J・マーク・ラムザイヤー教授『アイデンティティ政治の 発明について:日本における 被差別部落民』④

By 宮部 龍彦

On the Invention of Identity Politics: The Buraku Outcastes in Japanの日本語訳の続きを掲載する。前回はこちらを参照のこと

今回がこの論文の最後の部分だが、最も重要な部分である。近世の被差別身分が歪曲され、さらには被差別身分の子孫とは無関係な人を巻き込んで「被差別部落民」という架空のアイデンティティが作り上げられたことが主張されている。

VII アイデンティティ政治の発明、1922年から1945 年

A 背景

1910年代の終わりには、部落民は貧しかったが、極貧ではなかった。彼らが耕作する土地は、他の人々よりも小さい傾向があった。また、収入も低い傾向にあった。しかし、すべての部落民が貧しいわけではなく、裕福な部落民は地域社会に溶け込み、社会的・経済的インフラに貢献し続けていた。府県レベルでは、犯罪率や非嫡出率は高いが、自殺率やジフテリア、結核、栄養失調などは目立って多くはなかった。

肝心なことは、日本人が部落民という身分を、ゆるやかに継承された身分として扱っていたのではなく、特に機能不全な行動様式を表す言葉として使っていたことである。つまり、親が部落民であれば「部落民」と呼ぶのではなく、古典的な部落の特徴を備えていれば、(先祖に関係なく)「部落民」と呼ぶのである。また、「穢多根性」と呼ばれる「クラッカー」(訳注:アメリカ南部の白人低所得者層を指した蔑称)のような掟によって生活し、犯罪率が極めて高く、家族がほとんど崩壊している地域を「部落」と呼んだのである。

スラムに対する都市住民の対応は、「穢多」や「部落」という言葉を、血統ではなく行動を表す言葉として使うことを示している。例えば、神戸や京都では、部落民であろうとなかろうと、都会に出てきた貧しい労働者が、部落であった場所に安い住宅を見つけた。このような労働者は、「部落民が受けると同じ差別」を受けることになったと、(異端的な)活動家である歴史家の藤野(2009:23-24)は書いている。これとは対照的に、横浜では、貧しい移民たちが、部落の中心地ではない地域に2つの大きなスラムを作った。横浜の人々は、部落との歴史的なつながりがないにもかかわらず、この2つのスラムの住人を「穢多」と呼んだ。「穢多村」と呼ばれていたのは、穢多の居住地域のことである(藤野2009:24-29)。つまり、部落の規範に沿った生活をしていたということであり、それを受けて他の市民も穢多村と呼んだのである。

もし、一般市民が「部落」や「穢多」を家系を特定するためではなく、行動を説明するために使用していたとしたら、1920年以前の部落の地位が犯罪や非合法性と相関しているという結論は、単なる循環論法になってしまう。確かに、近隣の人たちがある場所を「部落」と呼ぶのは、以前からの住人が何十年も前から「部落」と呼んでいたからである。しかし、単純に犯罪や非行の多い地域を指して「部落」と呼ぶこともあった。

しかし、1922年、この状況が一変する。

B 水平社

貧しいながらも極貧ではないこれらのコミュニティでは、1922年にアイデンティティ政治が、激しく公然と行われた。この10年の間に、部落の上流階級の若い知識人と、犯罪的な部落の企業家が一緒になって、まだゆるやかにしか認識されていない共同体のために、新しく、より明確に定義された、ほぼ架空の集団的な仮面(ペルソナ)を考案した。その過程で、彼らは、主流の職業ではなく犯罪に投資することを選んだ部落民に報い、代わりに日本において標準的な行動規範で生きることを選んだ部落民を追い出し、部落民に対する世間の敵意を徹底的にエスカレートさせ、組織犯罪と公的補助金をさらに増加させるような、利益を得られるゆすり戦略を打ち出した。

1921年11月、奈良県橿原市の若い部落民数人が集まり、「解放」運動を起こした。ボリシェヴィキや無政府組合主義など、一般民の仲間たちがさまざまな組織を作っていたが、彼らは自分たちだけの組織を作ろうとした。彼らは、「全国水兵社」と名付けることにした。そのために、彼らはまず部落を、皮革職人のギルドに先祖を持ち、真の差別の歴史を持つ「被差別民」コミュニティと再定義した。

1922年3月、部落民の知識人は京都で4,000人規模の集会を開き、団体の結成を宣言した。共産党宣言にならって、「全国の部落民よ、団結せよ」と呼びかけた。(京都1922:3、長谷川、1927:12-13、17)

若者たちはすぐに京都に連盟本部を設置した。最初の1年間で、大阪、兵庫、奈良などの8つの部落民が顕著な府県に、府県水平社を設立した。さらに数年後には、さらに多くの水平社を設立した。

若者たちは、あらゆる中傷に対して、「徹頭徹尾」(京都、1922;長谷川、1927:17)対応することを誓った。彼らは「糾弾」という言葉を作ったが、それは後に紅衛兵やクメール・ルージュが中華人共和国やカンボジアで強要する「自己批判」に近いものを喚起するためのものであったようだ。部落民を侮辱する者がいれば、彼らは仲間を集めて暴徒化する。運がよければ、発言者は自虐的な態度をとるだけで済む。時には、残忍な暴力や金銭的なゆすりを受けることもあった。

この言葉は新しいものだが、戦略は新しいものではない。部落民は数年前からこの手口を使っていた。1909年、彼らは中傷を受けたとして岡山県の村長を襲撃した(渡辺, 1965:717)。また、1916年には、福岡県の地方紙に掲載された侮蔑的な記事をめぐって暴動を起こしている(高山, 2005:53-58; 福岡, 2003:58-60)。1910年には、京都府の村長による自分たちへの呼び方に腹を立てて、村長を撲殺した(京都部落、1995年)。

『共産党宣言』を引用していることからもわかるように、創始者たちは極左主義に忠誠を誓っていた。ロシアでは1917年末にボリシェヴィキが政権を取った。1920年代初頭の日本では、極左団体が労働者を組織し、革命を起こそうとしていた。警察はそれらを監視することに全力を尽くした。水平社もその一つとして注視されていた。

1924年になると、自称ボリシェヴィキが水平社を乗っ取ったように見られた。1920年代の日本の多くの過激派団体と同様に、相対的な穏健派、無政府組合主義、レーニン主義のボリシェヴィキが水平社の支配権をめぐって争っていた。そして、他の多くのグループと同様に、この戦いは、少なくとも当初はボリシェヴィキが勝利したように思われた。<長谷川(1927:93-94, 102-03, 148); 高山(2005:199-204)参照。> ボリシェヴィキによる乗っ取りのきっかけとなったのは、警察のスパイと称される人物の存在だった。1924年末に反乱分子と宣言された穏健派の中には、警察から雇われた情報提供者がいた。その後の混乱の中で、ボリシェヴィキは役職者を粛清し、主導権を握った。

C 架空の過去のイデオロギー的起源

部落の正統的な自伝、つまり、事実上すべての西洋の記述が拠り所としている歴史(上述のII節で詳述)は、この時代に始まった。1920年代から30年代にかけて、日本の知識人たちは、マルクスとエンゲルスが描いた精巧な図式に当てはまる歴史を書こうとした。党に忠実な人たちは、コミンテルンからのより詳細な指示にも応えようとした。

ほとんどの学者にとって、マルクス主義の図式とは、徳川時代を封建主義の一種であると記述することであった。必然的に、徳川幕府を厳格な階級制であるとする必要があった。つまり、徳川幕府は固定された身分階層を強制し、カワタを最下層に追いやった。

第二に、この図式では、幕府は冷酷なまでに搾取的であり、農民は悲惨なまでに没落していると表現する必要があった。この目的のために、著述家たちは、徳川の経済は緊縮しており、カワタは最も貧しい存在であるとした。徳川幕府は、農民を残酷なまでに貧しくし、カワタをさらに貧しくしたのである。

