学術・研究:部落探訪(260)千葉県 佐倉市 臼井台

カテゴリー: 部落探訪 | タグ: , | 投稿日: | 投稿者:
By 宮部 龍彦

佐倉市臼井台には、戦前4戸の部落があったという。明治の頃までは馬皮や犬皮を生産していたようである。

そして、江戸時代の資料から、それが穢多に由来するものであることが推定される。現在、その場所がどうなっているのか確認しに向かった。

当地には真言宗豊山派の実蔵院というお寺がある。臼井台というくらいだから、台地になっている。

手がかりは、江戸末期の1858年に出版された『利根川図志』にある「臼井古城図」。この図では上が東になる。臼井城の南西に「今穢多町」という記述があるのがお分かり頂けるだろうか。

臼井古城図によれば台地の端の谷戸のような場所に今穢多町がある。この写真では斜め右の方向だ。

とりあえず実蔵院に行ってみたが、そこにある墓地はやはり真言宗のものである。特に手がかりとなるようなものはなかった。

台地の上は、かつてはまばらに家があり、ほとんどは畑になっているはずだが、今は新興住宅地のようになっている。

その一角に、庭にお稲荷さんがある家が。これは古くからある家だろう。

その脇に舗装されていない道があったが、行き止まりになっていたので引き返した。

さらに進むと階段が見えた。住宅地図だとこの上に墓があるらしい。

確かに墓地だ。しかもかなり古くからあるもののようだ。宗派は真言宗。これで、この辺りに古くからある家の名字が分かった。

しかし、古くからある家は大きな家が多く、この辺りの地主であったことが伺える。皮を扱っていたのであれば、あまり広い土地は持っていなかったと考えられるし、皮を処理するのだから悪臭を避けるために、やや隔絶された場所にあるはずだ。

そんなことを考えると、さきほどの稲荷神の脇の舗装されていない道が気になった。確かにあの場所には隔絶感がある。引き返してまたあの場所に行ってみると、台地の端に家があった。

あの道のさらに奥に平らな土地が。井戸があるし、ここにも家があったのでは?

皮の処理には水が必要だ。ここは台地なので川はないが、この場所は台地の端なので、地下水が得られたはずだ。

そして、周囲を見回して、この場所こそが臼井古城図の今穢多町であると確信した。古城図は厳密な測量なしに描いたと思うが、見た目の地形はまさに古城図そのまんまである。

何か手がかりにあるものがないか、住民に聞いてみた。皮を扱ったということは知らないという。しかし、かなり昔に小さな神社があって、戦後間もないころに、近くの八幡台にある神社に持っていったという。

この写真の辺りに神社があったが、その神社の名前は分からないという。白山神社ではないかと聞くと、「そうかも知れない」ということだった。

ということで、八幡社にやってきた。

境内には大杉神社や多数の疱瘡神があるものの、白山神社らしきものはない。

しかし、この場所で重要な話を聞くことができた。確かに昭和20年に臼井台の「今台」にあった白山神社が合祀されているという。残念ながら神社そのものはどこにも残っていないということである。

古城図によれば、今穢多町の近くに「今台町」という記述がある。これをもって、臼井台の部落はあの場所だと確信した。

なお、臼井古城図には「元穢多町」という記述もある。その場所は「臼井老幼の館」という児童館になっており、周囲は造成されて跡形もなくなっている。

宮部 龍彦 について

ジャーナリスト、ソフトウェアアーキテクト。信州大学工学部卒。 同和行政を中心とする地方行政のタブー、人権ビジネス、個人情報保護などの規制利権を研究している。「ネットの電話帳」管理人。

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学術・研究:部落探訪(260)千葉県 佐倉市 臼井台」への12件のフィードバック

  1. 菅四ジャイアンツ

    東日本部落解放研究所『東日本の近世部落の具体像』350ページに

    「赤松宗旦が『利根川図志』の中に葛飾北斎に模写させたという「臼井古城図」を載せ、そこに「今穢多町」と書き込んでいる所がある。そして、そここそ臼井台町の一部であり、ここには昭和になっても差別され続けている部落が存在していた。「千葉県融和事業概要」(一九二九年(昭和四)の中には、四戸、四○人が住んでいる(本籍者は八軒ある)と書かれていた。ここで生産された馬・犬の皮革がどこへ向けて出荷され、何に使われたかは分からない」

    云々との記載がありますね。

    返信
  2. かずさ

    いやいや驚きましたね。弟夫婦の家がすぐ近くです。古地図でいうと今臺町附近。さすがに稲荷脇の小道に入ったことはありませんが、この辺りは高台なので部落自体はそこにあっても、家とは別に作業場をどこか近くの低地に持っていたんじゃないかと思いますね。

    返信
  3. パクマン

    千葉市在住です。
    いつも興味深く記事を拝見しております。ありがとうございます。
    是非千葉市の矢作町や寒川町あたりのことについて調査をお願い致します。
    部落の記録があったようですが、当方の情報量では詳しく分かりませんでした。
    加えて、妻の実家付近、五井の白山神社、曾祖母の地元である木更津市牛袋の部落の噂についても調査をお願いしたいです。

    返信
    1. 影丸

      すごい!
      これが白山神社だと宮部さんが指摘した場所は違うことになる。
      わたしも過去の空撮で確認したところ、宮部さんの指摘した場所は、1963年の空撮では建物が確認できない。ところが1980年の空撮では二軒確認でき、現在は奥の建物が消失して、手前の建物だけが現存している。このことから、あの場所は比較的新しく建物があったことになる。
      宮部さん、もう一度、行ってください

      返信
    2. 古地図と現在の地図を比較検証しましたが、そこだと今臺町になるでしょう。
      住宅敷地内にお社があるのが見えて、すわ白山神社は是如何に。。。
      今回はループ氏の見立てで合っているかと存じます。

      返信
      1. kazuisono1

        おっしゃる通り、集落の所在地は宮部氏の考察どおりかと。
        私は「今臺の白山神社」跡を推定したまで。
        因みに祠のある敷地は個人所有ではなく、佐倉市所有の公有地。

        返信
        1. 影丸

          う~ん。
          それだと1963年の空撮で建物が確認できないことが気になる。例の本が出版されてから40年あまりで4軒全てが消失したことになるが?
          白山神社が宮部さんが指摘した場所にあったと仮定しても、私としては、小道に入る手前周辺又は現存する白山神社周辺が部落の場所とするのが素直な見方ではないだろうか。確信はありません。

          返信
          1. 宮部 龍彦 投稿作成者

            その祠は見落としていましたし興味深いですが、ただの稲荷神の可能性も。八幡社に合祀された神社は古地図の今穢多町の場所にあり、今は痕跡すら残っていないというのが復数の証言です。

  4. kazuisono1

    なるほど、今穢多町という言葉を使わず、単に当時の町名での教示を受けたという事でしたか。
    これからも、埋もれてしまいそうな歴史を後世に伝えるべく奮闘する姿を見せてください。
    スレ汚し失礼致しました。

    返信
  5. 佐倉市臼井台

    かつては台地の下には全く家が無かったみたいです。そして台地の下に降りられる小道が見られます。
    今臺町の道がクランクしているのは、ここが臼井城下であり、桝形の様にして態と折っている事が考えられるかと。

    返信

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