部落を探訪すると、何らかの痕跡が見つかるものだが、実は今回は全く見つけられなかった。そのため、読者に情報があればお寄せ頂きたい。
今回訪れたのは川崎市の早野である。全国部落調査によれば部落名は「下分」、世帯数は19とある。
丘陵地に住宅が建っており、見た目はごく普通で周囲と違和感はない。
曹洞宗のお寺があるが、これが部落の寺というわけではなさそうだ。立派なお寺で、近辺には広大な墓地があり、地元の檀家だけで成り立っている寺ではないことが伺える。
しかし、なぜか馬頭観音像があった。古くからのものではなく、明らかに新しく作られたものだ。
石材店や花屋が集中している。しかし、これは大きな墓地があるためで、しかもその墓地も昭和になってから山野を切り拓いて作られたものだ。いわゆる「部落産業」のようには見えない。
丘のふもとは畑が広がっており、その中に何軒が住宅がある。住人の何人かに聞いてみたが、「下分」という地名は聞いたことがないという。「下麻生」という地名はあるが、それは隣村のことだし、「下谷戸」という地名もあるが田畑があるだけで、昔から人は住んでいないという。
戦前の村の様子を知っているという老人から話を聞くこともできたが、「下分」という地名はおろか、「被差別部落」があったとも聞いたことがないという。ただ、貧乏人ばかりの村ではあったということだ。
「早野には60戸くらい家があって、だいたい家は山の辺りにあった。誰が住んでいたか、屋号も覚えているよ」
そう老人は語る。
「下麻生の臼井義胤《よしたね》さんが村のために学校を作って、それが今の柿生中学校」
臼井義胤とは地元の篤志家で大地主であったという。老人は臼井義胤を大変尊敬しており、一生懸命勉学に励んだという。老人は歴代天皇の名前を暗唱してみせた。
ここは市街化調整区域で、川崎市が災害時のための用地を確保するために空けているのではないかということだった。そのため、家のある場所は昔から大きく変わってはいないと思うのだが、部落の痕跡は見つけることはできなかった。
「殿様の墓」との看板が掲げられた場所にある墓石。ここに何か手がかりがあるかも?
※後の探訪で「メゾングリーンリーフ」がある辺りの裏山の祠が「人権のとも」に掲載された写真と一致した。
鳥居の残骸らしきものがあり、ここが早野の部落と考えられる。
早野ではないですが、下麻生の月讀神社には白山神社が合祀されていますね。
そこから手がかりやヒントになりそうな物が見つからないでしょうか。
あれからいくつか情報がありまして、早野の最南端にある集落が「下村」あるいは「下早野」という名前だったそうです。
あおば霊苑との間にある山林に古い墓のようなものが見えるので、ここにも何かありそうです。
地元の杉本さんか原橋さんに訊いてみたらどうですか。
杉本さんの家がお寺の近くにありますが、違うような気がするんですよ。
それより、昔は白山神社があったようなので、歴代天皇を暗唱した爺さんが跡地を知っているのではないかと思います。
記事とは関係ありませんが、貴サイトの大ファンです。時々あるのですが、エラーでサイトに
繋がらない場合があります。今回も2〜3日間、接続できませんでした。乗っ取りにあったのかと
思いました。どのような原因でそのようになるのでしょうか?