第三に、イデオロギーに忠実であるためには、マルクスが『ドイツ・イデオロギー』の中心に据えたギルドによって徳川の産業と商業の世界を記述する必要があった。歴史学者の峯岸賢太郎(1996:224-25)は、水平社の活動家やそれに関連する知識人が、皮革工芸の先祖を想像して部落を定義したことは、ドイツ・イデオロギーのこの重要性を反映していると説明している。マルクスがエッセイで描いた歴史に合わせて、つまり、活動家や作家がカワタを皮革職人のギルドに変えたのである。少数の村のカワタは確かに屍を扱っていた。少数の町のカワタは革をなめしていた。マルクスはギルドを必要としていたゆえに、カワタは革職人のギルドとなったのである。

1920年代に入ると、部落の歴史家たちは、この新たに生まれたアイデンティティ政治を追い始めた。高橋貞樹がこの事業を始めたと、歴史家の黒川(1989:92-97)は、1924年に発行されたグループの歴史を書いている。部落に生まれた高橋は、水平社の創設に尽力した。その後、密かにソ連に渡り、ソ連共産党に入党してコミンテルンの一員として活動することになる。歴史学者の中では、京都大学の井上清が最も著名であると、黒川氏は続ける。彼は、伝統的なマルクス主義の原則に則って部落の体験を記述するだけでなく、コミンテルンの1932年の指令に忠実に、適合する部落史を作ることに尽力した。

現代の研究者にとって、このような20世紀半ばのマルクス主義の前提は、奇妙な議論を引き起こすことがある。マルクスは農民から農奴へ、農奴から奴隷へと辿っていった。部落民は自分たちの先祖を先史時代の奴隷にまで遡ることができるだろうか(例えば、渡辺、1965:16-18、菊池、1961:56)。答えは、否である。16世紀の武将である織田信長は、何度か激しい農民の反乱に直面した。彼は反乱に参加した罰として、部落民の先祖を穢多非人の地位に追放したのではないか?(例:船越、1976; 寺木、1996:4-5章)もう一度言うが、答えは違う。信長は通常、敵対者を虐殺するだけだった。また、階級的な階層が先で、蔑まれた職業に就くのはその後だったのか? それとも、職業が先で、階級構造が後だったのか?(寺木、1996:19-20; 渡辺, 1963:8-9) 答えはこうだ。マルクス主義は、歴史家がコンセンサスを得る前に大学から消えていった。

時折、最も過激な部落活動家(例:朝田、1979:297-98)は、徳川幕府が広範な農民階級をより効果的に抑圧するために、彼らの先祖を意図的に穢多非人の地位に置いたと主張した。ニアリー (1989:18; 大貫-ティアニー 1989:94)が表現しているように(明らかに賛同しているように)、幕府が部落民を酷使したのは、「自分たちよりもさらに悪い境遇にある集団がいることを思い出させることで、農民や都市住民の反発心を抑えるため」だったのである。しかし、この説は日本の多くの本格的な学者が支持したものではなかった(斎藤と大石, 1995:56参照)。

D 水平社の地理的特徴

1 検証

どのようなコミュニティが水平社の支部(部落水平社)を組織しているのかを調べるために、まず単純なOLSを使ってみた(ここでも、都道府県レベルのデータに関する通常の注意点が適用される)。その結果、部落民が支部を組織しているのは、部落民が集中している地域、都市部、部落民の富裕層が集まっている地域、一般民との結びつきが比較的強い地域であることがわかった。

従属変数として、結成から10年後の1933年に、府県に存在した水平社の支部数をとる。

水平社BO 1933
渡辺(1965)に示されている、水平社の支部の数である。

統制としては,説明変数の値を水平社が全国的に形成される直前の値とする。基本モデルでは、支部数が反映すると仮定した人口に占める部落民の割合(%)(部落民PC 1921)、部落民の一般人口への統合の程度(外婚1921)、府県の都市化(密度1921)、部落民の中の富裕層の割合。裕福な部落民の割合の代理として、筆者は以下を作成した。

部落県民有権者数PBC (部落民一人当たり) 1921
内務省(1921)に示されている、府県知事選挙で投票できる部落民の数(所得に応じた参政権)を部落民全体の数で割ったもの。

さらに、以下を構築する。

部落犯罪率、PBC
1921年に罪を犯した部落民の数を部落民全体の数で割ったもの、内務省(1921)。
部落の生活保護、PBC
1921年に生活保護を受けていた部落民の数を部落民全体の数で割ったもの、内務省(1921)。
部落農業率
1935年に農業に従事していた部落の世帯数を部落全体の世帯数で割ったもの、中央融和(1936)。
解放令反対一揆
1871年の解放令反対一揆が発生した県は1、それ以外は0、稲垣他(1993)による。この変数は、幕末の部落に対する地元の敵意の度合いを表す。

2 結果 結果として得られた回帰結果を表9に示す。その結果、いくつかの分かりやすい結論が得られた。

表9:水平社の支部の位置

A.基礎回帰 帰属変数

従属変数 水平社支部、1933
部落民PC 21 3.760***
(1.088)
外婚21 10.305
(18.298)
密度21 0.000112**
(5.19e-5)
部落県民有権者 541.60***
(182.59)
n: 42
調整後R2 0.36

B.追加の回帰分析1933 年の水平社の支部数をパネル A で与えられたコントロール変数と以下の追加独立変数で回帰する。

殺人率 20 総犯罪率 20 部落犯罪率 21 部落非嫡出率 21 部落離婚率 21
係数 96404 29.194 223.91 6.3198 -11.884
標準誤差 (137034) (336.52) (225.80) (13.004) (24.084)
調整後R2 0.35 0.34 0.36 0.34 0.34
部落公的扶助 部落農業 部落の大きさ 21 ヒニン率 反解放暴動
係数 -528.87 0.8186 -0.0023 -14.444 -0.5976
標準誤差 (864.44) (6.202) (0.0130) (10.921) (2.447)
調整後R2 0.35 0.34 0.34 0.37 0.34

注記: *, **, ***:それぞれ10%、5%、1%の水準で統計的に有意。OLS 回帰。回帰係数の後に標準誤差を付した。すべての回帰には定数項を含む。

出典: 本文および表1参照。

第一に、一人当たりの部落民の数の係数は正であり、有意である。部落民が比較的多く住む地域に水平社の支部が組織される傾向があることがわかる。第二に、人口密度の係数は正で有意であり、水平社は都市部の現象であった。<代わりに部落民の数(一人当たりの部落民の数ではなく)を用いると、部落民の数の係数は強く有意であり、密度の係数はもはや有意ではない。>

さらに、2つの不思議な観察結果がある。第一に、選挙権を持つほど裕福な部落民の割合の係数は正であり、有意である。水平社の支部は、裕福な部落民が部落の中で大きな割合を占めている場合に多く見られる。初期の水平社でのボリシェヴィキと無政府組合主義の論争を思い出す必要がある。このような議論をするためには、少なくともトロツキー、レーニン、クロポトキン、プルードンなどの知識が必要である。必然的に、これらの名前や思想に精通しているということは、教育に熱心な家庭に育っていることを意味する(例えば、青木、1982:74)。

第二に、外婚率の係数は有意ではない。すなわち、支部の数は、部落と一般住民の間の交流の度合いとは相関していなかったようである。しかし実際には、この観察は誤った方向に導いている。外婚率と支部数の間の一対の相関は-0.26であり、10%の水準でほぼ有意である。つまり、部落民が自由に交流している地域では、水平社の支部を設立することは少なかったと考えられるのである。この係数が回帰において統計的に有意でないのは、独立変数の間に強い相関関係があるからにほかならない。

以下の独立変数は、いずれも水平社の支部設立とは関連していない(パネルB参照)。部落の所得(有権者の割合で表される)を一定にした場合、水平社の支部は犯罪率とは関連しなかった。同様に、部落の非嫡出率、部落の離婚率、部落の生活保護依存度とも関連していない。また、農業に従事する部落民の割合や部落の規模とも関連していない。また、1868年の部落の非人とカワタの比率とも関係していない。また、1871年の解放令に伴う解放令反対一揆とも関連がない。

