強いのか
おかしいのかわかりません。
たぶんチャンネル桜でも持ち上げられて保守運動の中でも過保護に
育ったんだと思います。
さらに言えば、「右翼」「左翼」「保守」「リベラル」といった政治思想そのものが帽子やネクタイのデザインと同じようなもので、大多数の人間にとっては単なるファッションに過ぎません。フリーライターはほとんどの場合、活動家ではなく単なる売文屋ですから、時代の流行に合わせて需要のある商品を作り、それを売ってお金を稼ぐだけです。
むかしは朝日新聞的な「なんちゃって左翼」「なんとなくリベラル」が流行の最先端を行っていたものの、ベルリンの壁が崩壊したあたりから右翼が流行りはじめ、ネットの普及やワールドカップ開催と歩調を合わせて嫌韓流ブームが到来し、『同和利権の真相』がベストセラーになり、浅田満や小西邦彦など同和のドンが次々と逮捕された時期を経て、一時期は排外主義が席捲したものの、保守界隈でも内紛が生じたり逮捕者が出たり民事裁判で負けたりといった不祥事が続き、今は流行が一周まわって「なんちゃって左翼」「なんとなくリベラル」がやや勢いを取り戻しつつあるように見えます。もっとも、最近は菅野完のような「真正保守を標榜しつつ『なんとなくリベラル』」というのが流行っているようです。
古谷のようなライターは、そのような流行に乗り遅れまいとしているだけではないでしょうか。
『ネットランナー』で「ぶっこ抜き」の記事を書いていた津田大介や、風俗誌で女装姿を披露していた安田浩一が「良識派」に転じてからの出世ぶりを見れば、心が動くライターは多いでしょう。「俺もあんなふうになりたい」と。
歳をとればどんどん仕事がなくなっていくし、青山正明のような悲惨な末路をたどりたくない、というのが多くのライターの本音ではないでしょうか。三品さんは将来について、どうお考えですか。
上原善広も若い頃は三流出版社のアングラ雑誌で書いていましたが、部落出身という出自を利用して同和ネタのノンフィクション作家として認められ、一流の出版社から本を出し、大きな賞を貰い、さあこれからという時に解放同盟から攻撃され、けっきょく謝罪に追い込まれました。
もう上原は部落を書けなくなるのではないでしょうか。特に、解放同盟から反発を買うような書き方をするのは保身の観点から難しいでしょう。
ビジネス右翼からビジネス左翼へ転向なさった鼻の利く芸人さんですよね?
ファッション右左翼やビジネス右左翼がいて、遠目に見る分には楽しいのですが同和についての言及をしないですよね、こいつら。
それも同和の話題を少し持ち出しておきながら。
しかも彼は同和問題を研究していたと言ってますからね。
それ以上に同和だけ「関知しない」というのはとても不自然なのに
編集部も読者も容認していることがすごく気持ち悪いんですよ。
擁護でも批判でもなく、ノータッチ。
こいつらはむしろ同和問題(といわれるもの)を紐解いていくべきだと思うんですけどね。
それをしないのはほんと不自然で“気持ち悪い”。
本来大手メディアが果敢に挑むべきなのに。
解放同盟岐阜県連の石井涼也の殺人未遂事件裁判を主催していたとき地元の中日新聞や岐阜新聞は
大久保のヘイトスピーチを記事にしていました。
この感覚のおかしさはなかなかわかってもらえませんが
要は、ネトウヨ雑誌の元編集長がネトウヨ界隈を「沈みつつある泥舟」と判断して逃げ出したということでしょう。
右翼出身で右翼批判に転じたライターといえば雨宮処凛もそうですが、雨宮ははっきり書いていますね。「最初に行った左翼の集会は、専門用語ばかりで何を言ってるんだかさっぱりわからなかった。次に行った右翼の集会は、ものすごくわかりやすかった」、しかし「自分のことを「左翼」と自称してみると、元赤軍派のオッサン(引用者註、塩見孝也)に、「マルクスも読んでないくせに何が左翼だ!」と怒られた」と。
雨宮さんの場合も居心地がいい場所が右翼だったのと見沢知廉への好意という気がします。
古谷氏の転身は現在の保守論壇事情も関係してると思うんですね。
ご承知の通り、左派は9条の一点で結束できる上、アベ政治を許さないという必殺の
フレーズがあります。しかし保守論壇の場合は反中、反朝韓、反共といった
イデオロギーではなく「損得」でつながっているのではないかと。
田母神さんや小川A太郎さんの梯子の外され方がその証左でしょう。
ある程度発言権を得た古谷氏にとって一般メディアで
キャリアアップするには右人脈などお荷物だから手を切ったのではないかと。
読み応えのある文章でした。
ネットの過去記事をトレースや、講談社公式まとめサイトという域というのは
なるほどと思います。
確かにネット右翼時代から今の振り幅は違和感がありますね。
古谷氏は「最近、私を知った人は私が「保守から転向した人」と思っているらしい。
知名度のこと故、致し方ない。ただ反米保守の青年古谷は、まさかこの国の
「保守」が「中国と韓国と朝日新聞をDisるだけのトンデモ陰謀論者」である
とは知らなかったのだ。よって正確には「保守に幻滅した人」と思って頂いて結構。」
と発言しているのに、ch桜に出たいと言うのも不可解です。
過去との整合性を批判されたり、過去の言動をばらされたくないので
良い関係を構築しておきたい、という意図もあるのかな、と思いました。
あるいは保守界隈のネタ探しも兼ねていたのかもしれません。
数日前にも
「現在のいわゆる保守論壇・界隈が、本当の保守であると思っているのでしょうか?
