部落は探訪することよりもむしろ、探訪するまでの過程に楽しみがある。文献を調査し、当たりをつけ、現地に行き、痕跡を発見する。これは、まさに考古学と言えるのではなかろうか。
何気なく見ている都市の風景でも、視点を変えてみれば、まるで過去にタイムスリップしたかのように、かつての農村や田畑の姿が見えてくる。今回は動画でもお伝えする。
今回目指したのは、町田市のもう1つの部落。1935年の記録では14軒、80名の、本町田にある「下村」という部落だ。
融和事業が行われていたのであれば記録があるかと思い、町田市の自由民権資料館を訪れたが、残念ながら手がかりとなる文献はなかった。
部落は街道沿いにあることが多い。鎌倉街道と鶴川街道の分かれ道にある菅原神社にやってきた。しかし、周辺は完全に都市化しており、見つけられそうな気がしない。
菅原神社は意外に大きな神社だった。中途半端な時期なのに参拝客がおり、お守りやおみくじも売られている。
神社には周辺の様々な神社が合祀されているようで、この藤木神社は最も新しいものだ。もとは菅原神社から100メートルくらいのところにあったが、造成工事で潰されることになり、昨年合祀された。
と、ここで白山神社も合祀されているという話を耳にした。関東の部落と言えばやはりかなりの確率で存在する白山神社だ。
合祀されたのは十数年前のことであるが、つい最近まで外側だけが残っており、撤去されたばかりだという。その場所はと言うと、ヒントは「本町田住宅」「ファミリーマート」「下地区」「物置」である。
これが本町田住宅。菅原神社の東に400メートルほどの地点にある。これは東京都住宅供給公社のもので、もちろん同和住宅ではない。
地図を見ると、近くにファミリーマートがある。
ファミリーマートに向かっていると、途中に防災倉庫があり「下地区」と書かれている。自治会名というのは地図には出てこないので、現地に行くか、あるいはストリートビューで見ないと分からない。かつての「下村」という名前が自治会名に受け継がれていると見て間違いないだろう。
物置の近くは小高い丘のようになっていて、斜面に住宅地がある。
坂を登ると墓場が。一見すると普通の住宅地だが、古い農村特有の曲がりくねった道があり、ここに古くからの集落があることは間違いないだろう。
多摩地区の部落は全て時宗であると言われる。墓には浄、阿、弌という字を含む戒名が刻まれており、この墓地の墓は間違いなく時宗の檀徒のものである。これで、ここがかつての下村部落であるとの確信が強まった。
さらに進むと、井戸と物置がある広場が現れた。
この石段は神社の痕跡ではないか?
実はストリートビューで2014年の状態を見ることが出来る。確かに、鳥居と祠がある。この時点では祠の中身は既に空だったと考えられる。
部落には、古くは農家だっと思われる大きな家、高級車が停まった新しい家、アパートが立ち並び、貧しい部落の面影はない。多摩地区の部落に共通することだが、都市化することで所有している田畑の価値が上がり、貧困から脱してむしろ金持ちになっていったと考えられる。
なお、墓地と同じく、前田という名字の家が多いようだ。
ここがもとは貧しい農村であったことを偲ばせる風景もほんのすこしだけ残っている。
ここは既に解放され、融和した部落である。「全国部落調査により、未組織の部落が差別にさらされている!」と住民に呼びかけたところで相手にされるのだろうか?
ヱタ(穢多)の語源については諸説ありますが、ヱトリ(餌取)の訛りであるという『塵袋』の説は疑わしいと自分は思います。柳田國男がいうように、発音が違いすぎるからです。むしろ本村に対する枝村の「ヱダ」の訛りではないでしょうか。
福島県会津坂下町の塔寺では、一区がないのに部落は二区と呼ばれています。なぜかといえば、部落が本村に対する枝村だからだと言われています。
塔寺に限らず、一丁目がないのに部落だけ二丁目と呼ばれているような現象が日本各地にあります。それは結局、部落(ヱタ村)が本村に対する枝村だからではないでしょうか。
「下村」「下町」「下宿」など「下」を冠した名称の部落が多いのも、本村に対する枝村だったことに理由があるのかもしれません。本町田の場合、「上村」(上地区)はどこに該当するのでしょうか。
『天狗草紙』(1296年)の「穢多童」が語源では?
