細野豪志を自民に導いたのは 野中広務の「保守二訓」!?(前編)

三品純 By 三品純

「風雲急を告げる永田町…」
週刊誌、夕刊紙で政局を報じる時、よく用いる定型句である。民主党政権で環境大臣、党職では副幹事長などを歴任した細野豪志衆議院議員(静岡県五区、以下敬称略)が1月下旬、自民党二階派(志師会)に「特別会員」として入会したことは大きく報じられた。「風雲」とまで言えるかはともかくあまりに「急」な話だったことは間違いない。当然、自民党内から反発の声が相次いだ。

一方、永田町界隈・メディア関係者の間で妙な噂が囁かれた。それは細野氏の自民党入りは故・野中広務元官房長官の影響というのだ。ところがこの事実を一般メディアが報じられないのは「同和絡み」が原因という話である。はてさて、といったところだった。確かに政治、行政、司法といったシーンにおける同和の影響力は絶大だ。ところが「同和」というキーワードが出てくると、逆に“眉唾話”が横行する側面もある。ただ「同和絡み」はないにしても、両氏の関係自体はまんざらでもない。野中は晩年、細野と交流を持っていたからだ。もしや細野の自民党入りには野中の影響や教えがあったのではないか? こんな推測を立てて細野自民入りの裏側を取材、検証してみた。

民主党若手議員の中で最もスピード出世だった。

それにしても「細野豪志」とは何かと話題性がある政治家だ。「モナ男」「ブーメラン男」「イケメン議員」細野については様々な愛称がある。モナ男というのは2006年、当時『筑紫哲也 NEWS23』のキャスターだった山本モナとのキス写真を写真週刊誌にスクープされたことが由来だ。ブーメラン男とは自ら発した批判が自分自身や所属政党にも当てはまる(戻ってくる)ことを示す。これは細野に限らず議員にはよく起こる現象だが、なにしろ発信力があるから余計に「ブーメラン現象」が目立ってしまう。そして全方位的に敵を作ってしまったのがあの希望の党結成騒動だ。

2017年、細野は小池百合子都知事率いる「希望の党」設立メンバーに加わる。そして民進党からの合流希望者の選別・公認、また首相経験者や衆参両院議長の排除に関わった。この際、細野の「三権の長の経験者は遠慮してもらいたい」という発言は記憶に新しいだろう。この間の細野の言動は旧民進党関係者にとって屈辱そのものだった。それだけに今回の二階派入りに対して許せないという思いが強いはずだ。

もちろん自民党議員にとっても抵抗があるだろう。細野は長年の敵だ。特に自民党東京都連は小池知事率いる地域政党「都民ファーストの会」の躍進によって議席を大きく減らしたから「恨み骨髄に徹する」の心境だろう。それに細野が自民党への入党を希望するといったところで地元静岡五区にはすでに候補者がいる。細野と静岡五区選挙区の議席を争ってきた吉川赳元衆院議員が所属する宏池会(岸田派)の会長、岸田文雄政調会長は「五区には正式な支部長がいる」とこの動きをけん制した。また萩生田光一幹事長代行は1月31日のインターネット放送『真相深入り! 虎ノ門ニュース』に出演し「あそこまで自民党政治の批判をして、自分のふるまいが間違っていたなら国民に知らしめるべき。ウロウロされるのは迷惑だ」と厳しく批判した。

2015年1月、岡田克也、長妻昭と代表選を争った。民主党本部(当時)で3氏による討論会。

しかし細野の支持者からは「過去、民主党から自民党入りした議員もいる」という不満も漏れてきた。確かにそうだ。民主党政権で初代復興担当大臣に就任した平野達男参議院議員が2016年に自民党に入党し、二階派入りした。また菅内閣で外務大臣を務めた松本剛明衆議院議員は2017年総選挙で自民党公認候補で当選し、麻生派の所属になった。

