部落差別解消推進・部落探訪(98)
滋賀県彦根市里根町

By 鳥取ループ

『滋賀の部落』には里根、彦根、長曽根を合わせて「三根」というと書かれている。彦根は言うまでもなく有名な城下町であるが、里根、長曽根という地名も彦根市内に残っている。

彦根城は江戸時代初期に井伊直勝によって建設されたのだが、長曽根村ではそれに伴う寺院の撤去や田畑の没収に憤慨して多くの住民が出て行ってしまったという。一方、里根村はもともと芹川沿いにあり、石田三成の配下で皮革製品を製造していたと推定され、彦根城築城時に現在の場所に移されたという。


ここはかつて東山会館という隣保館であったが、今は彦根市市民交流センターと名前を変え、隣保館としての業務は行っていない。事実上彦根市から同和地区としての扱いを廃止された形となっている。そのことについては、住民の意向もあったという。

部落の起源について、関ヶ原で敗北して斬首された石田三成の残党という言い伝えもあるが、信憑性は低いという。1872年の戸数は24、1931年の戸数は90、1996年には109と記録されている。同じ彦根市内の広野町ほど規模は大きくないものの、明治期に人口が急増していることから、地方都市労働型の部落の一種と言えるだろう。ただし、1931年の時点で生活程度は「中」であり、彦根駅から歩いていけるという点で、広野町よりも有利である。

部落には古い家と新しい家が入り混じっているが、あまり違和感は感じない。

このような古い家もある。実は筆者は10年ほど前にもこの地を訪れたことがあり、その際はこの写真のような家が非常に多く、「貧相な村」と評されていた。しかし、ここ最近自治会が美化活動に取り組み、見た目が大きく変わったという。筆者が探訪した日は奇しくも自治会による清掃活動が行われていた。

10年前は敷地に草が生い茂っている家が多かったが、最近になってコンクリートで固めたり、砂利を敷き詰めた家が多いことが見て取れる。

この公園も草が生い茂っていたのだが、草取りと植栽の手入れがされている。

ところで、『滋賀の部落』には、江戸時代中期に2軒の穢多が住んでいた「穢多谷」という場所があると記されている。そこは、セメント会社によって山肌を削られているということだ。

住民にセメント会社の土地があったのはどこかと聞いてみると、今はそこに「ヤマダ電機」があるという。

早速その場所に行ってみた。最近できたイオンモールがあり、確かにヤマダ電機がある。

イオンモールの近くには新興住宅地がある。ここは南半分が里根町で、北半分が古沢町だ。

周辺が崖になっていて、確かに山が削り取られた跡がある。ということは、ここが「穢多谷」で間違いないだろう。

2015年の広島土砂災害で、災害にあった地域の古い地名が「蛇落地悪谷じゃらくあしだに」であり、地名が昔の人が遺した教訓を含んでいると話題になった。新興住宅地の住民が彦根市役所を訪れて「昔の人が遺した教訓を知りたいので、住んでいる場所の昔の地名を教えて欲しい」と聞いたら、どう答えるのだろうか。

再び古くからの住宅地に戻って探訪していると…

公園とレトロな団地を見つけた。

ここは解放されつつある部落と言える。彦根市の3部落を探訪したが、同じ市内であっても三者三様である。

部落差別解消推進・部落探訪(98)
滋賀県彦根市里根町
」への14件のフィードバック

  1. 中世史愛好家

    島佐姓、嶋佐姓が多いそうですが、ひょっとして近くの佐和山城を居城とした石田三成の
    家臣である有名な「嶋(島)左近」絡みの姓かもしれませんね。末裔を称しているとか。

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    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      清掃活動の参加者名簿をちらっと見たのですが、確かに嶋佐が何件かありました。
      島左近との関係は確かに気になりますね。聞けばよかったと後悔してます。

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  2. とある隣保館職員

    お疲れ様です。
    現役バリバリの広野町と地区返上をした里根町。同じ彦根市でも違いがあるのですから、全国の地区をひとまとめにして考えることが間違っていることの証明になると考えます。

    解放された地域の事例を集めていって、契機や過程、方法論を明らかにして他の地域へ波及させていければ、この部落探訪の存在意義も出てくるのではないでしょうか。

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    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      ありがとうございます。本当は異常で異様な地域を求めて探訪したいのですが、地味な未指定地区を特定することも楽しみがあります。
      少なくとも全ての部落が差別されているわけではないし、様々な通説が間違いであることが分かります。