E ボリシェヴィキから日和見主義者へ

1 松本

無政府主義者がボリシェヴィキに勝てないとすれば、ボリシェヴィキは部落の裏社会に勝てないとすぐに分かる。その後、数年の間に、水平社の支配権は再びボリシェヴィキから、ほぼ非政治的な犯罪企業家たちに移った。この企業家たちは、水平社による新しい架空の歴史を利用して、民間企業や地方自治体からますます多額の資金を搾取するようになった。犯罪者になる機会費用が最も低い部落民は残り、この新しい犯罪集団から失うものの方が大きい部落民は立ち去って一般社会に移行するという、古典的なベッカーの論理に従った選択的な移住が行われた。

1923年初頭、福岡の建設会社の社長である松本治一郎が、水平社の全九州支部を組織した。彼の出世はめざましいものがあった。1925年の初めには、全国の水平社の中央委員会の委員長になっていた。<長谷川(1927:52,84)、福岡(2003:67)参照。>

1924年に発見された「警察のスパイ」のことを思い出してほしい。明らかに、警察は内部の人間にお金を払って、極左グループを監視していただろう。もちろん、ボリシェヴィキも、穏健派のライバルを粛清するために、警察のスパイの話を利用したかもしれない。しかし、長谷川(1927)は、警察の情報提供者はあり得ないと考えていた。長谷川は検事として活躍していたが、おそらくエリート集団の中にいたのだろう。また、長谷川は水平社の犯罪に対してもよくく取り組んでいた。1920年代半ば、中央人事部は長谷川を研究職として出向させ、全国の検察官のために水平社に関する情報をまとめて本にするように依頼したようである。長谷川は驚くほど鋭い文章を書いた。長谷川は、警察が内部の人間に金を払った可能性を完全には否定しなかったが、それよりも松本とその仲間たちが自分たちの主導権を握るために話をでっち上げた可能性の方が高いと考えた。<長谷川 (1927:77-78, 84); より一般的な解釈についてはバイリス(2013:207 n.93); 朝治(2009:ch.8)参照>

歴史家のニアリー(2010:1)によれば、1970年代の部落の家族は、松本の肖像画を、死んだ先祖の写真と並べて「神棚」に飾っていたという。確かに、戦前の部落解放運動において、松本ほど派手で大げさで、時には異様に暴力的な人物はいなかっただろう。しかし、これほどまでに部落の犯罪社会を象徴した人物もいないだろう。長谷川(1927:181)自身も1927年に「犯罪組織の親分と思っている人が多い」と発言している。そう言われる通り、松本はすでに地元の芸者を買い上げて愛人にしていたと記している(長谷川、1927:181)。

1887年、福岡市近郊の部落の農家に生まれた松本は、16歳で九州を離れ、京都の中学に入学した。普通子供は13歳で離れるはずである。松本は自分の意志で京都に行ったのではないかと、彼の伝記作家である高山文彦は好意的に見ている。しかし、彼は、理由はどうあれ、自分が安全にいられなくなったために京都を去ったのではないかと考えている(高山, 2005:29)。

数年後、松本は中国北部に向けて出航した。薬を荷車に積み込み、「一等軍医」を名乗って旅をしたのである。検査をし、診断をし、患者に薬を売った。需要は高かった。「物が売れた」と後の秘書は言った。「歯磨き粉をパックに入れて胃腸薬と言っても売れる。それでも売れる」。松本にとって不幸だったのは、偽薬を売る詐欺師が日本の悪名を広めてしまったことだ。1910年には日本領事館に追い出されてしまった(高山, 2005:38-39)。

2 暴力

福岡に戻った松本は、1911年に建設会社を設立した。兄が経営し、自分が労働者を取りまとめていた。その仕事の多くは、地元の鉄道のために行われていた(高山, 2005:46)。1923年(大正12年)3月には、松本建設の従業員が、ライバル会社である松尾建設の従業員と口論になった。両社とも地元の鉄道会社の仕事をしていたのだ。しかし、解放同盟による聖人伝的な記述(部落 1987:74)によれば、その慣習は、落札した会社が競り負けた会社に利益を分配するという了解のもとに、入札を不正に行うことであったという。松本の会社は落札したにもかかわらず、その利益を分配することを拒否した。

喧嘩の夜、松本の会社の社員3人が、ライバル会社のオーナーである松尾幸太郎が泊まっている旅館に行った。松尾が玄関に来ると、彼らは松尾を殴った。その場にあった自転車をつかみ、それで松尾を殴った。他の松本の会社の社員も加わって、刀で松尾に襲いかかった。夜更けには松尾は死んでいた。

翌日、松尾の社員が通夜に参列していると、またもや松本の社員50人が集団で押しかけてきた。石を投げ、扉を踏みつけ、刀を抜いた。松尾組の3人は重傷を負った。警察は、松本の社員30人を逮捕した。松本自身も逮捕されたが、結局、殺人現場にはいなかったという理由で釈放された。<高山(2005:144-47)、部落(1987:74)、福岡(2003:68)などがある。>

松本は、水平社の九州支部長として、徳川幕府の後継者である徳川家達公の爵位を返上することを要求した。松本は、徳川家達公の先祖が残忍な支配をしたために部落民が苦しんだと断言した。無慈悲な弾圧への反省から、彼は返上すべきだという。徳川はそれを認めなかったため、松本は水平社の若者に銃とナイフを持たせて東京に送り込んだ。松本は自分の犯行を認め、4カ月の懲役に服した。しかし、実際には、松本の信奉者が東京に行き、徳川家の屋敷に侵入して家を燃やすなど、攻撃は続いた。<長谷川(1927:29, 43-45); 高山(2005:l82-198, 203); 福岡(2003:68)。>

水平社では、銃を使うことは稀だったようだ。松本は徳川の暗殺計画のために拳銃を調達したが、他の水平社は銃を糾弾の場に持ち込むこともあった(長谷川, 1927:47-49)。戦後の解放同盟のリーダーである朝田(1979:34-35, 52)は、水平社の行事に銃を持ち込んだことを回想している。また、同僚も銃を持っていたと語っている。部落に建設会社が多かったことと関連してか、水平社は爆発物も入手していた。朝田は活動にダイナマイトを持ち込んだことを回想している。1926年、松本が在郷軍人と争いを始めると、争いは急速にエスカレートしていった。松本らは軍の基地を爆破することにし、松本はそのためのダイナマイトを手に入れた。<解放同盟志向の学者は、警察がダイナマイトを仕掛けたと主張している(例えばバイリス、2013:208 n.995)。長谷川(1927:30, 38)は、水平社が同僚に、警察が金を払ってダイナマイトを仕込んだと自白させたと書いている。この物語と一致するように、政府はその同僚に自白を強要したとして水平社のメンバーを切り捨てたのである。>

3 恐喝

水平社の糾弾は、最初から単なる恐喝に近いものであった。松本が全国の水平社を掌握すると、九州支部のメンバーは地方の会社を恐喝した。1925年から1926年にかけて、警察の記録で、福岡の水平社が糾弾で脅して、現金で解決したことが8回あったという(長谷川, 1927:56-62)。しかし、一般的に水平社にとっては、地方自治体が最も簡単にお金を約束してくれた。糾弾といっても、実際に差別があったものはほとんどない。代わりにほとんどが蔑称を巡ってであり、その多くは学校での子どもの嘲笑であった。しかし、1922年には69件であった糾弾は、1924年には1,046件、1925年には1,025件に達した(長谷川、1927:1-2)。

典型的なケースとしては、ある子どもが他の子どもを「エタ」と呼ぶ。部落の子どもは親に言いつける。その親は相手の親から謝罪を受ける。彼らは教師に「ちゃんと教えていなかった」と謝罪を求める。学校の校長にも、教師を適切に監督しなかったことについて謝罪を求める。嘲りを止めなかった警察を攻撃する。最終的には、学校を適切に管理していない地方自治体に矛先を向け、地元の部落への補助金を要求することになる(青木、1998:143)。

4 結果

水平社の派手な犯罪行為は、部落に対する世間の警戒心を高めた。このような水平社の戦術を前にして、世間は関わらないことに全力を尽くした。京都府警の報告(京都、1924:258)によると、水平社が大きくなるにつれ、庶民は社会的部落と反社会的部落を区別しなくなり、すべての部落を疑いの目で見るようになった。「ほとんどの部落民が水平社に反対していることは気にかけない」「水平社の暴力的な手法は、その同情心をなくしてしまった」と警察は報告している。

