東京都東村山市は故・志村けんの故郷として知られるが、そこにも部落があったことはあまり知られていない。東村山駅から北へ1キロくらいの場所に、現在の西武鉄道の線路をまたぐ形で、中ノ通という43戸の部落があった。
久米川町4丁目にある、この立派な白山神社から探訪を開始した。
社殿の中には御神体の鏡がある。
そして神社の傍らにあるのは…
牛頭天王像。これは東村山市の有形民俗文化財に指定されている。
石碑に刻まれた氏子の名前を見ると、小田井・東原・北久保・栗原といった名字があることが分かる。
神社の傍らには墓地がある。さきほどの名字に加えて木下という名字が見られる。
多摩の部落はことごとく時宗であるというが、墓を見る限りは少なくとも現在は時宗ではないように見えるがどうだろう?
白山神社の横の真新しい建物は、社務所を兼ねた自治会館だろう。
この周辺は道の付き方が独特である。西武鉄道に沿って街道がある。そこから線路に向かって何本も道があるが、線路で塞がれて袋小路になっている。
だだ、そのような場所にある家が、必ずしも古くからの住民の家のようではないようだ。高度成長期初期に、多くの移住者がいたと考えられる。
広い野球場がある。昔の地図を見ると、この辺りには田畑が多くあり、家が密集していたようには見えない。都市型・労働型の部落ではなく、農村型部落であったようだ。
今では田畑だったところに新しい民家や集合住宅、工場が建てられ、ほとんど都市化している。
これは社会福祉センター。ただ、同和対策とは無関係であると考えられる。無論、人権とか同和といったポスターはない。
歴史館があったが、残念ながら休館中だった。
大きな集合住宅もあるが…
昔を偲ばせる風景もある。この古い住宅は古くからの住民のものだ。
畑も少しだが残っており、墓地にあったのと同じ名字の塗装店がある。
これは久米川町5丁目にある當間稲荷神社。氏子の名前は文字通り當間が多い。
同じ名字の石材店がある。
稲荷神社と白山神社の氏子は明らかに異なり、稲荷神社の氏子と思われる名字の家は豪邸が多いように感じられた。
ただ、2つの神社の氏子の住んでいる場所はかなり重なっているように見える。古くから既に融和していたのだろうか。
線路の反対側の諏訪町にも行ってみた。これは町名の由来となった諏訪神社。
こちらも線路沿いに家々があるが、古くからの地主が多いように感じられる。
どことなく昭和のノスタルジアを感じさせる風景も。
そして、踏切の近くにあるこの店。
食堂と焼き鳥屋が一緒になっている。
このモツ煮定食は650円だが食べごたえがあった。食堂は近くの工場の労働者と思われる、作業服の人で賑わっていた。
そして、白山神社から南に800メートルほど行くと、東村山市に来たら外せない名所がある。
この3本のケヤキは「志村けんの木」として知られる。
志村けんさんが「東村山音頭」で東村山市の名前を全国に広めたことを記念して植樹されたものだそうだ。
献花やお供え物は禁止されているので、記念に写真を撮るだけにしておこう。
「白山神社から南に800メートル」ではありませんか?
すみません、南北が逆でした。
あなたの取材は根拠が弱い。
すみません、努力します
質問です。(元近隣の住民)
古くからの「部落」の住民で、白山神社の氏子であり、時宗だったら「部落民」「エタ」だったということでしょうか?
ちなみに、東原家・小田井家・當間(当間)家は地元の大地主。栗原家は埼玉にある北野天神社(神主家)の分家。北久保家には前都議会議員がいます。(そういう認識でした)
いずれも現在は交流がないため確認できませんが…
「部落」に関しては何の知識もありませんので、バカな質問で申し訳ありません。
断定はできませんが、当該地域で先祖代々時宗で白山神社の氏子であったのであれば、弾左衛門配下の穢多が先祖であった可能性は高いと思います。
鳥取ループさん。
近隣で郷土史や考古学に首を突っ込んでいる者です。良く調査されていますね。
久米川や諏訪の部落について、古くから住んでいる地元民は良く知っている話です。古くは旧鎌倉街道の悲田処等との関連性も論及できれば学術的にも面白いと思いますが。
歴史は一つ一つの積上の上に成り立つ社会科学と思っています。これからのご活躍を祈っています。
ありがとうございます。
東京の部落は事業も運動もせず解放されているところが多いという点で、もっと研究されるべきと思います。
東京の部落はもっと探訪します。
土着の地元民ですが、祖父母から伝えられた話と大体合致します。
地元に伝わる地区名もありますが、既に地域住民として共に歩んで久しく、もう知っている人も少ないと思います。
一帯は駅に近く便利なために、市内外から人の流入が昔から続いており、戸建てでは足りずに最近はアパートが増えています。
ふるさと歴史館の前身である郷土館は一帯の中にありました。
福祉センターのところには以前は市役所があり、跡地利用で配置されたと聞いています。
昔は皆とても貧乏な農村でした。
こんな小さな町の過去と現在を訪れてくださり感謝します。
ご感想ありがとうございます!個人的には、線路脇の食堂がとても気に入りました。ああいう店が近くにあったらいいのにと思います。
いつも楽しみに読ませてもらってます。私は生まれも育ちも東村山。記事の場所から少しズレた所です。東村山の白山神社周辺にかつて部落が存在した史実は知識として知っておりますが、今は完全に跡形もありません。また當間神社ですが、これは私有で。当地では有名な一族である當間(とうま)家の守り神です。真の意味で氏子はいません。神社の氏子で括るなら旧村社の熊野神社が近くにあります。また行政機関は比較的最近にできたものです。
ただ記事の場所の隣接地域で痕跡がのこっているのは事実。
のぶ君頑張ってね
東原 小田井 栗原は地主ではありません。
東原って地主でしょって聞かれると答えに困りました。税金を払わない事で残したあっちの一家です。
名字の地図のマッポンや、Google mapを使って非差別部落を探していたらここに辿り着きました。今はただの住宅街になってますけど。
#d0fe0451c4b4b465da3821565e68f5e8
頑張れのぶ
#9a4313c1dfe41983be23642049666507