古河市の代表的部落と言えば大山・中田であり、この2部落は隣り合っている。大山の範囲は相当広いのだが、ほとんどは部落ではない本村であり、小堤という枝郷が部落であった。昭和初期の記録では、19戸と多くはない。
今回は、地元の識者と共に探訪した。
大山には古河市隣保館がある。ただし、この場所は明らかに一般地区であり、部落からはかなり離れている。距離的にはむしろ、田中に近い。
周辺は何の変哲もない住宅地で、むしろ大きな家が多い。秋庭という表札の家が目立つが、これらが古くからの家で、いかにも広い土地を持っていた農家であったと思われる家が多い。
ところで最近、「部落解放愛する会」の機関紙に、同会の金子書記長が行政関係者向けの研修会で曲輪クエストに触れたことが書かれていた。
古河市の同和地区をどうやって調べたのか? 調べるも何も、同和地区の外とは言え、これだけ大きな隣保館があれば同和行政をやっていることは明白で、地元の識者によれば大山・田中が同和地区であることは古河市では公然の事実である。公然となっていることを、いちいち調べる必要があるだろうか?
どうやって苗字を調べたのか? ゼンリン住宅地図にはゼンリン調査員が現地で表札や郵便受けを見て書き写した苗字があり、神社に行けば氏子の苗字が分かるからである。
昨今は「表札を撮るのはプライバシー侵害だ」と発狂する無知な人々がいるが、それなら、ゼンリンを訴えればどうか。古くからのコミュニティを知られるのがそんなに嫌なら、神社を焼き払ったらどうか。
ゼンリンを非難できないのは、それが既得権益であり、事実として行政も警察も民間企業もゼンリンに依存しているからである。神社を焼き払えないのは、信教の自由があるからである。
大山の集会所。隣保館から歩いて15分以上かかってしまったが、この施設こそ大山の部落の近くにある。
掲示物に同和だの人権だのと言ったものは見られない。教育集会所と思ったが、市長部局の管轄で、一般のコミュニティ施設と同等の扱いのようである。ただし、同様の市が所有する集会所は大山と田中の部落にしかない。
その近くが、かつての「小堤」であるが、新住民の家や集合住宅が古い家に混じっている。
墓地には多並という名字が多く、おそらく主に浄土真宗である。
地区内の道路は整備されている。
古くからの家は、比較的大きいものが多い。
牛頭霊大神という石柱。これは牛頭天王に関係あるものらしい。
なお、茨城の全国連の機関紙にもこのような記事が掲載されていた。何かあれば「悪質」「差別」「居直り」と定型句をまくしたてるのは、解放同盟中央本部派と全く変わりがない。
読者には言うまでもないことであるが、行政が同和地区指定をし、運動団体は部落の地名を図書や機関紙に書き、フィールドワークと称して曲輪クエストをしてきたことは公然の事実。それにも関わらず、筆者が曲輪クエストをしたら、法務省が後出してルールを変えて、部落の地名を出すこと自体が差別と言い出したのが今回の経緯である。
地理・地誌はその土地の住民のものだろうか? 昨今の行政・運動団体・司法のやっていることは、結局はその土地の自治会長や運動団体の支部長が、その土地に絡むものに何でも権利を主張して、強請りたかりをするのを正当化していないか。
そのうち、研究者が土地の歴史を調べるのも、メディアが取材をするのも、まずは自治会長や運動団体の支部長に挨拶して協力金を支払わないといけなくなるのだろうか。
これが件の全国連の建物。うっすらと丸ゴシック体の「落」の字が見えるが、部落解放全国連合会と書かれていたのを塗りつぶしたのだろう。
もはや地元住民からも支持されているとはとても思えないのに、時代錯誤的な昭和の活動家のやり方を漫然と続け、部落解放運動団体を標榜して、そしてそれを行政が真面目に相手にすることが、部落が白眼視される原因の1つになっていることに気づくべきであろう。間違った善意ほど有害なものはない。
正面にある老人福祉施設から見えるのを気にしてのことか。ちなみに、ここも部落の外である。地名は大山であるが、隣保館と同じく、むしろ中田に近い。
随分 古河に敏感に反応しますね、団体さんは
市役所に利権がある人が入り込んでるのかな?
地域、地区の名前であれば大山に隣接してるのは「田中」ではなく、「中田」です。
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