しかも、それまで部落民を雇っていた雇用主は、部落民を解雇するようになった。京都府警はその様子を1924年に紹介している(京都, 1924:260)。

織物、紡績、染色、電気製品、鉄鋼、陶磁器などの大小の工場、道路工事、庭師、各種の商人など、一般市民や部落民を雇っていた雇用主が、このような状況になったのである。しかし、水平社の運動が始まってからは、差別を理由にした労使間の紛争が起こり始めた。雇い主の中には、部落民を一切雇わないという人も少なくない。実際、部落民を解雇するために、経営悪化を宣言して全従業員を解雇する企業もある。そして、一般市民だけを雇い直すのだ。

そして、部落民は地域を離れ始めた。このようにして部落から出て行った人たちは、部落の社会的・経済的インフラに貢献した、より成功した部落民であったと考えられる。図1を見ると、1870年から1935年までは、部落の人口は一般の人口とともに増加していた。1935年以降は、一般人口が増加する一方で、部落民は100万人前後で停滞している。部落民は出生率が下がったのではなく、単に出て行ったのである。

ハーシュマン (1970)の古典的な定義によれば、部落民は「退出」のコストが低い。部落民はグループを抜けるために、名前を変えたり、外見を変えたり、話し方を変えたり、宗教を変えたりする必要はなかった。ただ移動すればよいのである。地域の指導者と戦う(ハーシュマンの「声」を行使する)ためには、松本や犯罪組織と対決する必要があった。退出のコストが低いことから、主流の職業に就くことを選んだ部落民は、声を上げようとはしなかった。代わりに、1930年代以降、彼らは大量に退出するようになったと見られる。

VIII 戦後部落のゆすりの政治

A 序論

1920年代に松本が台頭してきた頃から始まった水平社の裏社会とのつながりは、戦後になって中心的なものになった。戦後、水平社の後継団体である解放同盟は、極左の趣を残していたが、それはあくまでも趣に過ぎなかった。解放同盟は、何よりもまず、暴力の脅威を利用して政府を揺さぶり、部落固有の収益を引き出すことに専念した組織である。そして、建設契約や土地売買契約を巧みに操り、そのお金の大部分を個人の口座に流していたのである。

1946年初め、松本、朝田を中心とした元水平社の数人が、それまでの名称を改め「部落解放全国委員会」と名づけて再結成した。松本は1936年に国会議員に当選し、1947年には日本社会党から再選している。そして、1955年には「部落解放同盟」と改称した。

解放同盟は、アイデンティティ政治を目的としていた。階級政治ではなく、この区別が重要である。解放同盟の特徴は、部落への補助金を徹底的に追求したことである。貧しい人々への補助金は求めていなかった。1950年代の日本では、多くの人が貧しかったが、そのほとんどは部落民ではなかった。また、部落民の中には、全く貧しくない人もかなりいた。

この議論の中で、2つの点に注意してほしい。第一に、先に述べたように、部落民は、近代以前の伝統的に不浄なギルドの子孫ではない。それどころか、瀬戸内海に周辺地域に限定された、非公式な集団である貧農の子孫に過ぎない。戦後間もない頃、多くの日本人が彼らとの結婚や雇用を避けていたとしたら、その理由はあまりにも誇大に考えられ過ぎていた。もし民族差別が合理的であるとすれば、それはこの場合は合理的であった。暴力犯罪、非嫡出子、犯罪組織が部落では重要な役割を果たしていたことを考えれば、部落出身者との結婚や雇用を望まない日本人がいたことを理解するのに、慣習的な純潔性は必要ないだろう。

第二に、建設事業は不正行為の大きな機会となった。1980年代になると、この機会は派手に利用されるようになった。部落民ジャーナリストの角岡(2012:53-54)は、「解放同盟の会員が暴力団の現役または元構成員であることは珍しくなかった」と書いている。「ある人は差別への怒りから[水平社・解放同盟の象徴である]茨の冠をかぶって出陣した。ある人は[政府が出資する]同和対策の[建設]事業で一儲けしようとした。いずれにしても、歴史的な反差別団体には、ヤクザの現役・OBが要職に就いていた時代があったのだ」

B オールロマンス

解放同盟リーダー朝田善之助は、戦後になって最初の大規模な行政へのゆすり行為を行った。1951年、『オール・ロマンス』誌に「特別部落」という短編小説が掲載された。この物語は、杉山(1951年)というペンネームで書かれたもので、京都の部落に住む理想的な若い医師と朝鮮人密造酒製造業者の娘との間の、やや悲哀ではあるが、優しい愛を描いたものであった。

杉山は部落の窮状を共感と憐憫の念をもって描いているが、部落には貧しさにもかかわらず、深く、優しく、思いやりのある人間の絆で結ばれた共同体があることを見出している。そして、階級を超えた愛の中に、様々な共同体の和解と愛の救済の約束を見出したのである。

朝田にとってこの物語は、水平社が考案したアイデンティティ政治を収益化する好機だった。その鍵は、著者が京都市衛生局の臨時職員として働いていたという事実にあった。朝田(1979年、7章、諸岡1980年、8章)は、彼の小説は明らかに「差別的」であると断じた。彼が京都市に勤務していたことを考えると、京都市にはこの怒りの責任がある。部落解放運動家が市長を攻撃し、衛生局を攻撃した。次から次へと部署を攻撃した。

そしてこの一連の展開によって、朝田とその仲間たちは見事に成功したのである。1951年、京都府は部落に1,140万円を支出していた。1952年には4,650万円を支出している(全国1998, 表12)。隣接する大阪の同和予算は240万円から410万円に、兵庫の同和予算は0万円から800万円に、和歌山の同和予算は850万円から2,440万円になり、滋賀、岡山、広島、山口、愛媛、福岡の各県では、それまで何もしなかった部落に対する多額の予算を投じるようになった(同)。

不運な杉山は巻き込まれてしまった。市長はすぐに朝田に対して、解雇を約束した(朝田, 1979:184)。衛生局は部落の指導者に、杉山は明らかに刑事罰に値すると断言した(京都1991:474-75)。杉山は二度と小説を出さなかった。滅多に読まれない恋愛小説への「憤怒」は、その後も続いている。

C 狭山での殺人<以下の資料の多くは、ラムザイヤー (前述); 菅野 (2009)から引用している。>

恐喝を成功させるためには、部落の犯罪組織が目に見える形で過激な暴力を予告する必要があった。糾弾の役割は、その脅しを目に見える形で、かつ確実なものにしておくことにあった。ほとんどの糾弾は比較的小規模な活動だったが、いくつかの糾弾は公の場で行われた。一連の糾弾の中でも最も異様に激しいのは、東京郊外で起きた強姦殺人事件に関するものである。

1963年、狭山市のある家庭の玄関に身代金要求書が置かれていた。高校生の娘・善枝が帰宅せず、誘拐犯が金銭を要求していたのである。家族は誘拐犯に連絡を取ろうとしたが、娘は強姦され、殺害され、浅い穴に埋められていた。その3週間後、警察は石川一雄という若い無職の部落民を逮捕した。彼は悪い仲間と暴走し、逮捕歴があり、警察に嘘をついていた。長時間の取り調べ(拷問ではない)の後、彼は誘拐、強姦、殺人を自白した。裁判所は彼に死刑を宣告し(控訴により無期懲役に減刑)、彼は服役し、1994年に政府は彼を仮釈放した。

解放同盟は、石川を部落の英雄、警察の偏見による無実の犠牲者に仕立て上げた。実際には、石川は明らかに強姦殺人の重要な役割を果たしていた。彼を有名人にすることで、解放同盟は、関心のある学者が身代金要求書と石川の手書きの告白を容易に見られるようにしたのである(例:菅野, 2009)。この2つの文書に見られる奇妙なクセのある筆跡と非識字者の特徴は、警察がほぼ間違いなく正確な人物を見つけたことを示している。部落民の凶悪犯罪率が高いことを考えると、日本版人種プロファイリングとして、警察はまず部落民に焦点を当てたのだろう。また、他の証拠も仕込んだかもしれない。警察は、驚くべきことに1ヶ月半もの間、弁護士の立会いなしに彼は取り調べをした。警察は彼を騙してあのような自白をさせたのかもしれない。しかし、警察は明らかに正しい人間を捕まえたのだ。

