鳥取ループ(取材・文)
「殺されるかと思った、ここは天国や」と語るのは、井上麻里子(仮名)さん。彼は体じゅうが生傷だらけ、さらに約600万円の借金を抱えて自己破産の準備をしているところだ。なぜこんなことになってしまったのか。
「彼」と書いたのは、井上さんは実は性同一性障害(GID)である。特に女性のGIDのことを Female to male 略してFTMという。性転換こそしていないものの、見た目は男である。悪夢の発端は、一昨年FTMBOYRANKという、FTMが出会いを求める掲示板サイトで、伊崎茜という女性と知り合ったことだ。
2011年2月、彼は生まれて初めて自分がGIDであることを手紙で両親に告げた。しかし、両親は認知症の祖母への気遣いで手一杯の状況で、手紙の内容をしっかりと理解していなかった。また、本人から直接話をされていないため、大切な手紙は忘れられていた。
その年の6月、祖母の体調が落ち着くと同時に、彼は両親のもとを離れて、大阪府茨木市内のアパートで一人暮らしを始めた。
12月末、彼は両親にメールで「彼女」がいることを告げた。当然、両親は動揺し、父親は口にはしないが憔悴しきっており、それがもとで顔面麻痺で入院。一方、姉妹や周囲は「好きにさせれば」という立場。もっとも、彼は自分で服を選べるようになってからずっと短髪で男物の服といういでたちだったので、今さらGIDと判明したからと言って何かが大きく変わるというわけでもない。しかし、母親は彼に対して「相手の両親に正直に伝えなさい」と話をしたが、一方で「あんたは男っぽいけど女」と言われた彼は、理解してくれないと電話口で怒鳴り、母親も感情的になり言い返すなど、両親との仲は険悪になった。もっとも後で分かったことだが、彼が実家と電話する時は彼女が常にそばにいて何を話すかを指示されており、家族と対立するように仕向けられていたとも言える。
同じ頃、彼は彼女とアパートで同棲を始めていた。同居のきっかけは、彼女が福岡県北九州市の実家で家族と喧嘩をして、家出するような形で、犬2匹を連れて本来はペット禁止・同棲禁止の彼のアパートに転がり込んだという。その頃から様子がおかしくなり始め、介護の仕事を度々無断欠勤するようになった。翌年の元旦、彼は実家にも顔を見せなかった。
実はその頃から、彼女が彼のカードで買物をさせたり、まともな食事をさせず、眠らせない、といった異常な生活が始まっていた。彼女が彼に対して暴力をふるい、携帯電話で殴って病院で2針縫う怪我をさせたこともがあった。また、彼は連日夜中までレンタカーを運転し遠出させられて、その結果事故を起こしてしまった。彼女は事故の後で「後遺症で痛い」「お前のせいだ」と彼を責め立てた。
引越しの予兆があったため両親が2人の同居するアパートに何度か訪れていた。アパートには彼女が実家から衣類などを送った小包があり、そこに書かれていた彼女の実家の住所を両親が書き留めた。
そして、3月18日に両親がアパートに訪れた時はまさに引越しの最中だった。それもその場を取り仕切っているのは彼女で、何を聞いても彼は黙りだった。母親は「引っ越したら、今生の別れになるよ」と言うと彼は涙を浮かべた。また、「本物の男には負けるのよ」と目を覚まさせようと思って言った。この時から母親は、彼が彼女にマインドコントロールされているのではないかと感じるようになったという。
両親は引っ越す彼を車で追いかけたが、信号に阻まれて見失ってしまった。
どこに行くのか確認するために、引越しの荷物を運んでいた佐川急便のドライバーに聞いても、本人の希望で行き先は言えないというばかり。父親が「自分は父親でアパートの保証人やぞ」と凄んでも、答えられないの一点張りだった。
