1921年に茨城県内務部社会課がまとめた『地方改善ニ關スル調査』には、北相馬郡守谷町大字守谷の字清水が載っていて、戸数は本籍9戸・現住13戸、現住の人口は61人と記録されている。字清水は今の守谷市百合ケ丘にあたり、町丁・字の区分や町内会の名に「清水」が残っている。


まず目に付くのが清水コミュニティセンターである。同和施設ではない。
2022年6月の守谷市議会の委員会で、市の担当課長は平成7年(1995年)に建てたものだと答えており、このときは床の張り替えに、市が自治公民館建設補助として222万7,000円を出している。

その隣にあるのが白山神社で、祭神は菊理媛命である。裏手は公園になっていて、境内には稲荷神社もあり、古村の神社としては比較的立派なものだ。ただ気になるのは、鳥居や灯籠に「田中」の名があることで、昭和58年に建てた灯籠には「奉納者 田中」と刻まれている。「氏子中」とだけあって、名前の入っていないものもある。

前評判では、ここの古村は背黒(せぐろ)という名字だと聞いていた。茨城県内のほかの古村でも見かけた名字なので、何かしら関わりがあるのではないかと思っていたのだが、神社に書かれているのは田中である。

神社のまわりの古い道を歩いてみると、宅地が混じってはいるが、田中という名字の家がある。昔からの家と見えるところも、住んでいた人はもう出ていってしまったようである。
昔の地図と照らし合わせると、古村の場所はこの辺りと一致する。13戸ほどの村だったのだから、村の墓地の墓石を数えれば見当がつくはずである。

その墓地の墓石は、中田と田中ばかりだった。数えてみると、だいたい戸数とも合う。「清水町内会」と書いてあるので、ここが清水の墓地なのだろう。

近くにもう一つ墓地があるので行ってみると、こちらは飯塚家の墓が多く、背黒家の墓も確かにある。戸数からすると、こちらが古村の墓地だとしてもおかしくはない。

一方で、清水の辺りには田中という家が十何軒もあり、それも新しい家ではなく古くからの家なので、田中説が正しいのではないかと思った。昔はこの辺りも農村で、ぽつんぽつんと家があったのだろう。話を聞こうと何軒か訪ねてみたが、平日の昼間とあって、昔からの家はみな留守だった。

あきらめて次へ向かう前に、もう一度白山神社に戻ったところで、最後の最後に話を聞くことができた。周辺の中田家はこの神社の氏子だという。そうであれば、清水の古村は田中・中田家を中心とした村で、飯塚・背黒の家は別と見るのが正しいのではないか。