また、石川が単独で犯行に及んだとは考えにくい状況もある。警察が少女の遺体を発見した2日後、彼女の家の農場で働く労働者の1人が空井戸で死んでいるのが発見された。警察はこれを自殺とし、殺虫剤を飲んで井戸に飛び込んだと説明した。その5日後には、彼女が誘拐された日の夜、不審な3人組を警察に通報した農家の人も死んだ。これも警察は「ナイフで心臓を突き刺した」自殺と断定した。地裁が石川に絞首刑を言い渡してから4ヶ月後、善枝の姉の死体が発見された。毒物(農薬)を飲んだのではないかと警察は判断した。1966年には、石川がかつて働いていた狭山養豚場の労働者が線路に倒れていた。1977年には善枝の兄の一人が首を吊って発見された。<菅野(2009:301-03;事件関係者が6人自殺、不可解な死を遂げた狭山事件(http://ww5.tiki.ne.jp/~qyoshida/jikenbo/057sayama.htm)などを参照のこと。>しかし、身代金要求書や石川の他の文章に見られる筆跡や非識字者の特徴から、少なくとも石川が少女を強姦して殺した一味であることは疑う余地がない。

このような証拠があるにもかかわらず、解放同盟は石川の無罪を主張し、その叫びを国民運動に発展させたのである。部落の指導者たちは、1960年代の新左翼トロツキストの仲間たちと協力して、暴力による脅しを可能な限り信憑性の高いものにした。<菅野(2009:298-299)など、インターネット上のさまざまな情報源を参照のこと。>1969年には、浦和地方裁判所に火炎瓶を投げ込み、建物を占拠した。1974年には、石川を支援するために11万人の暴走を組織し、東京高等裁判所に侵入し、裁判所職員を鉄パイプで攻撃し、高等裁判所の控訴審を担当する裁判官の自宅に火炎瓶を投げ込もうとした。1976年には、車に乗った高裁判事をバットで襲い、1977年には最高裁上告審の判事の家に火をつけようとした。1979年には法務省の集合住宅に放火しようとした。1990年には石川に死刑を宣告した地裁判事の自宅に放火した。そして1995年には高裁の裁判長の自宅が焼失した。

D 共産主義者の粛清<この説明は、ラムザイヤーとラスムセン(2018)に大きく依拠している。>

オールロマンス闘争を通じて、解放同盟のリーダーたちは、京都市当局が部落に費やす資金の水準を決定的に引き上げた。しかし、彼らはすぐに、部落以外の京都市民からの再分配には限界があることを悟った。資金の移動をより高めるためには、国を利用する必要があった(尼崎,1988:387など)。

そのため、解放同盟は10年半に及ぶ熱心なキャンペーンを始めたのである。そしていくつもの段階を経て、1969年に目標を達成した。この年、政府は部落に特化した巨額の資金を投入する事業を開始した。2002年の終了までに15兆円(2002年の為替レートで約1,250億ドル)もの資金が部落に投入された。

この国家的事業を手に入れた解放同盟の指導者は、その配分を管理する必要があった。一番多いのは建設事業費である。その資金で私腹を肥やすために、彼らは契約の分配を管理する必要があった。彼らの言葉を借りれば、資金の「窓口」となる必要があったのだ。そのためには、他のすべての仲介者を排除する必要があった。特に、共産党の競合者を排除しなければならなかった。

解放同盟の指導者たちは、建設契約の配分を管理するために、地方自治体を順に攻撃していった。まず、大阪府吹田市から始めた。1969年6月、吹田市に「金を独占的に使えるようにしろ」と要求した。解放同盟批評家によれば、吹田市に300人の解放同盟メンバーを送り込んできたという。また批評家によると、彼らは3日間、市長の家を取り囲んだという。夜中にドラム缶を叩き、ガス、水道、電話の線を切った。壁をよじ登り、敷地内に入っていった。最終的には市長も屈服した(中原 1988:128-29; 一ノ宮 2013:270)。

解放同盟は都市から都市へと移動していった。必要に応じて―やはり批評家によれば―戦術を繰り返した。羽曳野市(大阪府)と対峙したとき、解放同盟のメンバーは122時間にわたって市役所を占拠し、市長を22時間監禁した。<中原(1988:128-29)、一ノ宮とグループK21(2013:96-97、270)。>どこでも彼らの思い通りになるわけではなく、挑戦したところ裁判で負けることもあった。<例えば、前田対西脇市887判例時報66号(神戸地裁1977年12月19日)、福岡市対松岡870判例時報61号(福岡高裁1977年9月13日)、一般にアップハム(1980:54-62)を参照。>やがて、多くの(全てではない)都市が窓口一本化政策を撤廃したが、解放同盟は引き続き支配を推し進めた。

同時に、解放同盟は共産党を資金面で排除する必要があった。最も決定的な突破口は、早くも1969年に訪れ、当時矢田で解放同盟が共産党系の教師と決裂した。そこで、解放同盟は共産党の教師を200人の部落民の前で12時間にわたって罵倒したのである。しかし、この矢田の「糾弾」が最もよく知られているとすれば、1974年の八鹿での共産党教師に対する「糾弾」が最も残酷だったかもしれない。共産党は決して信頼できる情報源ではないが、部落民作家の上原(2014, 3章)が数十年後に八鹿を訪れて事件の関係者にインタビューしたところ、大規模な暴力があったとの報告があったという。人類学者のローレン(1976:685-86)は、当時、この地域でフィールドワークを行っていた。彼の話によると、糾弾会が終わる頃には、共産党の教師のうち12人が脊椎を含めて骨折していた。そのうち13人は最低でも6週間の入院を余儀なくされた。さらに5人が1カ月、15人が2~3週間、15人が1週間以上の入院を余儀なくされたという。

IX 転出と補助金

A 序論

国の補助金は、部落の若い男性が暴力団に参加することで得られる収入の水準を劇的に引き上げることで、学校に留まり、大学を出て日本の一般社会に溶け込もうとする動機付けを低下させた。ラムザイヤーとラスムセン (2018)では、2002年に1969年の国の補助金が打ち切られたことを通して、この現象を探った。具体的には、1935年の実態調査(小地域のデータがある唯一の実態調査)を用いて、市町村レベルのパネルデータセットを構築し、2002年の補助金打ち切りが転出レベルに与える影響を検証した。市町村レベルでの部落からの移住についてはデータがないため、各市町村から移住総数と部落の集中度(1935年のデータに基づく)との関係を調べた。その結果、2002年以降の移住者は、部落が最も集中している都市で最も急激に増加していることがわかった。

このIX章では、14回の部落実態調査を利用して、部落民の人口変化を調べてみた。まず、過去4回の部落実態調査を用いて、20世紀最後の30年間における部落民の転出の一般的な決定要因を探る(サブセクションB)。続いて、1947年から1969年の間の部落への補助金の分配を調べる(サブセクションC)。最後に、1947年から1969年の補助金に関するデータと移住に関するデータを組み合わせて、部落からの移住に対する補助金の効果を調べた(サブセクションD )。その結果、多額の補助金は、部落民の一般社会への移行の速度を大幅に遅らせることがわかった。

根本的に、政府の補助金は地元の犯罪組織の資金源となっていたのである。ゲイリー・ベッカーの人的資本と犯罪に関する一般的なモデルを考えてみよう。補助金が少ないところでは、若い男性は犯罪者になっても得るものが少ない。必然的に、彼らは学校に留まり、おそらく大学に進学し、主流の社会で仕事を見つけ、部落から抜け出す可能性が高かった。対照的に、補助金の額が大きいところでは、若い男性の犯罪的職業への見返りが高かった。このような違法な利益を高めることで、部落民の若者が学校をやめ、部落に留まり、犯罪組織に参加することを促したのである。政府は、名目上の「失業者」の増加に対応して、より手厚い補助金を支給し、その補助金によって、さらに多くの若者が学校を退学し、部落に残留し、暴力団に入り、よってさらに多くの「失業者」が部落にいるので、政府は補助金の水準をさらに上げる、といった具合に、悪しきスパイラルに陥ったのである。

