菊池山哉は次のとおり記している。
○栗原筋、日川の河原に点在し、農家である。九戸許り。
○鎭守は無い。
○明治四十三年の日川の大洪水に全村流れて仕舞ったと云。昔は助左衛門、兵太郎の二人の長吏が居ったが、その為古記録はないと。東山梨郡も、此処一ケ所である。
そして、さらに詳細な資料は国会図書館で見られる『未解放部落』である。「等々力一部」として記述がある。
「ぶどう畑中に孤立している小ムラ」とあるが、今もまさに記述の通り、一面のぶどう畑がある。そこに古村へと続く道がある。
1965年の記録でも戸数は8。少ない戸数のわりには広い土地を持っていて、ぶどう栽培により経済的に安定しているという。地名は箕輪。8戸のうち6戸がぶどう栽培をしていたという。
「南無日蓮大菩薩」「南無妙法蓮華経」とある。やはり日蓮宗と縁があるのだろう。
『未解放部落史の研究』によれば、元寇の捕虜が祖先との伝承があるという。
地図や地形図でも分かりにくいが、現地に行くと少しだけ周囲よりも小高くなっているように感じる。菊池山哉の記述通りなら、洪水の後に、比較的安全なここに移転したのだろうか。
南無日蓮大菩薩の他にも、観音や道祖神などが見える。かつては村のあちこちにあったものが、ここに集められたのだろう。
この石もかなり古いもので、風化が激しくて文字がよく読めない。鉄分が多くて、錆の色をしている珍しい石だ。
山名伸作の探訪記にも勝沼町のM地区として書かれている。その記述でもやはりぶどうの産地である。
そしてこんな記述がある「ブドー組合長の息子さんは差別を受けて自殺し、娘さんはそのことで東京の方へ家出してしまい、組合長もクリスチャンになられたという」。
『未解放部落』にも「勝沼町等々力のムラの娘は、奉公中、塩山市の職人である青年と結婚約束をしたが、青年の周囲の圧力に依って結婚できないとわかると、共に服毒をして永遠のちぎりを結んだ」と書かれている。
見た目は周囲と変わらず、むしろ大きな家が多い。昔は茅葺きだったと思われる家がいくつかあるが、今も住宅として使われているものもあれば、物置になっているものもあるという。
念のために住民に聞いてみると、ここが箕輪で間違いないそうだ。ただ、もう昔を知るような人は生きていないと言われてしまった。
『未解放部落』によれば1973年の時点では8戸中7戸までがぶどう農家。しかも会社員の1戸は建物だけで他出していると書かれている。「生計も豊かで、子女は多く外部人と結ばれ」とあり、当時の時点で周囲と変わらなくなってきていたようである。
貴殿のマッポンで確認させてもらったが、
一宮町田中の近津姓が1軒居られるようですね
以下のサイトで「万福寺の近く。山梨でも古い曲輪の一つ」と紹介されているのが、ここの様ですね。
曰く、文禄年間で家数5軒、今は過疎化により廃屋が目立つ、と。
https://www.kansai-u.ac.jp/hrs/publication/newsletter_backnumber/32/news_32j.html
長野県 野沢温泉村
横落 地区
旧名 墓原(はから)
兵庫県 姫路市 花田町 高木地区
皮革のムラ
対馬 厳原市 下原
日掛(ひかげ)地区
処刑場→ダム
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