元従軍慰安婦で人権活動家、李容洙。彼女は今の日本で最もホットな韓国人かもしれない。1992年に元従軍慰安婦として名乗り出て以来、慰安婦問題の象徴的存在として活動してきた。来日経験も多数で集会、シンポジウムにも登壇し日本政府に謝罪と賠償を要求してきた。ところが5月7日、李氏は記者会見を開き慰安婦問題解決を訴える「水曜デモ」が「憎悪と傷ばかりを教え込んだ」、またデモの主催団体である正義記憶連帯(旧挺対協)について「30年にわたりだまされるだけだまされ、利用されるだけ利用された」と暴露したのだ。怒りは長年の盟友である旧挺対協前代表で国会議員の尹美香氏(写真壇上の女性)にも及ぶ。逆に尹氏は李が慰安婦と偽ったと示唆するなど泥沼バトルの様相だ。活動の中心人物がもし「フェイク」とすれば…もしや従軍慰安婦問題は自壊していくのか。
(タイトル画像は議員会館で講演する尹氏。李氏については過去記事もご参考に)
1992年以来、毎週水曜日に在韓国日本大使館前で執拗に開催される「水曜デモ」。慰安婦問題で最も有名な活動だ。朝鮮日報など韓国メディアによれば李氏は同集会について「憎悪と傷ばかり教え込んだ。寄付も被害者のために使われたことがなく、どこに使われたのか知らない」「今後は参加しない」と指弾した。水曜デモを主導してきた正義記憶連帯(旧挺対協)についても前述した通り怒りを露わにする。
4月の総選挙で「共に市民党」の比例代表として当選した尹美香氏に対しては「私欲のため的外れなところに行った」と批判。加えて「2015年の日韓合意の時に日本から10億円がくるのを知っていたのは尹代表だけだ」という爆弾発言も見逃せない。尹氏は韓国外交部の事前説明を聞いていながら慰安婦に伝えていなかったというのだ。
尹氏も黙っていない。自身のフェイスブック(5月8日)で「1992年にイ・ヨンスさんが電話をかけてきた時に私はオフィスで電話を受けた。蚊がなくような小さな声で震えながら“ 私(イ・ヨンス)は被害者ではなく(慰安婦は)私の友人です”と言った状況を昨日のことのように覚えています」と反論した。表現こそ緩やかだが李氏は本当の慰安婦ではないと仄めかしている。日韓合意について尹氏は「朴槿恵政府が10億円を受け取ることを(私と他のおばあちゃん=慰安婦は)事前に知っていたが、あなただけ知らなかった」としており日韓合意の内幕をめぐり対立中だ。
確かに「見えない」経歴
「反日」というキーワードで結束できる韓国人がまさか最大の外交・政治カードである慰安婦問題で内ゲバ発生とは…。驚いた人も多かっただろう。李容洙という人物をよく知らない人のために日本でも紹介された“公式設定 ”の一つを紹介しよう。
1928年12月13日 韓国慶尚南道大邸(テグ)市に生まれる。貧しいながらも両親と兄と本人と4人の弟の大家族で、毎日が賑やかで睦まじく暮らしていました。学校にも通いましたが、弟がたくさんいたので、1年ほどでやめてしまいました。その後、夜学に通い日本人の先生に日本の歌を教えてもらいました。
1944年秋 15歳の時、家で寝ていると小窓を叩く音に目を覚まし、手招きされるままに外に出てみると日本軍人が立っていました。脅されるがまま連行されました。大邸から汽車にのり慶州、平壌・安州、大連に行き、船に乗って台湾・新竹海軍慰安所へ。1945年春 16歳の時、慰安所が爆撃にあい、家の下敷きになりました。親切にしてくれた特攻隊の軍人が出撃して帰っては来ませんでした。8月 日本の敗戦で“解放”され、収容所に集められました。
1946年春 17歳の時、帰還船に乗り釜山港へ着き、大邸駅からは父母の元へ走りました。父母の元に帰れたものの誰にも被害を語れませんでした。誰かにその事が知られてしまうのではないかと恐れて暮らしていました。それからは、いくつかの仕事をしながら弟たちの援助で生活していました。
1992年6月25日 63歳の時、恐る恐る何度も迷い、そして勇気をふりしぼって名乗りでました。その後、韓国・日本のみならずアメリカ・カナダ・フィリピン・台湾などでも証言と抗議の活発な活動を続けています。2002年日韓請求権協定関連文書公開請求行政訴訟の原告団の先頭にたつ。2007年には米国公聴会で証言。
「李容洙(イヨンス)ハルモニ今を語る~被害者として名乗りでてから20年~」(2012年より)
李氏の経歴の曖昧さについては過去、様々な研究家・メディアに指摘されてきたが例えば「女たちの戦争と平和資料館(WAM)」のHPには「1944年、16歳の時に台湾の新竹にある慰安所へ。生理の時も強かんされた。慰安所の入口には毛布がかけてあるだけだった」とある。上記設定と慰安所に入った年齢と西暦が1年違う。何しろ「被害者の涙は何よりの証拠」と公言してしまう一派だ。1年の違いぐらいは誤差、うっかりミスの範囲である。
