『三重県部落史料集(近代篇)』に掲載された『壬申戸籍調査集計表』によれば、明治8(1875)年の行部村の古村の戸数は21とある。寺は善覚寺。その善覚寺の過去帳によれば天明7(1787)年の戸数は15。昭和初期には37戸あったという。
行部には西行部と東行部があり、東行部がそれにあたる。近世には穢多がいたとの記録がある。ただ、『三重県部落史料集(近代篇)』に掲載された『管内○○部落と其人口』には記載がない。
農業のほか、戦前から工業があったとされ、現在も鉄工所がある。
『三重県部落史料集(近代篇)』によれば、大正期に水平社支部が組織され、会員に山村、中世古という人物が見える。ここは、多気郡における水平社運動の中心的な役割をしていたようである。それどころか、全国水平社三重県連委員長であった新田彦蔵の出身地なので、三重県の水平社運動にとっても重要な地であった。
また、昭和6(1931)年に他地域の活動家と共に治安維持法で検挙された人物に中世古、新田、森島という人物がいる。容疑はマルクス主義の研究をし、私有財産を否定する活動をしたことである。
資料に出てきた名字の分布を検証すると、このようになる。
このように、かつては水平社や共産主義的な運動も活発であった。しかし、前述のような官憲による弾圧があったため、戦前には運動は消滅してしまっていたようである。
現在では大きな家が多く、周囲の村と差異があるようには見えない。
ただ、同和事業の対象になったことは明らかで、東行部教育集会所がある。
ただ、それ以外は特に目立った特徴はなく、同和施設がなければ分からない。
こちらは東行部集会所。倉のようなデザインである。
集会所の前に石碑がある。かつての村の功労者を称えたものであろうか。
なお、古村の北側は一面のソーラーパネルになっている。
配線を盗まれることを警戒してか、多数の警告の看板が立っている。
古村の西に墓地があるので行ってみた。これは、ひと目見て、かつて土葬をしていた墓だと分かった。すると、これは古村の墓ではないだろう。古村では土葬の習慣はなかったはずだ。しかも、この墓は見るからに宗派が浄土真宗ではない。
周辺を調べると、思った通り、別に浄土真宗の墓を見つけた。そして、名字が古村のものと一致する。古村の菩提寺である善覚寺は浄土真宗本願寺派である。
ここは東西の行部の墓が隣接しているのである。
コメント9有ったのに5に減り表示されないな。
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