筆者が佐川急便の担当者に聞いてみると、個人情報保護の絡みで、最近はどこの引越し業者も親族であれ個人に関する事は言えないことになっている。言えるとすれば、警察や裁判所からの照会があった時くらいですかね、と語る。ここがポイントで、例えば「債権者」であれば裁判所を通して情報の開示を求めることは可能だ。だから、普通の引越し業者を「夜逃げ屋」として使えるわけではない。しかし、血の繋がりより金の繋がりの方が強いとは、世知辛い世の中だ。
その後、彼は職場にも出勤しなくなり、携帯電話でも連絡が取れなくなったことから両親は茨木署に捜索届けを提出。しかし、ほどなくして彼から警察に対して両親に居所を教えるなという申し出があり、警察も本人の希望があるから教えられないという態度になってしまったという。
しばらくして、ようやく本人から父親に電話がかかってきたが「沖縄にいる」「人工授精で子供ができた」「お金を送ってほしい」という内容で、どうも様子がおかしい。
ここから、父親による探偵顔負けの捜索が始まった。父親が茨木市の住所に郵便物を出し、ネットで見られる荷物の追跡サービスを利用したところ、引越し先の住所と思われる郵便局に転送されて、そこで荷物が留まった状態になった。そこで、GPS機能のついた携帯電話を小包で送って場所を突き止めるというアイデアも出たが、とりあえずは父親は郵便局に電話した。
郵便局に転送先を尋ねるも、当然教えてもらえなかった。しかし、詳しくは明かせないが特殊な交渉術を用いることにより配送先の郵便番号だけを聞き出すことに成功した。
その郵便番号に該当する大阪市中央区内の場所に直接出向き、現地を歩きまわって手がかりを探したところ、彼が昔から乗っており父親が何度も修理したことのある自転車を発見、ようやく居所を突き止めることができた。
しかし、無理に連れ戻そうとしたところで、また別の場所に引っ越されてしまうか、あるいは連れ戻しに成功したところで、家族との仲がこじれている状態では解決しないと思われた。そこで父親は、この時点ではとりあえず居所を突き止めたことは黙っておいて、何かあれば駆けつけるつもりだったという。
そうこうしているうちに、再び変化があった。父親が茨木市役所に出向いて、これまでの経緯を話して住民票が移されていないか聞いてみたところ、同情した担当者はすんなりと転居先を教えてくれた。しかし、本来であればこれは当然のことで、住民票は原則として公開であり、特にDV・ストーカー行為の被害者として閲覧の制限を申請しておかない限りは、家族の閲覧請求が拒まれることはない。
しかし、驚くべきことはその転居先が、以前アパートにあった小包に書かれていた福岡県北九州市にある彼女の実家になっていたことだ。大阪市からさらに引っ越していたのである。
それにしても、なぜわざわざ転居届が出されていたのか。これはある意味真面目なところがある彼が、仕事をするためには住民票が必要だということで、転居届を出していたのである。しかし、働こうとする彼に対し、彼女は就職が決まった矢先の相手の会社に勝手に断りの電話を入れるなどしてなぜか妨害した。彼の所持金はいつも0円だった。しかし、いざという時に公衆電話で助けを求められるように、お守りの中に買い物の時などのお釣りを貯めて隠し持っていた。
2012年7月7日の朝6時ごろ、彼の方から父親に電話で「助けてくれ」と救援要請があった。彼女はいつも夜更かしして午前4時頃に寝るので、彼女が寝ているすきを見て電話したのだ。
救援要請はとにかく慌ただしいものだった。彼が言うにはとにかく迎えに来て欲しいという。すぐに準備をした父親は新幹線で新大阪から小倉まで行き、さらに彼女の実家の近くまで電車を乗り継いだ。同時期に母親が地元の警察に連絡をしていたため、父親が現地につくと周辺にパトカーが停まって見張っている状態だった。
彼が父親に連絡したことを知った彼女は怒ってかなりの暴力を振るったが、その一方でこの機に父親から金を無心しようと考えたのか、実家の近くのマクドナルドを待ち合わせ場所に指定した。3人はマクドナルドで落ちあい、話し合いをしたが、彼女は彼を帰すことに同意せず、父親がトイレに行くために席を立っているすきに彼を連れてタクシーで逃げてしまった。