B 転出

補助金そのものの効果(表11、12)に目を向ける前に、過去4回の実態調査を用いて、部落民の転出のより一般的なパターンを調べてみた(表10):どの部落で人口が減少し、どの部落で増加したのか? 従属変数は、各実態調査時点での部落の人口であり、1921年の部落人口を指標としている。この変数は、1921年以降、部落民がコミュニティを離れ、一般社会に溶け込んでいった度合いを表している。独立変数としては、すでに定義されている変数を使用している(表4参照)。これらは、部落の集中度(部落民PC)、部落の平均規模(部落規模)、都市化の度合い(密度)、部落民が一般民と交流する度合い(外婚)を捉えている。部落の経済厚生(部落県民投票、PBC)、農業への依存度(部落農業比率)、解放同盟の暴力的な前身を地元の部落が支持していた度合い(水平社支部)、犯罪的文化の存在(殺人PC)。ここでは、1920年代の部落解放運動の開始時期にできるだけ近い値を採用した。

表10: 転出の決定要因、1971-1993 年の調査 従属変数: 1921年の部落人口指数

1971 1975 1987 1993
部落民PC 21 2.146 2.059 -4.731 2.641
(5.51) (4.57) (6.66) (3.62)
部落の大きさ21 0.2075*** 0.2146*** 0.2218*** 0.1644***
(0.054) (0.045) (0.065) (0.035)
密度21 4.63e-6 4.91e-5 -2.84e-4 -1.13e-4
(2.50e-4) (2.07e-4) (3.02e-4) (1.64e-4)
外婚21 -147.72 -220.17** -0.9738 -106.38
(107.84) (89.36) (130.38) (70.78)
部落民県民有権者21 1122.05 34.230 890.716 808.87
(834.34) (691.40) (1009) (547.7)
部落農業率 11.122 55.716*** 82.693*** 49.850***
(24.57) (20.36) (29.71) (16.13)
水平社支部33 1.559** 1.495** 0.6798 0.6838
(0.67) (0.55) (0.80) (0.44)
殺人PC 20 -12658.19 400033 2286533*** 746935**
(558979) (463213) (675845) (366915)
n 40 40 40 40
調整後R2 0.57 0.71 0.51 0.69

従属変数被差別部落の人口(1921 年を基準とする)。

注:*, **, ***:それぞれ10%、5%、1%の水準で統計的に有意。回帰係数の後に標準誤差を付した。すべての回帰には定数項を含む。回帰は OLS。

1935年に農業に従事していた部落民の割合(部落農業比率)の係数は正で有意である。この現象は、部落の定義が場所によって異なることによるものである。人的資本は移動するが、土地は移動しない。必然的に、農地に出資した人は、人的資本に出資した人よりも移動する可能性が低くなる。

この回帰分析は、犯罪的職業に比べて合法的な収益のほうがコストが低い状況に直面した時に、部落民がコミュニティを離れて日本の主流社会に参加する可能性が最も高いことを示唆している(明らかに証明しているわけではない)。一方で、部落民は、一般社会との距離が遠いところや、部落が比較的包括的な社会状況を提供しているところでは、部落を出る可能性は低い。このように、1921年の一人当たりの部落民の数の係数は、統計的には有意ではないが正であり、部落民は、部落民の密度が最も高いコミュニティから離れる可能性は低い。同様に、1921年の部落の規模に関する係数は正であり、部落民は小さい部落よりも大きい部落を離れる可能性が低かった。

一方で、一般社会からの疑念が強い部落からは、部落民は出て行きにくい。例えば、1921 年の「外婚率」の係数は負であり、部落民は一般社会との交際、つまり外界との接触が比較的密で調和的なコミュニティを離れる傾向があった。1993年の指数化された部落の人口と1921年の外婚率との間の一対の相関は-0.52であり、1%以上の水準で有意であることに留意されたい。逆に、1920年の殺人率の係数は正であり、部落民は相対的に犯罪機会の多い部落を離れる可能性が低かった。同様に、1933年の水平社支部数の係数は正であり、部落民は以前の住民による暴力的な組織があった地域を離れにくくなっていた。

部落の規模が小さく、隣人との関係が良好な場合には、若い部落民は、主流社会で有益なキャリアを築くために必要な情報、訓練、教育を比較的安価に受けることができた。しかし、外界との接触が少ない大規模な部落に住んでいる場合は、そうした情報を得ることができなかった。凶悪犯罪の発生率が高いため、代わりに違法な職業に関する情報を得ることができた。

C 補助金

表11では、同和事業対象となった府県の部落にどのような補助金が支払われたかを調べた。エリック・ラスムセンと筆者は、ラムザイヤーとラスムセン(2018)で1969年から2002年の国の補助金を調査しているので、ここではその作業を繰り返さないことにする。代わりに、国の制度に先行する都府県の補助金を調べてみる。なお、1946年、1958年、1963年、1967年、1971年の実態調査では、国の補助金以前の期間を4つの区分に分けている。被説明変数は以下の通りである。

補助金PBC
ある期間における1969年以前の都府県の部落民に対する補助金の額(単位は万円)を部落民の数で割ったもの、全国部落(1998)による。この資料では、補助金の内容については詳しく述べられていない。

独立変数としては、水平社結成時(あるいはその直後)の各県の値をいくつか取る。すでに定義されている変数としては、部落集中度(部落PC)、外婚率、人口密度、部落富裕層比率(部落県民投票権)、部落平均規模(部落規模)、部落農業比率水平社支部数などがある。また、以下の変数を新たに作成した。

部落の非嫡出率、1921
1921年の非婚の部落民の出生数を部落民全体の出生数で割ったもの。
糾弾率、1923-24
1923-24年の糾弾会の回数を部落民全体の数で割ったもの、長谷川 (1927)による。

大都市圏の府県は、部落民一人当たりの補助金の分配率が高い(パネルA)。密度の係数はすべての期間で正であり、4つの期間のうち3つの期間で有意であった。部落民の密度が高い県ほど補助金の額も高い。「部落民PC」の係数は、すべての期間で同様に正であり、3つの期間では有意に正であった。不思議なことに、他の条件が同じであれば、1933年に水平社の支部数が多かった県は、補助金の支払いが最も少なかった。支部数の係数はすべての期間で負あり、4つの期間中2つの期間で有意に負である

パネルBでは、補助金のパターンを説明する可能性のあるいくつかの他の指標を加えた。例えば、最も貧しい部落に補助金が支給されると予想されるかもしれない。しかし、生活保護を受けている部落の割合、部落の非嫡出率、投票権を持つ部落の割合は、いずれもゼロから有意な差はない。

さらに、2つの見解がある。第一に、部落民と他の住民との間の緊張感が最も高い地域で、政府は最も多くの補助金を支払った可能性がある。パネルAの回帰分析で用いた要因が同じであれば、1870年代に部落解放に反対して住民が暴動を起こした場所(解放令反対一揆)や、初期の水平社のメンバーが最も多く糾弾会を開いた場所(糾弾率)では、政府はより多くの補助金を支払っていたことになる。第二に、一部の作家(例えば本多、1991、30)は、補助金は非人ではなくカワタの子孫に支払われたと指摘している。1868年の非人率は、一対一の相関関係にある4つの期間のいずれにおいても、補助金の水準と有意な相関関係はなく、パネルBの回帰分析における非人率の係数も同様に有意ではない。