いずれも民主党政権で要職を務めた議員だ。ただ申し訳ないがこの両氏、大臣でもなければほとんどの有権者はこの名を知らなかっただろう。いや松本の場合は伊藤博文の玄孫という点で認識されたかもしれないが、少なくとも「お茶の間」レベルで知られた議員ではなかった。それを差し引いても平野、松本両氏が自民党入りをした際、これほどのバッシングを受けたものか。平野の入党の場合、参議院議席数が過半数に達するという事情もあってむしろ歓迎するむきすらあった。
ところが細野となると袋叩き状態だ。石破茂元幹事長は新進党からの出戻り組だが現在、非主流派とはいえ要職を歴任してきた。細野を受け入れた二階幹事長に至っては5党を経ての出戻りだが党の重鎮である。しかし決定的に異なるのは新生党や新進党が政権を担うことはなかったが、旧民主党は政権を奪取したこと。しかも細野は幹部議員だった。このキャリアの違いは大きいかもしれない。では細野は二階派入りについてどう説明しているのか? 1月31日付けで支援者に手紙を送付した。こんな文面だ。

支援者に「選挙区替えは考えられない」

ご支援くださっている皆様へ
                                  
余寒の候、皆様におかれましては益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。平素よりわたくし衆議院議員細野豪志の活動に温かいご理解とご支援を賜り、心より感謝を申し上げます。

本日、志師会に入会いたしました。この決断に至った経緯をご説明申し上げます。

志師会を束ねる二階俊博先生は、裾野市ご出身で旧静岡2区の代議士であり、狩野川台風発生時に建設大臣を務められた遠藤三郎先生の秘書から長い政治生活をスタートされています。二階先生は、遠藤先生の秘書として狩野川放水路の早期完成に尽力されるなど、災害からの復旧復興に大きな貢献をされました。こうしたご縁もあり、二階先生には、従来から地元の要望の実現にご尽力いただき、私が取り組んできた生活保護家庭の進学や虐待の問題についてもご指導いただいてまいりました。

政治家としてスタートした20年前から、私が大切にしてきた政治理念が三つあります。        

①内政は弱い者の立場に立つ
②多様性(ダイバーシティ)を大切にする
③外交安保は現実主義に立つ

若輩の私が申し上げるのは僭越ですが、二階先生とは私が大切にしてきた三つの政治理念を共有することができると感じるようになりました。

一昨年、安保法制違憲論に舵を切った民進党を離れ、希望の党を立ち上げたのは、この理念を実現するためです。チャレンジしたことに悔いはありません。
しかし総選挙の結果は厳しいものでした。国民は野党第一党として立憲民主党を選び、希望の党は解党するに至りました。政治家である限り、国民の判断は厳粛に受け止めなければなりません。総選挙の後、自ら進むべき道について熟慮を重ねる日々を過ごしてきました。

希望の党で共に戦った議員が参加している国民民主党に期待してきましたが、現実には野党勢力が立憲民主党に収斂されつつあります。今夏の参議院選挙では1人区を中心に共産党を含めた野党の選挙協力が進んでおり、衆議院でも協力が進むと思われます。外交安全保障と憲法という基本的な理念に大きな違いがある以上、こうした野党勢力に加わるという選択肢は私にはありませんでした。

今後は、志師会の一員として与党の皆さまと協力しながら、政策を前に進めるために力を尽くしてまいります。私をお支え頂いた皆さまの中には、今回の私の決断について厳しいご意見をお持ちの方がおられると思います。また、自民党の関係者の皆さまの中に、長く非自民の立場に身を置いてきた私に対する厳しい声があることも承知しております。そうした皆さまと対話を重ねながら、自民党入党を目指してまいります。

今回の判断は、政治活動20年の中で最も難しいものでした。これまでご縁を頂いた様々な方々、既にお亡くなりになった方々を含め、多くの方の顔が浮かんでは、思考が行きつ戻りつを繰り返し、決断には相当の時間を要しました。しかし、政治家として国家国民のために働き、地元に貢献するためにはこの道しかないとの結論に至りました。決断した以上は、歩みを前に進めます。
冒頭で記した私の政治理念は、今後も変わることはありません。しかし、今回の決断は、保守二大政党制を目指し、非自民に長く身を置いてきた私の政治的な立場を大きく転換するものであることは紛れもない事実です。ご批判は甘んじてお受けいたします。

