ここについても、菊池山哉の『長吏と特殊部落』に記述がある。
○小土肥と言ひ、戸田と言ひ、今は全く人馬共に通らない。多くは舟運で、沼津へ連絡し、山又山の海岸を歩むものは稀となった。其道たるや羊膓たる小径で、草茫々である。訪ぬる人は、曲輪の者か、自分丈であらうか。
○鎮守は稲荷神、樹枝の垂れ下がる大木がある。樹の名が分らない。土地の人は千年経つと称してる。
○農であるが、山間懐ろが狭いので、各戸とも余り大きくない。今は僅に三戸となった。
○土肥にも式内土肥神社がある。郷としては井田郷の内であらう。この曲輪は海岸屈強の要害地である。
井田郷、那賀郷、石火郷の三郷が、北から来ると、那賀郷は松崎岩科にあたり、宇久須や土肥は共に井田郷の内であらう。
手がかりは稲荷神社があること、そして細い道を分け入った辺鄙な場所にあるということだ。
グーグルマップで小土肥を見ると、山の中に稲荷神社があるので、ここだろうと目星をつけた。その付近で老夫婦に出会ったので、3戸の「差別された村」がなかったか聞いてみると、あったということだった。
「確かに3軒あった。今はこんなこと言っちゃいけないんだろうけど、エタとかカーボーって言って、別の人達という扱いだった。昔はよくウサギを飼っていたけど、それをさばくなんて出来ないじゃない。そこで、あの人たちのところに持っていったら皮と引き換えに肉にしてくれたの」
現地には、山中を車で通れる道があるが、昔はそれを横切るように細い一本道だけがあり、その途中に村があったという。言われた通りに昔の道を進んでみたが、藪に阻まれてしまった。
しかし、今度は言われたのと逆の方向に進むと、古い民家と倉が現れた。
古い墓石らしきものが見える。
妙法とあるので、間違いなく日蓮宗のものだ。
そして、その先に稲荷神社がある。
確かに大きな木があり、枝が垂れ下がっている。
菊池山哉は樹の名が分らないと書いたが、クスノキではないだろうか?
社殿の内部。正確には「日鹿稲荷神社」というらしい。こんな辺鄙な場所にある神社だが、手入れされている。
後に分かったことであるが、部落名は「坂」。ずっと昔は稲荷神社の近くに10軒くらいが並んでいたという。
それが徐々に人が離れていき、菊池山哉が訪れた頃には3戸になっていたのだろう。昭和30年頃にはさきほど神社に名前があった西堀家だけになり、昭和40年頃には完全に無人になった。その西堀家は、今ではふもとで民宿を開いている。
稲荷神社は菊池山哉が記したとおり、昔は村の鎮守であったが、今は西堀家の私有になっており、元住民もほとんど近づくことはないという。
今は農作業のために人が入るくらいである。
昔からの道は、大藪の諏訪神社の脇道から続いていたというので行ってみた。
ここがその脇道。
岩の間を通る、凄まじい道である。昔はここしか道がなかったという。
途中、家の残骸や小屋があったが、これらは全て農作業用の物置だそうだ。民家はあの稲荷神社の周辺にしかなかったという。
最初に会った老夫婦から、西堀家とはまた別の住民のことを教えていただいた。商売で成功して中国に行き、当時はまだ取引が規制されていたなかった象牙の工芸品を収集して、象牙美術館を開いたという。その美術館は比較的最近まで小土肥にあったが、現在は伊東に移転している。
文中
>エタとかカーボーって言って、別の人達という扱いだった。昔はよくウサギを飼っていたけど、それをさばくなんて出来ないじゃない。<
>その西堀家は、今ではふもとで民宿を開いている<
現民宿の西堀家の先祖(現在も?)はエタ(部落民)とういこと確定であるということでしょうかね。現存する西堀家、特定できる民宿西堀家を記事で全国に公表する意義は??西堀家へ了解はとっているのでしょうか?
また西堀家の血筋は江戸期から続いている家柄でしょうか?ある部落問題をかじったばかりの無知な人が、部落民で江戸期まで先祖をさか溺れる人は私の知る限り一人と言っていましたが、、、
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それがどうかしたのかね?
誰だよw大磯の大縄橋さんか?w
君のルポなら菊池山哉の三戸は西堀、鈴木、山元で確定かね
西堀さんは東京で品川区大田区で肉屋の支店二三軒出したりビルを建て成功してるな
伊東の象牙美術館みたいにたまにとんでもなく成功する人がいる
戦後まもなくに高額納税者全国1位は草加市の皮工場経営者
君の地元のエセ同和行為で乗っかった被差別部落も上田さんが資産家で公会堂を建てたな
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『土肥の屋号』土肥町郷土史編纂委員会(1997)より
(字出口の項)
6.ヤマミツ(山光)※小土肥485
会社の名前。父親の名前をとって「やまみつ」と命名した。
桜葉の塩漬け加工をしている。
平成二年、象牙美術宝庫を始める。
21.ゲタヤ(下駄屋)※小土肥731
沼津で草履を作って腕を磨き、その後ここで下駄屋をしてきたことによる。
34.ニシボリ(民宿 西堀)※小土肥512-6
昭和四十三年、民宿開業に当たり、姓をそのまま民宿名として用いた。
昔は井戸端と呼ばれた。
下駄屋も西堀姓。
象牙美術宝庫はGoogle Mapでまだ見られる。
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平沼の勝呂姓はここで西堀さんと縁者になり移住か。
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豆州は三島の頭の配下だし本行寺に名前はないのか?
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