旧甲賀町には4つの古い村が存在し、『滋賀の部落 第1巻 部落巡礼』には甲賀町四ヶ部落として紹介されている。その中でも、2つは今回紹介する大久保を起源としている。
明治21年の記録では戸数18。甲賀郡神村字横尾から移住したとされ、小作人の村であったという。他の名称は「上川原」あるいは「前垣外」。昭和の半ばには8戸に減っていたという。


大久保という地名から、窪地であることは想像できた。確かに、この辺りの土地は周囲よりも一段低くなっている。写真の左側が大久保で、斜面になっているのが分かるだろう。


明治の記録にある移住元は現在の甲賀市甲賀町神だが、「横尾」の場所は分からない。『滋賀の部落』によれば、そこには「エタ屋敷」と呼ばれる土地があるという。移住の時期は不明だが、同書は天保年間よりもかなり前だろうと推定している。

かつては全世帯が前川を名乗っていたが、水平社運動の時代に改姓をした世帯もあるという。このことから分析すると、古村は改良住宅が立ち並ぶごく小さな一角であることが分かる。

近くにあるこの寺は林照寺だが、浄土宗の寺であり、古村の寺ではない。

『滋賀の部落』によれば栗東市にある長久寺の檀徒であり、真宗大谷派である。さらに昔は京都今出川の円光寺の檀徒であったという。

『滋賀の部落』には昭和の半ばくらいの写真が掲載されているが、この場所は跡形もないであろう。過去の航空写真を見ると、1970年代くらいまで家があった場所は現在は田んぼになり、同和事業で集落はやや東に移されている。

『同和対策地域総合センター要覧』によれば、旧甲賀町の4つの古村は「甲賀町地域総合センター」の管轄である。総合センター本体はここから離れた「相模」にあるが、ここには「大久保教育集会所」があった。



教育集会所は今もあるのだろうか?この大久保営農センターと大久保公民館がそうなのかと最初は思ったのだが…


実は最近になって取り壊され、遊園地・墓地の前にあるこの広い更地が教育集会所の跡地であることが分かった。

『滋賀の部落』によれば、地元で「長久寺」と呼ばれたお堂があったのだが、それも同時期に跡形もなくなっている。Googleストリートビューでは2023年5月には存在が確認できるので、本当に最近のことだ。

なお、『同和対策地域総合センター要覧』によれば、平成初期の戸数は13戸。そのうち改良住宅は9戸ある。建設業と農業の兼業が多く、特に地場産業はなくて、生活実態は他と変わりないとある。


しかし改良住宅は10戸ある気がする。そもそもニコイチなので偶数になるのではないのか?

山側にはグラウンドらしき場所もある。

これは、平成6年に保育園の子供が製作したものだそうだ。