口を開けば韓国と中国への差別、罵詈雑言。権威のある老人保守論客は、
どんなトンデモな事を言っても許される。界隈は陰謀論と差別だらけ。
普通の知性があれば、そんな世界嫌になって、批判の対象とするに当然でしょう?」
とTwitterで発言しています。
ただ、ネット右翼ではないんだから保守はそんなに単純なのかなぁ?と思いますし、
この発言は印象操作のための極論にも感じます。
かつては保守論壇に身を置き、多くの論壇人と対談したり関わってきたけど
その人たちをその程度に見ていたことになるでしょう。
過去の自分を反省し、腐った保守論壇を変えたいのなら、そのかつての保守論壇の論者を
具体的に批判して見てはどうか、と思います。
「権威のある老人保守論客は、」と曖昧にして言ってます。
古谷氏は本格的に名指しで相手を批判することを避けてるように感じるし、具体的な名前を
挙げる時は相手を選んだり、論破できそうだったり、支持を得られそうな場合に感じます。
古谷氏の論考がボヤーッとしているのはリスクを避けるように書いているからかもしれません。
これは私の思い込みかもしれませんが。
著書でも批判対象をイニシャルにしたり、ぼかして書いていることがありますが、
なぜ実名で批判しないか不思議です。
古谷氏の著書『日本を蝕む「極論」の正体』では外部から監視や点検のない物言いを
極論として切っていますが、外部からの点検がなされるように実名で批判した方がいいでしょう。
本人が論争の当事者になることを避けているのではないでしょうか。
時浦兼氏が古谷氏を批判したり、アイヌ問題で砂澤陣氏が古谷氏に討論を申し込んだけど逃げていました。
香山リカ氏たちが小林よしのり氏を批判していたのに記事を書いた張本人の古谷氏は
逃げ回っていてひたすら賛同者の意見をリツイートしてました。
批判に正面から答えず、積極的に反論や議論をしようとせず、賛同者の意見をリツート
してるだけでは『日本を蝕む「極論」の正体』の「監視・監査されない『内向き』の組織や
団体の中での物言い」とあまり変わらないのではと思います。
倉持麟太郎氏との対談では、過去の自分を「彼らがデマとトンデモ陰謀論とヘイトしかない、
と分かっても、それを自分の功名心のために利用しちゃったんです当時。」
「一応韓国をディスっておきながら、なんでも書けるという時代が、今もちょっと
ありますけれども、当時は殊更あったんですね。 そういうのを私は利用したんですよ。」
と保守界隈を利用したと言ってますが、古谷氏は自由に書けるTwitterでもネット右翼のような発言をしていたので利用した面もあるけど本気で思っていたのではないでしょうか。
過去に保守論壇を利用して無責任な活動をしていたことを反省しているのなら無責任な態度は取れない筈です。
今はリベラルに受けることを言えばマスコミの仕事が来る、批判されても賛同者の意見を
リツイートしていればやり過ごせる、時々批判に応じて体裁を整える、左翼に転向したと
言われたら、保守は「人間の理性を信用せず、歴史や経験に価値判断の重きを置き、
社会を漸次的に改良していく」と言えば誤魔化せる、と思っているのかなぁ。
私の古谷経衡氏の印象でした。
こんばんは。初めてコメントします。
私は北海道に住んで50余年ですが、アイヌ差別の現場を見たことがありません。
また、北海道にはもともと被差別部落がなく、在日のかたも多くはないので、同様に差別に遭遇したことはありません。
ですが、「見たことがない」と「ない」が同じではないことは知っています。
実際、母に聞くと(母は市福祉課の元職員で民生委員でもあります)、〇〇(伏字にしておきます)という土地では、未だにアイヌに対する差別やいじめがある、とのことでした。
いまさらながら己の不明を感じます。
また、知らないことを恥ずるのではなく己の主張とする人がいるとは、こちらが赤面してしまいます。
差別をする人間なんて何処にでもいますよ。
アイヌからの和人に対する差別も酷いものです。
「シャモ、シャモ」って。
身体の大きなアイヌ系の子どもが、和人の子供をイジメたり。
その〇〇って云う土地だけで、全道を語れるんですか?
どんどん赤面して下さい。
1を知っただけで、100を理解したと主張できるご自身を。
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190522-00126961/
古谷経衡が書いている「「寝た子を起こす論」というのが沸き上がった」というのは「寝た子を起こす”な”論」の間違いでしょうな。でないと後段の「この「寝た子を起こすな論」は~」という記述と論旨が繋がりません。