すみません、こちらのサーバーの問題です。徐々に改善させますので、接続できない場合は調整中と思ってください’。
ここの土着姓は谷保と同じです。石材屋もいますが、早野聖地開園に合わせて始めたのでしょうね。
この早野聖地公園の林ヶ谷池の西側、早野800番台~900番台の農家が中心で、
更に西にある旧鎌倉街道を超えた400~500番台は、商売の為に戦後位に展開したようです。
同じ武州小机のH姓もこの辺に入植してますね。皆、府中市にある時宗の称名寺の檀家です。
ちなみに称名寺の墓地は連光寺の地区内にあります。今は神奈川ですが、相州の地区とは違うつながりがあるようです。
地区のお墓は訪ねたことが無いので良くわかりません。
白山の額が外されていたという神社も、既に倒壊したか解体したかのようで、
ただの農村にしか見えませんねぇ。
ちなみに、本田豊氏の著作で紹介している「藁葺き屋根の家」は数年前に解体してて、しかも”一般”だったはずです。
藁葺き屋根の家は2009年のストリートビューで見られます
https://goo.gl/maps/X6fZyYPCSvQ2
場所は下早野ですが、これは一般だったのですか
2004年の住宅地図を見ると、下麻生700番地の落合茂さんの邸宅の離れになっていますね。さすがこれは家ではなく物置小屋ではないでしょうか。
菊池山哉『日本の特殊部落』191頁に以下の記述があります。早野の地区は、町田市下小山田町の「南沢または小沢谷戸」地区の配下の長吏部落だったようです。
=======引用開始=======
私は郷庄の研究から関戸は小山田庄でない事を知り、且つ小山田の関は、現在小山田村があるのですから、其村内に索むべきものであろうと考えて居りました。偶々小山田村の南沢部落の調査に参りまして、本家小沢老人に尋ねますと、この部落は附近一円小山田庄と言われます部落の統領で、(町田、町谷、榎ノ下、池ノ辺、星谷、早野等何れも配下)が、こゝに人別帳があつたと云う事を知りました。近く牢場址もありますので、これは長吏部落であり、恰も武相の国境であり、相模の国府と武蔵の国府を連接する重要官道筋に当りますので、先ず南沢部落が小山田の関に関係する関守であつたろうと考えました。
=======引用終了=======
町谷、榎ノ下、星谷とはどこでしょうね。榎ノ下は横浜市緑区三保町の榎下城跡(舊城寺)と関係がありそうですが。 横浜市緑区十日市場町の坂下地区でしょうか。
星谷は私の家の近くですよ。座間市に星谷寺という寺があります。
周辺は鈴木さんという家が多くて、雑賀衆の系統で鍛冶屋をやっていたようです。
雑賀衆の系統で鈴木姓が多い部落は熊野市にも室戸市にもありますね。鍛冶屋のような製鉄技術者の部落は、鎌倉市にもありますねぇ。
やはり座間市にも部落があったと見るべきでしょうか。白岡市や柏崎市には、運動団体の見落としでオルグから漏れた部落があるようですね。
本拠地である熊野の有馬町は全国部落調査にあることは事実ですが、自ら部落であることを否定して、地区指定されていません。
雑賀衆は武士の中でも最下級で、鍛冶屋も賎視されていた面もありますが、雑賀衆や鍛冶屋が賎民という考えは多くの人の認識とは違うでしょう。
私は熊野の有馬町も、座間の星谷も、部落と考えるのは無理があると思います。
蝦夷は独自の製鉄技術を持っていたそうです。朝廷に征伐されて俘囚となった蝦夷が各地に配置され、その後裔が賎民になったと言っている人もいますね。異民族起源説は学界の主流ではないし、検証は難しいと思いますが。
https://goo.gl/maps/fzENbirLkzx
https://goo.gl/maps/nG7TwC3Rhvp
民家ではありませんが、この佇まいに雰囲気を感じます。
座間には栗原に非人小屋があったという江戸期の文献程度しか残って無いと思いました。
そもそも非人小屋自体、昔の交番みたいなもんで2~3村に一軒程度はあったようですけどね。
山哉の言う「池ノ辺、星谷」は、中原街道添いの「池辺(いこのべ)の星谷」、
つまり現在の都筑区池辺町(星谷交差点付近)のはずです。
座間は相州ですから、仮に小頭がいたとしても、武州の長吏の組下には入らないでしょう。
星ヶ谷村の小頭名は、嘉永三年の助左衛門文書によれば”三左衛門”。
早野村の小頭名は、助左衛門文書によれば”五郎右衛門”。
林ヶ谷池と山を挟んで北に位置するの池の名は「五郎池」…。まぁ考え過ぎでしょうけど。
ループさんの仰る「下村」は旧鎌倉街道が地区に入っていく入口に当たる所ですね。
古い小名で「矢崎前」に当たる地です。
地名を冠した姓が4軒程あって、これも前述の谷保の姓と併せて該当かな?とも思ってるんですが、確信は持てないです。
又、府中との繋がりを考えると、
この旧鎌倉街道を北上して谷保姓の地に至る間に、梨園を営むK子姓が2軒…。