ここで彼女は自分の実家が父親に知られていることを知らずに、2人で実家である市営住宅に戻った。しかし、しばらくして父親はそこに押しかけた。
彼女が彼にしがみついて泣いて引き止めるなどそこでも一悶着あったが、彼が帰るという意思を示したため、父親と共に大阪へと戻った。
そして、彼の口から今までの経緯が明らかにされた。彼によればずっと彼女に脅され、暴行されていたという。彼は後で大阪地裁に保護命令申立書を提出しており、そこには医師の診断書と共に脅迫と暴行の内容が生々しく書かれている。例えば「携帯の角で頭や首筋を10発程殴打された」「殺してやる、お前の家族も全員殺してやる、と言われ続けていました」「自分の兄はヤクザだ」といった内容である。一方、彼女もそれに対して反論する書面を提出しており、こちらは逆に「自分が暴行された」「ペニスバンドで責められた」といったものだ。
また、冒頭で述べた約600万円の借金は、彼女に脅されてカードなどで借りさせられたものだ。一時期沖縄にいたのは本当で、彼の個人年金を解約して得た約110万円がホテル代等の旅行費用にあてられた。
父親は、彼女のことだけでなく、警察に対しても憤る。
「麻里子が戻ってきた後で警察に行ったら、やっぱり自分らのせいでこんなことになったという負い目があるのか、すぐに北九州の警察にも連絡してくれましたよ。地元の警察からは札付きの人物として知られているみたいですね。警察はどうして居所が分かったのか不思議がっていましたが、どうやって調べたのかは教えてやりませんでした」
その後、彼女は暴行の疑いで警察に逮捕され、大阪簡裁に略式起訴、30万円の罰金の判決が確定して、現在は釈放されている。
なお、彼女の被害者は他にもおり、「FTMを理解している、そのような友人もいる」と言って信頼させてFTMに近づき、食い物にすることを繰り返してきたという。
ちなみに、彼女の実家の場所は北九州市小倉南区長行東、小字では彼女の苗字そのまんまの「伊崎」と呼ばれる地域だ。彼女の実家はそこにある市営住宅の一室だ。筆者はそのことに何か感じるものがあったので、特に北九州市の部落事情に詳しいという同和マニアに聞いてみた。
「この地区の部落姓は、伊崎と考えられます。昭和51年の住宅地図によれば同和対策の集会所があります。その隣に伊崎さんがいます。しかも、この地区にダントツ多い姓です。他にもこの地域には、北九州に多い部落姓が共存しています。これは被差別部落固有の現象であり単なる偶然とは考えにくいです」
ただし、現地に行ってみると、ごくありふれた住宅地という感じであり、同和地区という雰囲気はない。
GIDというのは同和とともに人権に関する課題として語られることが多い。本人の主張は大々的に取り上げられるが、家族の苦悩や、ましてや今回のようなどうしようもない話は、まずメディアに取り上げられることはない。また、個人情報保護はDV・ストーカーからの保護とからめて語られることがあるが、本人が脅されて誘拐されてしまった場合は、捜索を難しくするということは盲点ではないだろうか。
そして、何より興味深いのは、今回の事件の舞台である北九州市小倉南区に程近い北九州市小倉北区で、2002年に北九州監禁殺人事件があったことだ。家族を対立させ、破滅に追い込もうとする点で今回の事件と北九州監禁殺人事件は共通点がある。奇しくも2011年に発覚した尼崎事件も同様の構図があったことから、再び北九州監禁殺人事件は注目されている。
今回の「伊崎事件」も、一歩間違えば北九州監禁殺人事件あるいは尼崎事件の再来となっていたのかも知れない。
その後、井上さんは自己破産が認められ、介護の仕事に戻っている。母親は実のところ熱心な仏教者であり「麻里子が五体満足で帰ってきたのは信心のおかげ」と感謝している。(鳥)