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  3. サブカルハト野郎

    今回探訪されたかは存じませんが、地区の高台に五百羅漢像が居並ぶ天寧寺という曹洞宗の寺があります。
    ここは彦根藩主だった井伊直中が城下から移転させ、後に羅漢堂を建てています。一説に懐妊した腰元を手討ちにしたところ、後に自身の息子が腹の子の父親だったと解り、追善供養に羅漢堂を建てたと聞きます。
    当時の穢多村に藩主の肝煎りで堂宇が建った事、寺が曹洞宗だった事や境内から彦根城を見下ろせる立地である等、単なる穢多村とは思えない扱いと素人目には思えます。

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    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      部落とは直接関係なかったので記事には書きませんでしたが、五百羅漢も見てきました。
      五百羅漢
      中はこんな感じです。

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        1. 鳥取ループ 投稿作成者

          願通寺
          こんな掲示物があったので、浄土真宗大谷派の願通寺だと思います。

          返信
          1. .

            真宗大谷派の願通寺は彦根城下の本町にあり、一般寺院ですね。
            部落寺院の門徒ではないということはやはり特別な由来のある部落なのだろうか。

          2. 鳥取ループ 投稿作成者

            部落外にあるから部落寺院ではないとは限りませんが、願通寺は「大谷派地方関係寺院及檀徒に関する調査」に掲載されていないので、一般寺院の可能性が高いですね。

          3. .

            真宗大谷派願通寺は犬上郡堀村の明徳寺(現・妙徳寺)の通寺が昇格したものと書かれていますね。彦根城下の寺町にあることからも穢多寺である可能性は極めて低いと思われます。
            https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/11/2/11_2_588/_article/-char/ja/

            同様の事例を挙げれば、大逆事件で獄死した高木顕明が住職を務めた新宮の真宗大谷派浄泉寺も新宮市内の部落の檀家寺であり、三重県の一部の部落も檀家に抱えていましたが、浄泉寺は新宮藩主水野家ゆかりの寺として知られ、穢多寺として扱われてはおりません。
            http://id.nii.ac.jp/1374/00001174/

            >浄泉寺は新宮藩主水野家の菩提寺的な寺であり、初代藩主水野重仲の命により浜松善照寺から分院したといわれている大谷派寺院である。

            >ところで、この浄泉寺は、被差別部落を門徒としてかかえる寺である。後に顯明自身は「浄泉寺ノ門徒百八十名ノ内百二十名」が被差別部落の門徒であるといっているが、顯明逮捕後に大谷派本山の行った顯明に関する調査の「復命書」では、新宮町内の被差別部落約六〇戸、他の新宮町内門徒約三〇戸、三重県に約二〇戸であるとしている。この三重県下の門徒も被差別部落であり、計約一一〇戸の門徒のうち被差別部落の門徒は八〇戸で七割強を占めていることになる。この二つの資料は数としては食い違うが、当時の浄泉寺は被差別部落門徒が圧倒的に多い寺であったことでは一致している。

            >新宮の被差別部落の人々は、ここでもほとんど真宗門徒であり、その中でも浄泉寺門徒が多かった。それゆえ浄泉寺は、近世大谷派で言われる「穢多寺」ではなかったにもかかわらず、その名で蔑まれることがあったという。

            浄泉寺沿革
            http://noriyuki8.wixsite.com/jyousenzi/about4

            >元和五年従五位水野出雲守源重仲公(徳川家康公の生母伝通院の弟藤次郎仲分公三男)遠州浜松城より新宮城へお国替に当たり浜松普法山善照寺別院住職小幡玄祐大僧正(僧名尊海上人)を同伴せられ当寺を建立し遠州浜松の地名をとり遠松山浄泉寺と名づけられ城主水野家よりは、代々菩提寺同等の待遇が与えられていた。今も水野出雲守源重仲公、及び 淡州大守源良達公等の位牌が祠られている。本堂屋根の正面に城主水野家の家紋がつけられているのもその為である。

  4. 滋賀県民

    ここへ行ったことがありますが
    最後の写真の家は、
    くっついていたのですが
    これもニコイチなのでしょうか?

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    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      確かに、住宅の形式としてはニコイチです。一般の市営住宅となっています。

      返信

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