今後は、新たに出直すという重大な覚悟をもって懸命に働いてまいります。皆様のご理解を頂けますよう、伏してお願い申し上げます。

敬具 平成31年1月31日 細野豪志                

追記 一連の報道の中で、選挙区を移るのではないかとの噂が一部で出回っていることに、大変、驚いております。明確に申し上げます。そのようなことは絶対にありません。この地で政治家としても、人としても育てて頂いた私が、選挙区を離れて政治活動をすることなど、全く考えられません。念のため、追記させて頂きます。

支援者に向けた手紙の一部。

かつての後援会長も怒り心頭

最後の追記部分。細野が自民党の新潟選挙区へ「国替え」するという一部報道を意識したものだろう。だがこの通り、静岡五区からは動かないと支援者に向けて宣言した。同選挙区は2000年(旧七区)に初当選して以来の立志の地であり、この地を譲るわけにはいかない。しかしかつての仲間や地元関係者たちの声は決して甘くない。

「立憲民主党の議員たちからは“細野とだけは会派は組めない ”とか“どの党と組んでも細野とだけは御免を蒙るという ”と総スカン状態だから自民党に逃げるしかなかったんでしょ」(旧民進党関係者)。

また細野にとって長年の“恩人 ”も怒り心頭の様子だ。細野の後援会長を務めた馬場妙子元三島市議はこう批判する。

「(細野とは)民進党を離党してから縁を切りました。野党が弱体化したのは細野さんが党を出たからだと思います 」

2000年総選挙、旧静岡七区に落下傘候補として立候補した細野。当時、同区は保守分裂が起こったことも幸いし細野が当選した。もちろん馬場氏ら地元民主党支持者の協力者もあってのことだ。

「当時、ここ(静岡)は自民党が強くて閉塞感がある政治状況でした。そこに新人として降り立って風穴を開けてくれる優秀な青年だと思いました。民主党に入って党の政策の実現をしてもらえると思ったからこそ支持してきたのです」

残念な思いが伝わってくる。そしてこんな疑問を呈した。

「今思うと彼はあまり政策を語るということはありませんでした。ところが二階派に入ったのは“ 政策を実現するため”というのでしょ? 政策を進めたいといってもどんな政策がやりたいのか逆に聞きたいぐらいです。今までは自民党に対して民主党(民進党や希望の党を含めて)の政策を実現するといってきました。では今度は自民党の政策を手助けするということなのか。こういう政策を実現するためにとはっきり言ってくれたらまだ理解できますが。後援会の中には “ どこだろうが関係なく私たちは細野党だから細野支持”という人も少なくありませんがどうなることでしょうね」

確かに細野はこの間、「政策」という言葉を頻繁に使ってきた。しかし長年、敵視してきた自民党の軍門に下ってまで実現したい政策とは何か? 馬場氏の指摘通り見えてこない。ある支援者のこんな一言が印象的だった。「あの人(細野)は何をやっても70~80点の人だから」。間違いなく能力はある政治家だ。またメディア露出も高い。テレビの討論番組、情報系バラエティ番組でも細野はよく出演してきた。なにしろイケメン議員という扱いだし、しかも弁が立つ。

まだ旧民主党が元気だった頃、メディアで安全保障関係ならば前原誠司、長島昭久、年金関係なら長妻昭、拉致問題・北朝鮮問題なら松原仁、こんな議員たちが出演したものだ。ただ細野の場合、専門分野を語るというよりも党の意思を伝えるスポークスマンという位置付けではなかったか。国務大臣を務め、政権政党の幹部だった政治家を論じるにあたりセクトや宗教団体を持ち出すのは申し訳ない気もするが、安保闘争時代、団体の表の顔、広報役はえてして怜悧でスマートな活動家が担当したものだ。あるいは旧オウム真理教の場合、広報役・スポークスマンは上祐史浩だ。上祐には女性の追っかけまで登場したものだ。要するに組織の広報、表の顔はビジュアル重視という側面がある。