今は面影が全くありませんが、
旧鎌倉街道と鶴川街道の交わる、現在の日向台交差点付近に本町田宿がありました。
養運寺の南側です。
「下」は電車で言う所の「上り・下り」と同じで、
この場合は江戸に向かって下手になるからのはずです。
布田五宿の地区にも見られる傾向ですが、街道の監視の為の配置ですので、
上京する者への牽制効果も考慮すれば、自ずと「下」のに配置されるのでしょう。
「下」と言う言葉に、これ以上の意味があるのかどうかは知りません。
一般でも「下村」「下町」「下宿」なんて、いくらでもありますので。
私も、上・下は地理的な位置関係以上の意味はないという説に同意です。
例えば鳥取の部落の例では、国安は上国安と下国安があり後者が部落ですが、円通寺は上円通寺の方が部落です。
この上・下は千代川を基準に川上にあるか川下にあるかという意味で、身分の上下とは無関係です。
地名の「上・下」は京都を基準にしているという説もありますが、そこはどうなんでしょうか。
東京だと下石原や下井草は上石原や上井草より京都寄りです。
×東京だと下石原や下井草は上石原や上井草より京都寄り
○東京だと下石原や下井草は上石原や上井草より江戸城寄り
下石原のあたり、なんとなく周囲に比べ取り残されたか感があります。馬頭観音もあります。部落だったのでしょうか?
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調布市のことでしょうか。とりあえず全国部落調査に記載はありません。
動画を見たが菅原神社まで手掛かり無しで菅原神社で知っている人にあったのか。
前田に田中とは横浜市瀬谷区竹村町と繋りありか。
やはり山中さんもやはり居たね。
本町田の番地の最期の4000番台だから行政もそれなりの目で見ているね。
はい、自由民権資料館でも手がかりがなかったのですが、菅原神社で知っている人に出会いました。
地名の「上・下」は京都を基準にしているという説もありますが、そこはどうなんでしょうか。東京だと下石原や下井草は、上石原や上井草より京都寄りですね。
山梨県甲府市下石田には1丁目がなく2丁目しかありません。
なお、上石田には1,2,3,4丁目があります。
不思議です。
1つだけ。白山社が合祀したのは明治35年の政府による複数の神社をまとめて遷座させる神社合祀の政策の時のこと。
十数年前というのは合致しない。
神社庁傘下ではない 「宗教法人菅原神社」 への合祀であれば、国策とは無縁に合祀されることはあるのではないですか?
崇敬者 (氏子) の実態がなくなったが、私設ではなく地域の歴史とともにあったものを、土地所有者がしかるべき社格の神社に合祀を願うというのは、割と丁寧な始末の仕方だと思えます。
土地建物の寄付や寄進を求められると、土地所有者と宗教法人の損得の問題になるが、公園にもできない広さの土地が 「字持地」 で公有であった場合は、自治体は宗教施設の経営はできないので、引き取り手があれば合祀した上で、土地を隣接地の所有者に払い下げるというのが、リーズナブルな手法として考えられます。 なので、私有地の中にある神社で金銭的価値のないものでも、由緒が明確で氏子不在なら、現在でも別の神社が引き取ってくれるのだと理解しました。 (お寺に永代供養を頼むようなものですか。 小さなお社の建立もしないのなら、ビジネスとしても楽勝。)
菊池山哉が書いとるんやな
本町田と南大谷の間は昔、六軒村と称された棍棒衆の部落
本町田の町屋の市場の取締り
これ連光寺の白山神社の奉納を見たら町田市の前田さんで分かったんだよな
その意味で小比企も分かるし調布の部落も分かる
ピンバック: 曲輪クエスト(112) 東京都町田市 下小山田町“南台” - 示現舎