いわゆる放送禁止歌の代表格として有名な「竹田の子守唄」。放送禁止とされた理由が部落絡みだということはよく知られているが、その部落が具体的にどこにあるのかは意外と知られていない。はっきり言ってしまうと、それは京都市の「改進地区」のことである。地名で言えば伏見区の竹田狩賀町と深草加賀屋敷町にまたがっている
ここにはかつての隣保館、「伏見いきいき市民活動センター」がある。例によって京都市内の同和施設はどれも立派だが、現在は一般化されている。特にこの建物は部落の中心からはかなり外れた大通りに面しており、同和施設であったことはあまり意識されていないように感じられる。
その近くには大きな公営団地が有る。
そして、大通りを隔てた反対側には、京都ラーメンとして有名な新福菜館がある。
市民活動センターの場所は昔は田畑だったが、この高架をくぐった先は昔からの部落の場所だ。
この民家は、かつて商売をしていた町家のような雰囲気がある。
そして、次々に目に入るのが巨大な同和施設。
かなり豪華な建物だが、児童館のようだ。
これは診療所。
驚いたのは、この眼疾患対策廃止の張り紙。平成14年からずっと張り出されている。その年は、国の同和対策が終了した年だ。 眼疾患とは具体的にはトラホーム(トラコーマ)のことだが、昭和58年には既に患者がおらず国の法律も廃止されていたのに、ずるずると対策が続けられた理由は何だったのだろう。
そして、これも京都の同和地区のテンプレ的施設である公衆浴場。これも非常に大きい。
ただ、料金は一般の浴場の基準に沿ったものとなっている。
同和浴場であることを強調する看板も無駄に立派だ。「目的達成のためにご協力」とは具体的に何をせよということなのだろうか?
休日の昼間だが、どの店も閉まっていた。
これは松尾神社。
もはや、竹田の子守唄から連想されるような風景は残っていない。
ここは西本願寺の寺。竹田の子守唄には「寺の坊さん 根性が悪い 守り子いなして 門しめる」という歌詞があるが、この寺のことではないだろう。そもそも、 竹田の子守唄が歌われていた当時は、ここは寺ではなく道場だったと考えられる。門は開いており、奥からは読経の声が聞こえていた。
公営住宅ばかりというわけではなく、民家が立ち並ぶ一角があった。
この狩賀橋が部落の西の端になるのだが…
橋を渡った先には立派な保育所があった。
不法投棄監視中の看板があるということは、裏を返せば不法投棄されることがあるのだろう。
同和を強調してるともう逆に面白いですね。
改進という地域名の由来はなんなのでしょうか。
調べましたが分かりませんでした。しかし、いかにも地方改善事業に因んだ名前という感じがします。
おっしゃる通り、明治時代に、地元の有力者が中心になって、両方の地区にまたがる「改進青年会」を組織して改善運動を起こし、この青年会が元になって、「改進夜学校」や「改進矯風会」ができたということです(京都教育大学教育研究所所報 (29)『社会同和教育の課題–京都市を中心とした考察から』とその参照資料による)。
「改進」という言葉自体は土地とは関係なく、時代の流行だったのでしょうが(立憲改進党とか)、ここではこれが残って、後に二つの区域をまとめた名称に選ばれたたのではないかと思います。
矯風会も被差別部落特有のものではなく、有力者・指導者層による道徳普及活動みたいな感じで、この時代にはあちこちで組織されており、田舎で村の悪い風習を改めようみたいなものから都会の廃娼運動まで含まれているように思います。
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深草といえば倖田來未ですね
京都の神田姓は吉祥院に多く分布しています。おそらくそこがルーツで深草に移り住んだのではないでしょうか。いずれにしても部落とは無関係ではないかと思います。
京都の八幡市も探訪して欲しいです。