表11: 部落に特化した都府県の補助金、1947-1968年

A.基本的な回帰分析 従属変数部落民一人当たりの補助金、年ベース

1947-57 1958-62 1963-66 1967-68
部落民PC 21 0.0300* 0.1070* 0.4146** 0.1369
(0.0150) (0.0573) (0.1810) (0.270)
外婚21 -4.16e-4 -0.7363 -2.036 -3.956
(2.83) (1.73) (3.993) (7.92)
密度21 4.73e-7 1.34e-5*** 6.52e-5*** 5.29e-5**
(6.89e-7) (4.50e-6) (1.49e-5) (2.04e-5)
部落県民有権者21 0.8612 9.061 25.462 -8.022
(2.32) (8.489) (25.12) (41.10)
部落規模 21 1.732e-4 -4.291e-4 -3.46e-4 0.0021
(1.48e-4) (5.74e-4) (0.0019) (0.0030)
部落農業率 0.0296 -0.1177 -0.5073 0.2059
(0.0679) (0.2250) (0.7251) (1.10)
水平社支部33 -5.235e-4 -0.0134* -0.0530** -0.0188
(0.0018) (0.0071) (0.0231) (0.0299)
n 40 30 37 33
調整後R2 0.13 0.23 0.47 0.37

B.追加独立変数 補助金 PC、1963-66年 の回帰に、以下の追加独立変数をそれぞれ加えた。表には、その追加変数の結果としての係数、標準誤差、調整済みR2が示されている。

部落非嫡出率21 部落公的扶助率21 反解放暴動 非人率68 糾弾率23
0.1737 -100.63 0.4747* -0.0112 230.34***
(1.75) (109.21) (0.276) (1.42) (80.01)
0.46 0.47 0.51 0.46 0.58

注記: *, **, ***:それぞれ、10、5、1%の水準で統計的に有意。回帰は OLS。回帰係数の後に標準誤差を付した。すべての回帰には定数項を含む。 出典: 本文および表1参照。

D 補助金と転出

表12では、政府が1946年から1971年までの間に5回の部落実態調査を行ったという事実を再び利用した。これらの複数の都府県レベルの調査と都府県の補助金の額に関する年次データを組み合わせ、補助金の額が部落を離れて一般社会に溶け込むことを選択する速度に与える影響を調べた。

表12の回帰分析では、都府県の補助金が部落民の一般社会への合流の速度を遅らせることが示唆された。表12の最初の4つの回帰では、1921年の値で指数化した部落民の人口を、部落民一人あたりの補助金の水準(補助金PBC)、部落の集中度(百分率、部落民PC)、部落の規模、人口密度に回帰している。その結果、補助金の水準に対する係数は、3つの期間では正であり、2つの期間では有意に正であることがわかった。有意水準は使用した独立変数に左右されるが、基本的には非常に強い相関関係がある。1958年の指数化された人口と1947-57年の補助金の間の一対の相関は0.28であり、7%の水準で有意である。1963年の人口と1947-62年の補助金の間の相関は0.33であり、3%の水準で有意である。1967年の人口と1947-66年の補助金の間の相関は0.52であり、0.1%の水準で有意である。この効果の大きさは些細なものではない。例えば、埼玉県の補助金(0.669)から大阪府の補助金(16.785)に引き上げたとする。その結果、1921年を100とした場合、1971年の部落民人口は15.8人増加する(都道府県レベルの中央値94.77の場合)。

しかし、補助金の水準は、部落民が地域に根ざしているかどうかに内因すると考えられる。そこで、補助金の水準を、部落民PC部落の規模密度水平社支部1933年糾弾率1923年部落の生活保護PBC1921年部落の非嫡出率1921年部落の離婚率1921年部落の有権者数1921年解放令反対一揆白山神社で測定した。表12の最後の4回の回帰では、2段階最小二乗法の結果を報告する。ここでも有意水準とCragg-Donald Wald F統計は使用した変数に敏感である。それにもかかわらず、補助金の水準に関する係数は、4つの回帰すべてにおいて正であり、有意である。つまり、補助金の水準が高いほど、部落民が日本の主流社会に加わるために離脱する水準は低くなる。

この結果は、2つの異なる方法で解釈することができる。一方では、この現象は、無情なまでに単純な説明と一致している。つまり、あるコミュニティに留まることを選択した部落民には政府が補助金を出し、離脱する部落民には補助金を出さなければ、より多くの部落民が留まることを選択するということである。また一方では、表5が示すように、部落民の滞在が増えると犯罪率が高くなる。また、別のところで詳述されているように(ラムザイヤーとラスムセン, 2018)、戦後の大半の期間、暴力団が解放同盟を支配し、建設契約に対する支配力を利用して、資金の大部分を彼らの個人口座に流用していた。1980年代の暴力団の全盛期には、部落民の若者の20~25%が犯罪組織のメンバーであった。つまり、犯罪的職業の相対的な利益を高めることで、補助金によって部落民の若者が学校を退学し、暴力団に参加し、部落特有の犯罪的職業を追求するようになったのではないだろうか。補助金の水準が低いところでは、若者は学校に残り、部落から大学に移り、一般の職業に就いた。

表12: 都府県補助金(1947-1968)の水準と転出者数

従属変数:部落の人口(1921年を基準として)

1958 1963 1967 1971 1958 1963 1967 1971
OLS OLS OLS OLS 2SLS 2SLS 2SLS 2SLS
補助金、PBC
1947-1957 -3.150 601.49***
(87.70) (208.62)
1947-1962 11.84 47.89**
(14.09) (21.80)
1947-1966 6.271** 9.50**
(2.88) (3.55)
1947-1968 6.173*** 3.154**
(1.46) (1.58)
部落民PC 21 20.706** 13.975** 19.653*** 13.694***
(8.51) (5.46) (4.71) (4.92)
部落規模21 0.168* 0.0800 0.0293 0.102
(0.094) (0.067) (0.062) (0.067)
密度21 -2.222e-4 -2.138e-4 1.485e-4 -4.25e-5
(4.06e-4) (2.87e-4) (2.56e-4) (2.76e-4)
n 42 42 42 42 40 30 37 37
調整後R2 0.25 0.27 0.49 0.46 0.06 0.06 0.24 0.30
CDW F統計量 1.52 2.49 6.66 14.13

注記: *, **, ***:それぞれ10%、5%、1%の水準で統計的に有意。回帰係数の後に標準誤差を付した。すべての回帰には定数項を含む。

パネル A の部落民一人当たりの補助金は、部落民総数 35/46/58/63水平社支部33糾弾率23部落生活保護PBC 21部落非嫡出率21部落県民有権者21解放令反対一揆水平社支部33部落規模35/58/63密度35/46/58/63部落離婚率21白山神社で提示している。

出典: 本文および表1参照。

X 結語

根本的に、西洋の学者や知識人は、社会的・政治的行動の基本的な経済学を見落としているため、部落の変革の論理を見落としている。それは、古典的な市場の領域外の行動の経済学であるが、合理的で戦略的な行動であることに変わりはない。本稿では、日本という特定の国におけるアイデンティティ政治の発明と崩壊の背後にある経済学を取り上げている。しかし、その論理的な一般性は、他の時代、他の社会での同様の現象を説明できることを示唆している。

西洋での説明とは異なり、部落民は社会階級外の者ではないし、おそらく過去もそうではなかっただろう。少数の例外を除いて、彼らは皮なめし職人の子孫ではない。彼らは、19世紀には貧しい農民、20世紀には都市の貧困層の機能不全のコミュニティの子孫である。

1920年代、部落民の上流階級の若い知識人たちは、部落民のために、ほぼ架空のアイデンティティを作り出した。マルクスの『ドイツ・イデオロギー』を参考に、部落民は革職人の子孫であると宣言したのだ。彼らの祖先は容赦ない差別を受けてきたが、それは宗教的に不浄なギルドのメンバーを嫌っていたからだ、と指導者たちは主張した。

知識人の指導者が発明したものを、犯罪の指導者が利用したのである。彼らは、この新しいアイデンティティをもとに、本格的なゆすりによるアイデンティティ政治に乗り出した。差別が蔓延していると主張し、暴力的な強奪戦術を駆使して、政府からの補助金をどんどん引き出すことに成功した。当然のことながら、彼らはまた、ますます多くの社会的敵意を引き起こすことになった。一般の人たちは、彼らを遠ざけるためにあらゆる努力をした。

1920年代以前の部落民は、日本の伝統的な行動規範を守ることを選択していたので、うまくいっており、地域社会に留まり、社会的・経済的なインフラの構築に貢献していた。しかし、1920年代以降、彼らは去っていった。ハーシュマンの古典的な類型論では、彼らが直面した「退出」のコストは些細なものだった。犯罪者企業家たちが、部落に対する一般民の敵意を高めていくのに伴い、正当な職業に就いていた部落民たちは、単純に部落を出て一般社会に移行していったのである。