あるいは「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」(当時)について報じた『赤旗』(2002年6月26日)によれば
韓国の李容洙さん(74)は、十四歳で銃剣をつき付けられて連れてこられたこと、拒むと殴られ、電気による拷問を受けて死にかけたことなどを話し、「私は歴史の生き証人として今、生きている。この法案が審議され、成立することを望む」と語りました。
同じ『赤旗』であってもこういう設定もある。2006年10月5日の記事を紹介しよう。
埼玉県の「上田知事の『従軍慰安婦』否定発言を問う県民連絡会」は三日夜、上田清司知事の発言撤回と謝罪を求め、歴史認識を問う集会を、さいたま市浦和区の埼玉会館で開き、約七十人が参加しました。集会では、韓国の元「従軍慰安婦」である李容洙(イ・ヨンス)さん(77)=韓国・大邱(テグ)在住=が、十六歳当時に強制連行のうえ「従軍慰安婦」にされた実態を、日本語と韓国語で証言しました。
ここでは強制連行という文言が加わったのが特徴的。異なる少女時代があったのか。なぜこうした“ 誤差”が生じるのか。それは公の場ではお付きの活動家を伴い常に“言わされる ”立場にあったがためだろう。活動家の政治的事情や思惑が経歴設定にも影響したと考えられる。
とにかく一般的な政治活動家よりも「当事者」という立場は強い。特に権利闘争の場面ではなおさらだ。
部落解放同盟はゼッケンを着用する、アイヌは民族衣装「ルウンペ」、そして慰安婦活動家はチョゴリ、要求闘争におけるお約束のユニフォームである。このユニフォームは「当事者」であることの一種の身分証明書の役割を果たす。日常生活で彼らがいつも着用しているわけではなかろう。なぜか身にまとうとイデオロギー臭が放たれ政治家、行政、企業、こういった人種は簡単にひれ伏す。特にチョゴリを着た女性活動家は面白い。壇上ではチョゴリ姿でさめざめと泣き要求を訴えて、舞台を降りればカジュアル姿に戻り高笑いで去っていく。こんな光景は何度も見てきた。一体、何なのかと思う。
李氏も公の場で「当事者」として活動しアドバンテージを活かしてきた。そんな当事者の利を活かしたのが先の赤旗の記事にもあった上田清司前埼玉県知事との面会だ。2006年6月27日の埼玉県議会で上田知事は埼玉県平和資料館の展示について「東西古今、慰安婦はいたが従軍慰安婦はいなかった。間違った記述は修正されなければならない」との見解を示した。同館では第二次世界大戦、戦後処理についての年表が展示されており(当時)、「1991年 従軍慰安婦問題などの日本の戦争責任論多発」という項目があった。上田知事の答弁の翌年に「従軍」の文字が削除されたのだ。
抗議のため2007年3月1日、李氏は上田知事と約15分の間、面談した。当時の活動家の話によれば
「李氏は知事に“私が見えますか ”と尋ねたが知事からの返事はなかった」
という。文字だけを見れば何やらサイケデリックな発言だが、要するに「従軍慰安婦」という言葉に疑義を唱える上田知事は従軍慰安婦である私(李)の存在を認識しているのか、という意味だろう。また「私は日本軍人に台湾に連れて行かれ性奴隷にされました」「私は慰安婦ではありません(*あくまで従軍慰安婦であるという意味)」と述べた。
「性奴隷」(sex slave)という用語が喧伝されるようになった頃だ。李氏もそれを意識しての発言だが、「私は慰安婦ではない」とはつまり「性奴隷であり、従軍慰安婦である」ということを強調したのだろう。単なる活動家ならば知事との面談を実現するのは難しいがやはりこれも「当事者」という強みを活かしたのである。
ところが従来からの経歴の曖昧さに加え、尹氏というパートナーからも「慰安婦ではない」と匂わす発言が飛び出した。「私が見えますか」という問いかけだがこうした事態に至っては「見えない」と言われても仕方がない。
さて今回の李氏の造反に対して見解を聞こうと韓国の正義記憶連帯(旧挺対協)に連絡してみた。以前、問い合わせた時は日本語ができるスタッフがおりそれを期してのことだが、「日本語が分かる者がいない」ということだった。
それから慰安婦問題のシンボル、聖人・李容洙の反乱は日本の活動家にも衝撃を与えた。5月13日に日本軍「慰安婦」問題解決全国行動が発表した見解(文末に引用)ははっきり言ってかなり苦しい。李、尹双方の顔を立てなぜかこの対立も日本政府の責任になっている点が面白い。しかし尹氏への疑惑は韓国メディア、政界からも指摘されているが特に説明はなかった。李氏の従軍慰安婦の経歴疑惑についても言及がなく、ただ必死さだけが伝わる内容だ。
様々な疑惑に奇妙な経歴―――。尹・李両氏どちらの主張が真実か分からないが、いずれにしても従軍慰安婦活動にとってダメージに違いない。今後も「被害者の涙が証拠」という論法が通用するものか見ものではある。李氏の反乱は従軍慰安婦問題“自壊 ”の狼煙となろうか?
