『滋賀の部落 第1巻部落巡礼』に掲載された明治21年の滋賀県による調査書によれば、戸数は21、人口は105あったという。もとは上野村字恋ノ本西南屋敷にあったが、文化年間に黒坊という地名の現在地に移ってきたという。古村の呼称については「須山」とも呼ばれ、現在では西垣外という小字がある。
『同和対策地域総合センター要覧』によれば、平成初期の世帯数は14、人口は50。他の古村の人口は増えることが多い中、ここはほぼ半減したことが分かる。

最寄り駅はJR草津線の油日駅。ここは1955年まで油日村だった。


大きな駅ではないが、2002年に建てられた、比較的新しくて立派な駅舎である。


駅の近くに公園があり、その隣に上野教育集会所があった。解体されたのはごく最近で2020年のことだ。

『同和対策地域総合センター要覧』によれば13戸が持ち家で、1戸だけ公営住宅だという。しかし、現地にある公営住宅は明らかに戸数が多い。これは1978年に作られた市営上野団地で、10戸ある。改良住宅ではないことから、一般の公営住宅として建てられ、古村の住人が1戸入居していたという意味だろう。

田舎であるが、立地は悪くない。駅があるし『同和対策地域総合センター要覧』には幼稚園、小学校が隣接し、商店街も近いとされる。

確かに幼稚園がある。隣には市立油日小学校があり、記録にあるとおりだ。

田舎で家族でのんびり暮らすにはよい立地ではないか。

特に地場産業はなく、建築、レストランの個人事業主があった他は、サラリーマン家庭であり、一般地域と違いはなかったという。教育集会所以外に目立った施設もない。ただ、地区内はよく整備されている。

もともと戸数が少なかった上、駅が近いこともあり混住が進んでいる。
『水平運動史の研究 5巻』によれば、ここでも改姓運動があったという。須山では全員が皮田に由来する川田を名乗らされていた。しかし旧水口町での差別事件をきっかけに水平社が当局に改姓を申し入れたことを機に、ここでも全員が改姓することになったという。そのため、名字では分からなくなっている。

これは浄土真宗本願寺派浄専寺で古村の寺である。『滋賀の部落』によれば、屋根裏の板に記された記録から、元文年間と天保年間に火事があったことが分かった。特に天保の火事では古村の23軒が消失したという。そして、古老から次の言い伝えを聞いたという。
天保の火事のときは二戸だけ残ったのです。その火事のとき近在の村々から火消しにかけつけて来ましたが、すぐそばまで来て、何だエタの火事かといって誰一人として、火消しに協力してくれる者はなく、みんなそこらあたりで高見の見物をしとったといいます。部落の者は家が丸焼になるというので、みんな必死でしたのに一般の者は、何一つ手を貸すことはしてくれなかったということです。こんな口惜い差別をうけたことを忘れてしまっては、先祖さまに申し訳けがないぞと、わしは父親に教えられました。
1970年頃のことなので、古老の祖父母が天保頃の世代でも不思議ではない。この火事をきっかけに、家を密集して建てなくなったという。古村の中心である教育集会所跡地の周辺が、比較的広々としているのは、そのような理由からだ。



なお、浄専寺から少し南側の小字が「恋ノ本」であり、すぐ近くから移ってきたということになる。浄専寺は黒坊と恋ノ本の境界辺りにあるので、浄専寺がずっと旦那寺だったのだろう。