面白いことに細野の場合、スポークスマン的な存在ではあるが、同時に実務能力も長けた。だから若くして要職を任されたのだろう。2006年、堀江メール問題を起こした故・永田寿康元衆議院議員のようにあの頃の民主党の若手議員にはある種のエネルギーと危うさがあった。逆に細野は例のスキャンダルを除けば言動は実に堅実だ。そうした特徴が何をやっても70~80点という評につながるのかもしれない。もちろんこれ自体、立派な能力であるが、専門分野・得意分野はあまり伝わってこない。

政治家の原点? 阪神淡路大震災で活動

それにしてもあの年齢で要職を歴任し、大失敗に終わったとはいえ希望の党の結党という大きなアクションを起こした。ある種の“ チャラさ”も感じるが同世代としては敬意すら覚えている。もとは自民党入りに野中広務の影という趣旨で取材をするつもりだったが、細野豪志という政治家の原点にも触れたくなった。そこで細野の実家がある近江八幡市を訪れてみることにした。

政治家・細野豪志というだけならば別に近江八幡市は特に重要な場所でもない。ところが今回、「野中との関係は同和絡みだから報じられない」という妙な噂話があったこともあり近江八幡市に向かったのだ。実は近江八幡市とは弊社創業の地といってもいいかもしれない。もともと示現舎とは部落解放同盟滋賀県連の名簿流出事件が原点である。市内にある支部の名簿も流出したこと、事情通、キーパーソンが多く在住していたこともあり随分、この地を訪れたものだ。

「不祥事を起こした解放同盟の役員Iが除名された後、元妻をニコイチ(改良住宅)に残して若い妻と新居に移った」今となっては懐かしい話ではあるが、近江八幡市では様々な話を聞いた。ただ細野とご実家のために結論からいっておくと「同和関連」はまるで見当違いで根も葉もない話ということは強調しておきたい。

細野は京都府綾部市梅迫が本籍だが、育ったのは近江八幡市だ。この地の名門・ヴォーリズ学園近江兄弟社幼稚園、小学校、中学校に通い県立彦根東高校から京大法学部に進んだ。バブル時代の頃、「三高」という言葉が流行った。高学歴、高身長、高収入の男性で結婚相手の理想としてもてはやされた。細野も間違いなく「三高」に属する男性だろう。絵に描いたエリートだ。

細野が中学まで学んだヴォーリズ学園。

それはともかく細野の政治信念、ルーツは一体どこにあるのか? それを探るべく滋賀県近江八幡市内のご両親のもとを訪ねることにした。小林よしのりのブログ「あのな、教えたろか。」の2013年8月20日のエントリー「細野豪志、辻元清美に会った理由」にはこうある。

「面白いことに細野氏の父親は、頭山満の信奉者で、書架に頭山の本がたくさん並んでいたという。細野豪志の中には国士の血が流れている」

こんな記述に興味を持ちお話をうかがってみようと思った。しかし正直、こんなインタビューを受けてもらえるのか不安だ。それに実家の所在地を探すといっても細野氏がSNS上に投稿した「朝鮮人街道は近江八幡の実家の前を通っていて、私はその道を通って小中に通っていました」という記述だけが手がかりだ。しかし意外なほど簡単に細野家は見つかった。

ご両親のご希望もあり名前は伏せる。こうした取材の場合、おおかた玄関先で断られるものだ。ところが意外なことにご母堂は「お寒いでしょう。お話でしたら中で」とご自 宅に引き入れてくださった。ご尊父は地元、IBMで勤務された後、現在はなんとバイオリン製作をなさっている。

「宣伝が下手でまだ広くは販売できていないんだけど」と苦笑いされていた。まるで軽 井沢の別荘地のようなお宅の中には立派な楽器工房がある。それ以上に驚いたのはご両親がとてもお上品であること。素敵な熟年夫婦といった雰囲気である。スマートなご子息と異なりむさ苦しいライターが突然、訪れたのに丁寧にお話をしてくださった。