これも考え過ぎか。
この近く
柿生に繋がる道の途中には、昔から竹細工屋がありました。竹細工の需要や、それだけでの店って成り立つのかな、とちょっと引っかかっていました。
なので、何かそれ関係の在所柄なのかなと、昔から思っていましたが、今更掘り起こすこともあるまい、と、深く考えないようにしていました。
調べるものなのか、そっとしておくものなのか、、、
H谷川T夫さんのお店ですか。
桐蔭学園付近はの鉄町は産鉄に由来してるだろうし、
竹細工の店も有名ですね。
職能民の多く住まう地だったように思えます。
早野の隣にある下麻生団地は何かそういった地区と関係あるのでしょうか。さらにあの辺りは道が狭くいりくんでいるのも気になります。
あと早野には、竹細工屋さんのほかにリサイクル屋さん、屑鉄屋さん、庭石屋さん、等ありますね。
団地も含めて関係ないです。
近傍の麻生区白山にある白山神社周辺の集落は解体され、すべて団地になっています。
また竹細工等の地場産業に関しては、柿生中学校に併設されている郷土資料館に、何か手がかりがあるかも知れません。
下村だった場所に行ってみましたが、どうも違うようです。
地元の個人タクシーのおっちゃんに昔白山神社がなかったか聞いてみましたが、
麻生区白山にあったものしか知らないと言ってました。
墓地との間にある竹やぶには神社がありますが、これは白山社ではありません。
墓地がありましたが、「矢」のつく名字が多いです。
隣の鉄町もそういう地区だと言われているので、両町の境(川崎横浜市境)あたりに何かあるかも知れないですね。
鉄町については、鶴見川沿いの産鉄や流通、鉄関係の職能民などが関係した地名だとも言われています。なので、、、、とは関係ないと思います。そういった技術は大陸から来たものなので、ここに住み着いたか招聘されたか連れてこられた方たちは、大陸から来た人の子孫かもしれません。が、むしろ、合戦などがあった昔は厚遇されたのでは。江戸時代になってから、どういう見方をされたかわかりませんが、少なくとも産鉄や精錬、鍛冶などの職民は、身分は高くないとしても、必要な人々として扱われていただろうとおもわれます。
武器関係の製造者は金属や皮革を取り扱うので(現代ではスポーツ用品等にも応用)、そのような出自の方が多く、矢のつく姓も何らかの関わりがある可能性もあります。
日本姓氏語源辞典によれば、矢崎も矢島も地名起源のようです。武器関係とはあまり関係なさそうに思います。
35.571810, 139.518732
の墓地で何か判るかもしれませんね。
小頭名は”五郎右衛門”とのことで。
鍛冶屋や鋳物師等は、
江戸時代に弾左衛門支配下に入れられたことにより
賤民の区分を受けた職能民じゃなかったかと思います。
それ以前の時代は、武具生産に関わる「産鉄・製鉄と皮革」に関わる職能民は、
区別はされつつも、むしろ重用と庇護の対象だったんじゃないでしょうかね。
江戸時代に入ってからは社会が安定して、
武具は装飾品としての意味しかなしてませんでしたし。
星谷寺の梵鐘が製作された頃の鍛冶屋や鋳物師等は、
別に賤民扱いはされてないと思います。
一方、厚木飯山の鍛冶屋や鋳物師等は、この逆のパターンなのではないかと。
その墓地には気づきませんでした。
再々チャレンジしてみます。
初めまして。
最初の写真で、右に行かれますと、目的地でしたよ。
ということは、やはり下早野なのでしょうか。再度訪れた時はそのに行ったのですが、確証が得られませんでした。
とすると、目当ての墓地は、35°34’07.5″N 139°30’54.3″E となるのでしょうか。
確かに10年位前のネット上では「矢崎、矢元、矢仲」が該当姓という話でしたね。
矢仲姓は当時からいませんでしたけど。
S姓については、http://rekisisuki.exblog.jp/15457027/ の下の方に、
「義民・今蔵(の墓?) 杉本宅にあり、見学不可
早野守谷家から夫婦養子に杉本家にはいり百姓代として云々」とあります。
ちなみに「殿様の墓」や「金子姓(下鉄金子文書)」についても少し記載があります。
ループ殿の「違うような気が…」は正しいかも知れませんね。
以前に図書館で調べたことがあるのですが、
県別の姓氏辞典(角川書店じゃないと思う)の神奈川の巻、
早野のS姓については、「当地の名主」という記述を見たことがあります。
但し出典元が一種の自称みたいな曖昧な書き方でした。
柿生の製鉄文化については、
http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/?cat=17
での数回の特集が結構読みごたえありそうです。
その墓地に行きました。矢崎、矢元の他に矢嶋姓もありました。
そもそも、本当に部落なんでしょうか…と疑い始めてます