日本政府、日本社会こそが責任を問われている
被害者を追い詰めたのは誰か
「30年間家族のように過ごしてきたハルモニが示された残念な思い、尹美香(ユン・ミヒャン)前代表が去った時に感じたであろう不安、何よりもこの問題が解決されていないことへの怒りを謙虚に受け止め、李容洙(イ・ヨンス)ハルモニを不本意ながらも傷つけてしまったことに対し心からお詫びいたします」日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(正義連)の李娜榮(イ・ナヨン)理事長は5月11日、李容洙ハルモニへの謝罪の言葉で記者会見を開始した。これに先立つ5月7日、日本軍「慰安婦」被害者である李容洙ハルモニが会見を開き、「もう水曜デモには出ない」「尹美香はこの問題を解決してから(国会に)行くべきだ」等と発言したことに対して、正義連が謝罪の言葉を述べたのである。しかし、真に謝罪すべきは誰なのだろうか。李容洙ハルモニの苛立ちと不満は誰に向けられたものなのだろうか。30年間、被害事実の認定と心からの謝罪、それに基づく賠償、たゆまぬ真相究明と教育等の再発防止策が求められてきたにもかかわらず、未だその声に応えることが出来ていない日本政府にこそ、被害者をこのような状況にまで追い詰めた責任がある。そして、日本政府に責任を取らせることが出来ていない私たちは、日本の市民として、その責任の重さを痛切に感じ深く恥じ入る他ない心情だ。
一部韓国メディアは悪質なでっち上げ報道を直ちにやめよ
ところが、この李容洙ハルモニの哀切な訴えを利用して、尹美香前代表や正義連が明確な説明を繰り返しても「疑惑」があり続けるかのように印象づけようとする一部韓国メディアの報道が日増しに度を超している。中でも、2015年の日韓合意をめぐる「疑惑」なるものは、当時の運動過程を共に歩んだ私たち日本軍「慰安婦」問題解決全国行動にとっても聞き捨てならないものだ。それは、尹美香前代表が日韓合意の内容を事前に知っていながら被害者たちには伏せていたという「疑惑」だ。これは、当時の韓国外交省関係者らが「尹美香代表は事前に知っていたのに、発表されると豹変して合意に反対した」「外交省は事前に被害者たちとの協議を15回にわたって行った」等と、これまで吹聴してきたものが再燃した形だ。これについては、5月10日に発表された共に民主党の論評が簡潔に事実を語っている。
「朴槿恵政府当時、外交部(外交省)は被害者と関係団体とは何らの事前の協議もなく、12月27日午後に開かれた日韓局長級協議で全ての事項を決定し、当日(27日)の夜に尹美香・当時の挺対協常任代表に1.責任を痛感、2.謝罪反省、3.日本政府の国庫からの拠出という合意内容の一部を、機密保持を前提に一方的に通告した。不可逆的解決、国際社会で言及しない、少女像の撤去等の内容は外されていた。事前協議というのも外交部の旧正月等の挨拶訪問のみだった」(( )内は訳者補足)。
被害者と協議することが既に不可能な発表前日の夜遅くになって、当然反対されるであろう内容を伏せて一部の内容だけを尹美香前代表に告げたのが、外交省の言う「事前協議」の全てであることは、当時の状況をつぶさに共有していた私たちも明確に記憶する事実だ。この事実については現在、韓国外交省も「2017年の日韓合意検証で述べたとおり」という形で、尹前代表側の主張が正しいことを追認している。
他にも、李容洙ハルモニの発言からは遠く離れて、個人のプライバシーにまで土足で踏み込む報道合戦まで繰り広げられている状況に対して私たちは断固抗議し、即刻このような非人権的な報道、根拠なき歪曲報道をやめるよう訴える。一部韓国メディアの歪曲報道は、日本政府が、そして日本社会が歴史を直視して未来の平和へと繋げるための道を邪魔するものになりかねないことを付言しておく。
今後も性暴力の根絶と平和を求める道を共に歩み続ける
正義連の運動は、正義連だけのものではない。自らの痛みを吐露することで二度と同じようなことが起きないよう世界に警鐘を鳴らし、戦時下で、あるいは日常の中で性暴力の被害に遭った女性たちに勇気と希望を与え、記憶し継承することが再発防止の道であることを示してくれた日本軍「慰安婦」被害者たちの思いと運動に連なってきた世界の市民たちが共に築きあげてきた運動だ。その運動を今後は韓国国会で実現していくという尹美香前代表の新たな挑戦、「今後も揺らぐことなく進んで行く」という正義連の決意に、私たちは絶大なる信頼と支持を送り、今後も連帯を強めていく。
最後に、日本政府の責任履行という被害者たちの切実な願いを未だ実現させることができていない日本の市民として、李容洙ハルモニをはじめとする各国の被害者、亡くなった被害者たちに心からのお詫びを申し上げる。今後も、私たちは李容洙ハルモニの同志として、共にあることを伝えたい。
日本軍「慰安婦」問題解決全国行動見解