一体、細野氏の政治の原点は何か? ご両親の目から見てどんな政治家に映るのか?  そんなことを聞いてみた。

「私は確かに頭山満の著書は読んだけど、信奉したとかそういうことはないですね。もちろん豪志もそうでしょう。昔から日本に影響を与えてきた思想家たちが好きでその中の一人ですよ。中国の儒教精神だとか、あるいは安岡正篤だとか分野にこだわらず見識がある人たちの本を読んだり、話は聞くようにしています。だから豪志にも政治以外での師を持てと言ってきました。実業家、音楽家でもボクサーでも何でもいいから他の分野で活躍する人から信念を見出してほしいということです」

今回は細野が自民党入りを希望するのは野中広務との交流が大きかったのではないかという話である。もしや野中を師と仰いだということは?

「豪志が野中先生の影響を受けた? 確かに震災がれきの処理をめぐり京都市が受け入れ表明をした時に野中先生にご協力を頂いたけども、政治の師だとかそういうことはないでしょう」

なるほど。野中との関係は見えてこない。それにしても温厚な語り口だが、信条をお話になるときの口調は毅然としている。細野氏は今年の正月も帰省されたというがほとんど政治の話はしないという。しかし今回の自民党二階派への入会については心配されているご様子も見えた。

「スマートフォンでニュースを見ていたら自民党の方が豪志にウロウロするな、という記事が出てたから厳しいこと言われるなあ、と思って読んでいましたけど」とご母堂は話す。

そしてご尊父はこんなエピソードを明かしてくれた。

「豪志が大学4年生の時に阪神淡路大震災があったんですが、すぐに神戸に行ってボランティア活動をしていました。あの子は体が大きいから目立ったのか分かりませんが、ボランティアの配置や仕事を指示する立場になりました。なんでもお役所や支援企業の方からは「あのボランティアは学生か?」と驚かれたそうですが。泥だらけのボランティア仲間をここに連れてきた時はビックリしましたけど。こんな経験もあって政治家を志すようになったんじゃないですかね。だけど大学時代、弁護士になりたいと言ったこともありました。だけど悪いことをした企業や犯罪者の弁護もすることがあるでしょ。だからそんなものはやめとけと言いました。だからといって政治家になるとは思いもよりませんでした」

阪神淡路大震災の支援活動で議員、市民運動に目覚めた人も少なくない。細野もまたその一人だったようだ。特に学生の立場ながらリーダーシップを取るあたりは天性の才能があったのだろう。大学卒業後は民間のシンクタンクに勤務後、2000年第42回衆院選総選挙、地盤も看板もない旧静岡7区から旧民主党候補で出馬し当選した。まだ28歳の若さで自民党の候補者を破ったわけだから当然、民主党のホープとして期待されたのは言うまでもない。

ご尊父はこう話を締めくくった。

「もちろん今、豪志がいろいろ批判されていることは承知していますよ。それに希望の党への参加をめぐって「三権の長を経験した方は(合流を)ご遠慮いただく」というのは親の目から見ても雑な言い方でしたね。ただ本当に真っすぐな子だし、政策実現に対しての意欲が強いんです。日本をよくしたいという信念から出た行動だと信じています。私は子供のころから楽な道と厳しい道があったら迷わず厳しい方を選べと言ってきました。だから私たちとしては見守るだけです。次の選挙でどういう審判が下るか、でしょうね」

素晴らしいご両親のもとしっかり教育を受けて育ったのは十分に伝わってきた。阪神淡路大震災のボランティアでも学生ながら指示を出せるポジションにいたリーダーシップというのは天性か、大臣になる政治家の片鱗かもしれない。私もこの当時、大学生だった。もしここでボランティアで参加し細野と遭遇していた場合、どうなったのだろう。心の中で「なんだあいつ」と思いつつも指示に従ったと容易に想像できた。
細野豪志という存在の原点に触れた思いだが、この地では彼が何を目指すのかも、そして野中との関係性も見えてこなかった。ならば次は京都である。野中との交流、関係については後編で述べていくとする。


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