結果的に、若い部落民が犯罪に手を染めることで、補助金はスパイラル的に増加した。補助金が多ければ多いほど、部落民の若者がアイデンティティ政治を利用した犯罪的職業から得る見返りも大きくなる。相対的な見返りの大きさから、学校を中退して部落に残り、犯罪組織に参加する若い部落民の数が増え、名目上の失業者の数が増えると、政府は補助金の水準を上げるということが繰り返された。日本社会の一般的な行動規範に従って生きることを選んだ部落民は、部落を出て一般社会に移行していった。しかし、犯罪者になることを選んだ人たちは、部落に残ることを選択した。

そして、突然、すべてが終わった。部落を明確に定義された現象として生み出したアイデンティティ政治は、始まったときと同じように突然終わったのである。ラムザイヤーとラスムセン(2018)はその崩壊を詳述している。ちょうどアイデンティティ政治が皮革職人のギルドに関する歴史の発明から始まったように、それは2002年に終了した。その年、国は部落に特化した補助金を停止した。犯罪者になることの絶対的見返りが減少したため、教育の相対的利益が増大した。部落の若者は、学校をやめてヤクザに入るのではなく、学校に通うようになった。彼らは高校を卒業し、部落を離れて大学に行き、そのまま帰ってこなかった。

解放同盟は衰退した。配布するお金がないので、会員数は補助金が支出されていた時代の20万人から5万人にまで減少した。現在、会員の半分以上は60歳以上である。そして、解放同盟とともに、暴力団も消えていった。補助金を流用できないため、同盟員は部落の建設事業からの巨額の利益を得ることができなくなった。1991年に91,000人いた構成員・準構成員関係者の数は、2015年には47,000人にまで激減した。2014年には、暴力団員の4分の3が40歳以上、4割が50歳以上になっている。

謝辞:本論文の執筆にあたり、次の皆様に有益なコメントと助言をいただきましたことに感謝申し上げます。Fabian Drixler、Maren Ehlers、福井義高、Colin Jones、Louis Kaplow、Curtis Milhaupt、三輪芳朗、Gregory Noble、Richard Samuels、Richard Sander、Steven Shavell、Henry Smith、高島正憲、Frank Upham、David Weinsteinの各氏、およびハーバード法科大学院とイェール法科大学院で開催されたワークショップの参加者の皆様。

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宮部 龍彦 について

ジャーナリスト、ソフトウェアアーキテクト。信州大学工学部卒。 同和行政を中心とする地方行政のタブー、人権ビジネス、個人情報保護などの規制利権を研究している。「ネットの電話帳」管理人。

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J・マーク・ラムザイヤー教授『アイデンティティ政治の 発明について:日本における 被差別部落民』④」への2件のフィードバック

  1. 匿名

    いま旬の話題だと沖縄警察署襲撃事件と下記の部分が当てはまりますね。小林健治は襲撃をブログ上で高評価していますが・・・

    > 典型的なケースとしては、ある子どもが他の子どもを「エタ」と呼ぶ。部落の子どもは親に言いつける。その親は相手の親から謝罪を受ける。彼らは教師に「ちゃんと教えていなかった」と謝罪を求める。学校の校長にも、教師を適切に監督しなかったことについて謝罪を求める。嘲りを止めなかった警察を攻撃する。最終的には、学校を適切に管理していない地方自治体に矛先を向け、地元の部落への補助金を要求することになる(青木、1998:143)。

    返信
  2. 匿名

    短評

    ジョン・ロバーツの「三井」や、最近ではリチャード・サミュエルズの「特務」の様に、その分野では日本人自身が書いたものよりも優れた外国人による概説が存在するケースは少なくない。この二つの論文も多分そうである。
    邦文に適当なものがないテーマの場合、自分は海外の論文を参照する事が多いが、これまで同和文献に限っては、外国のものをみても殆どが解同系の主張を鵜呑みにして棒読みしただけ、という印象だった(その理由は論文の中で明らかにされている)。

    この種のものを書くのにラムザイヤーというのは良い人選だと思う。
    マイナーな文献に多くあたらなければならないこの分野で日本語ネイティブである事はまず史料操作能力に他の米人学者とはかなりの差が出るし、それ以上に、彼がアメリカにおける主流派の日本史学者というわけではないからだ。(但し、この問題は慰安婦問題とは明らかに異なっている。最近アンドルー・ゴードンが日本政府のコロナ政策に着目した論文を書いているのはこの点極めて示唆的に感じる)

    本論文には重要な指摘がいくつもあるので、これを敷衍した概説書が出版される事が望ましいと感じるが、しかしいくつか問題点もある。
    まず第一点は、最初の「日本の被差別民政策と組織犯罪」では、基本的に1969年の「同対法」によって予算目当ての犯罪者が外部から呼び寄せられ、これによって部落の犯罪化が進んだ、としている一方で大正期以前の部落の強い犯罪傾向にも触れていた事である。これは矛盾というほどでもないが、第二論文「アイデンティティ政治の発明について」では、そもそも20世紀初頭の時期から犯罪者の集落と被差別部落とが重なり合うものであった事実が強調され、こちらに重点が置かれた構成になっている。立場一歩を前進させたものといえるが、これは2018年と2019年の間に起きた政治的変化が影響している、とみる事ができるかもしれない。
    次に第二点は、主に解放同盟にスポットが当てられ、史料の少ない同和会に関する記述がほとんどない事である。
    第三点はこれに関連するが、同対法の終了とともに、そのまま現在に繋げて記述を終えている点である。

    最後の問題はとりわけ重要である。ロナルド・ドーアとの対談の中で解同の組坂氏が、現在の同和対策がかつての環境整備から教育の方にシフトしている旨のことを述べているからである。これは具体的には、奨学金や優先枠入学などを意味する。
    だからラムザイヤー氏が書かなかった同対法終了以降の展開をもしも続けるとすれば、記述はおそらくそこが中心になってくる筈である。

    昔あるジャーナリストが、国際的な人権会議に日本を代表して出席した被差別部落出身のグループが、各国代表の中で小さくちぢこまっていた姿を目撃しているが、おそらく「自分たちのような犯罪に手を染めている人間がこんなところに出てとんでもない事になりはしないか」「もしも正体がばれたら」という気持ちだったのだろう。彼らの言動は西欧的な基準によれば(先祖の出自などに関係なく)ほぼ確実にマフィアに認定される。
    しかし現在では、同和団体の代表たちは国際的な場で物おじせず堂々としており、積極的に発言を行い議論をリードしている。奨学金や優先枠入学を利用した彼らは、行政から支出された豊かな財源を使って各国から人権活動家を招聘し、自らが長となって世界的な人権団体を組織している。
    これは彼らが現在では犯罪的な人間を仲間から完全に閉めだした事を意味するわけではない。 堂々としている理由は、単に「自分たちの先人がほとんど断罪されなかったから」だけである。 団体にはいまだ犯罪者と区別がつかない者は少なくないし、彼ら現在占めている地位も、これらの人間の活動に依存している部分がないではない。

    今のところ、国際的な場において日本からの人権問題の代表者の排除は進んでいない。ただ、いつまでもこのような事が続けていられるものではないのは、そもそも分かり切った話である。遅かれ早かれその方向に進んでいかざるを得ない。
    かといって、情緒的に不安的で、またそれがその時々の言動を大きく左右する彼らを急激に追い詰める事も好ましくない。その意味で今回「日本学の主流派とはいえない」ラムザイヤー氏がとりあえず先鞭をつけてみたのは極めて妥当だったと思われる。

    1920~30年代の西欧にはバーナード・ショーの様に旧ソ連に招待され、その体制を理想化して賛辞を連ねた知識人は多かったが、この後スターリニズムの下でどのような事が行われていたかが明らかになった時、こうした発言は一様に信用を失なうに至った。これらは部落解放同盟に招かれてその主張に沿う記述を行ってきた海外の学者たちに酷似している。

    返信