下麻生の籠口ノ池=牢口ノ池だそうです。
矢崎前に矢嶋姓は確かに一軒ありますね。
小机鳥山の墓地に大正八年の矢嶋姓の墓が一つだけあるんですよ。
施主名は無くて、世話人として原橋・久保(窪)倉・坂本姓が数名刻まれてます。
周辺に矢嶋姓がいない所を見ると独り身だったんでしょうかね。
籠場の地名はあちこちで数多く見ます。調べればわんさか出てきます。
牢に由来してるものもあるけど、名主が牢を管理している場合が多いし、
実際、「かご」みたいな地形に基づいた地形に由来している場合も多くて、
地区の位置とはあんまり関係が見られないんですよ。
ただ、「いかにも」な地名(「四」とかも)は、
現代人の想像を色々とかき立てるんでしょうけど、
実際はむしろ普通の地名が多いと思います。
荒井貢次郎氏によれば、
弾左衛門支配下の長吏は、「皮剥ぎ」に対する権利は持っていたものの、
直接行なうことは禁じられており、
幕末にはこれを犯して処罰を受けた者もいる、とのことです。
農化の進んだ関東郊外の地区が普通の農村にしか見えない場合が多いのは、
そんな理由があるのかも知れませんね。
助左衛門文書によれば、早野村の小頭名は”五郎右衛門”。
隣接する鉄町との境、谷本川に近く旧鎌倉街道沿い。
地形的には要衝の地の様に見えます。
となると、配置されていてもおかしくはないと自分は思います。
30年程前の学生の時分に地区の方にお話を伺った記憶が蘇りました。
その当時でも農業に従事する方が殆んどで特殊な職業の方はごく一部だったと記憶しております。
もう昔の話と笑われました。
竹細工や履き物を生業とされている方もおりましたが貴方が訪れた場所とは少しずれております。
貴方が求めるものはもう少し北西の方かも。
ヒントをありがとうございます。もう少し北西ということは、杉本石材がある辺りでしょうか。
町田市大蔵町の白山神社の隣の隣ですが、こんな物件を見つけました。同じ造りの家が3軒並んでいます。
https://goo.gl/maps/wZbhNhjFJLQ2
公営住宅ではないようです。単なる古い建売住宅でしょうか。
高山秀夫によると町田市内には26ヶ所の小規模な部落があったそうです。そのひとつでしょうか。
なお、向かい側は墓地になっています。
航空写真を見ると、その住宅は1971年頃に出来ていますね。当時は周囲は農村なので当時のままだとすれば臭突があってもおかしくないでしょう。
向かいの墓地はそれより後に出来たようです。
単なる古い住宅の可能性が高いですね。
お返事ありがとうございます。住宅の外観からして1950年代ごろの物件かと思っていました。
町田市内の部落は『全国部落調査』に3ヶ所記載がありますが、残りの23ヶ所はどこなのか疑問に思っています。可能性があるのは、白山谷戸がある図師町や刑場跡がある南成瀬8丁目、菊池山哉の本に登場する小野路町あたりかと思っていますが、はっきりしません。
『全国部落調査』に載っている3ヶ所も早野町と同じように同化が進み、部落の痕跡を見出すのは極めて難しいですね。
https://goo.gl/maps/uNYDhNzd2it
これ、人で隠れてるんですけど、馬頭観音像なんですよね。
上のは忘れて下さい(汗
https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/digital_archives/houten/img/main/K292-0-22-13/00031.jpg
これをみると600~700って結構な敷地が、後藤商事とか後藤商店っていう産廃業者の持ち物になってるんですね。
メゾングリーンリーフの裏山の祠が白山神社ということでしょうか? とすると下分は下村の別称でしょうか。「分」は分村、新村、枝村の意味ですかね。
https://jigensha.info/wp-content/uploads/2017/03/IMG_4510.jpg
○○神社と書いてありますが、○○の部分が隠れていて読めません。なんと書いてありましたか。
どうやら「八雲神社」? 旧街道沿いで川に近いという立地はいかにもそれらしくはありますが。
再建八雲神社と書かれているように見えました。これが白山神社というわけではないようです。
ループ氏ももう確認していると思いますが、
「下(村)」の位置は、下記の書籍(P.110)に出ています。
小字や小名の名称ではなく、「講」で分かれていたようですね。
下(村)は位置的にはやはり「矢崎前」の辺りに相当しているようです。
・書名:七つの池と共に ~ふるさと早野を語る~
・編集:早野郷土誌刊行会
・発行:金子源一(早野郷土誌刊行会会長)
・平成十三年一月三十一日発行
この本は非常に興味深い。
非常に早い段階で村を挙げて融和に向かっていたように推察されます。
地区の白山神社の合祀先は「上(地区)」にある子ノ根神社。
上記の書籍では記載してませんが、
『柿生村・岡上村 郷土誌(昭和七年)』という書籍に、
「大正十年 白山神社、浅間神社を合祀す」と記載されております。
子ノ根神社の氏子を見ると「下(村)」の姓も混じっているので、これは間違いないようです。
早野65の子ノ神社(ねのじんじゃ)のことですか。
仰る通り、「子ノ神社」の間違いです。
これは大変失礼致しました。
すみません、それは見ていませんでした。
早くから融和してしまって、地元の人もほとんど知らないのだと思います。
実はメゾングリーンリーフの近くにタクシー運転手をやっている人の家があったのですが、そこで白山神社について聞いても知りませんでした。
白山神社ではないけど神社なら家の裏にあるよというので行ってみたら祠があった次第です。
http://www.city.kawasaki.jp/280/cmsfiles/contents/0000035/35822/sigen77.html
「子ノ神社は明徳元年に勧請天文15年(1546年)に再建。明治13年(1880年)村社となり大正年間に富士浅間神社・稲荷社・八雲神社を合祀し早野一村の氏神となった」とのことですが、白山神社を合祀したとは由緒書にもありません。単に書き漏らしたのか、意図的に書かなかったのかは不明です。
多分「意図的に」書いてないと思います。ただこれを隠ぺいだとかいうのは控えたいです。
合祀したはずなのに、地区の神社を再建する例があるように思えます。
馬絹や曽屋なんかもそうじゃないかなと。
祠の奉納者(?)に一般名主らしき姓も加わってるので、
再建時に「白山」の名称は避けたのかもしれませんね。
小机の根崎の白山も、現在は東町稲荷神社と名称が変わってます。
小机東町会館 の脇にある神社がそれで、
(Google Map上では、小机”京”町会館となってますけど)
http://www.city.yokohama.lg.jp/kohoku/fukuho/hitto27/09sirosato27.pdf
の様に、行政上も、古い住宅図上でも白山神社として扱ってます。
現地には狛犬はあるけど、お稲荷さんはいなかったと思いました。
ところで、写真の祠の奉納者(?)の姓を見ると、
小机からの流入以外に、十日市場からも来ている様です(但し、同地からは退転済)。
改めて矢崎前付近の住宅図を見て納得しました。
惣兵衛さんは妙に詳しいですが、もしかして人権板の民生住宅さんとかではないでしょうね。
残念ながら違います。
武ハイムの記事を読んで、むしろループさんの方が民生住宅さんとコネがあるのかと思ってましたよ(笑)
元々は職能民の歴史等に興味があって(特に関東の)、
その中で、表舞台にあまり登場しない皮革関係について調べてただけなんです。
(だから実は差別問題とかには興味ないし、差別意識も全然無いんです)
その過程で民生住宅さんの書き込みなんかも参考にして、
実際に自分でも文献を調べたり、現地を見に行ったりもしてたって感じですね。
ですので、南関東とその周辺限定の知識しか無いんですよ。
西日本は大分様相が違うみたいで、さっぱりです。
そうでしたか、失礼しました。
ちなみに、私は人権板の方々に太刀打ちできるほどの知識は持ち合わせていません。
1つお尋ねしますが、実は今日、浦賀1丁目に行ってきたのですが、「急傾斜地崩壊危険区域」の看板にある白山神社とは別の場所に神社の跡らしきものがありました。
あれは何なのかご存じないでしょうか。
これのことです。
すみません。全く分かりません。
どの辺にあったんでしょう?
芝生町の神社は、明治12年 神社明細帳で見ると、https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/digital_archives/gunyakusyo/html/page/miura/15/index.html
下記の三つの神社ですけど、どれも違いそうですね。
142 稲荷神社 →氏子の姓から見て、浦賀3丁目の芝守稲荷神社。
144 阿波島神社→氏子が上記と同じ。合祀とかされてそう。
146 白山神社
実際には寺や個人持ちのお稲荷さんや祠が結構沢山あったようなので、
その類なのでしょうかね。
番地で言えば浦賀1丁目10番地の家の隣にありました。
別の方から情報があったのですが、浦賀1丁目には2つ白山神社があったそうです。
あの写真の神社はもう1つの白山神社の残骸だと思います。
なぜ2つ白山神社があったのかは分かりません。
この地域の日蓮宗は三輪町にある妙福寺です。部落の事は隣町の王禅寺や下麻生の住民なら話してくれると思います。
ピンバック: 人権探訪(30) 静岡県浜松市中区花川町(後編) - 示現舎