今回訪れたのは、歌川広重の浮世絵でも名高い、東海道の宿場、由比である。東海道と言えば宿場が注目されがちであるが、穢多村も重要な役割を果たしていた。名高い宿場があれば、それに関連した穢多もいたということだ。
由比宿には東町という部落があり、昭和初期の時点で7戸あったことが記録されている。また、菊池山哉は5, 6軒と記録している。
菊池山哉の『長吏と特殊部落』によれば、次のとおりだ。
○由比の名義は鎌倉郡と多摩郡とにある。前者は海辺で後者は山間である。この曲輪は由比の町の東端にある。川を隔て て山の手にある。鎮守と墓地は更に山の上にある。往古の東海道は鎮守の下を通って居ったと伝えて居る。今は五、六 軒であるが、昔は栄えたものらしい。
○鎮守は稲荷神、社殿は立派なものである。傍らに室町頃の五輪塔が二基並むで居る。三基を二基に寄せたらしい。土人 は山の神だと称して、祖先の墳墓とは伝へない。
この曲輪の大屋、縫右衛門方には、左の様な文書が保存されて居る。今は由比の大屋から、蒲原の大屋へ婿入された。 山下氏の所蔵である。
乍恐以書付奉申上候御事 一、御朱印 三通 一、御黒印 二通
右者先祖 革作孫太良 御用革ヲ差上申候 為御褒美ト 居屋舗共二被下置候、此儀廿六年以前元文元年辰六月吉 日書物御尋之俵 駿府町御奉行嶋角右衛門様エ差上候得者 御写シ被遊 地方エ御尋被遊可被下候 以上
宝暦十一年巳五月
駿州庵原郡由比宿 縫右衛門
寺社御奉行 御役所様
乍恐別紙ニテ奉願上御事
一、此度此召上為遊候ニ付 小村之家々迷惑ニ奉存候 此儀者 先祖孫太良古来ヨリ百姓ヲ仕来リ 只今迄モ仕作候 得者 御年貢ハ不及申上ニ御伝馬諸役相勤申候
殊ニ只今者農業之最中に御座候得共 仰重く奉存罷上り申候 前書之通り御座候へバ 委細之義者 御当所御上様 迄 御上り被遊候 為仰依之 具ニ申上不及候 先年革御上納之儀ハ 川東之革ヲ為集シテ自身二御上納仕候得者 古来ヨリ頭ト申ハ無御座候 地方支配ニテ相立申候二依テ前々之通リニ無差置被下候ハハ難有仕合ニ奉存候 以上
宝暦十一年巳五月 由比宿 縫右衛門言葉に難解の点もあるが、農地を召上げやうとしたときの陳情書であらう。駿州には、甲州と同じく、支配頭が無い様 に見へたが、此文書によって、古来から地方地方の支配で、一国一州の長吏頭の居なかった事が窺はれる。注意すべき 点である。信州とは少しく事情を異にする。
本堂之大鴻之柱一ヶ所 為塗朱漆之事
可致馳走之由望候
遺者也
拾月一六日 当番衆
逢衛門
一、ち児の舞の具足の御用として 牛の皮二 枚此者に被仰付候間 其内に有之候おいては 御馳走迄 御遣至ある べく候 謹言
八月廿七日
駿豆 諸旦方 御中
身延 当番衆
此ぬいへもん 中衛の御檀那にて候 共地逗留の内 其方のたんな同前に まなり(?)等相調 其外懇切の人由 候 為其一筆進上候 □□
二月五日 林珖房
由井之寺へ 当番
巳日以上は身延関係のものであるが,最後のものは日遠上人よりの伝言と伝説されて居り、でなくとも、身延で中々の檀那 であり、引いて曲輪が相当豪富であった事も、推想するに難くない。
先今川殿御代より朝比奈又太良代いたって持来屋敷共に、壱貫文給無相違出置候申付候細工□□□□□□口上候
□巳 遠山昌顕(?)(花押)
四月四日 孫太郎
印定
右おきつ米料知行之由□□□□口時座之分他不渡宗心村より可請取
同年貢に納致し外
世中□□かいなみに百姓と相談而可所望状如件
□口卯月十二日 由比村皮作
官波作孫太郎
石井江被仰候 是迄通狐(?)三熊さる皮六枚ふす口皮三枚 調儀被仰付候
たい物式弐貫七百文毎年正月夕 石井前請取 六月を切而相調 石井可渡候 皮無御座候付而ハ(欠?)一応前事旨
被仰出候 如状件
辰 幸田与三
五月十四日 奉
坂本革作 孫太郎
為御扶持奥津之内
御新川方参貫文之所 波皮作被下置候、其方以別前相当之地可被引渡之旨 被仰川看也 仍如件
九月晦日 穂坂織戸佐
蘆澤伊賀ノ守殿 奉之今川義元の桶狹の戦死は永禄三年であり、永禄十一年戊辰に武田信玄は今川氏を滅して仕舞った。此等の文書は永禄末 年から天正初年、武田氏の残して置いたものであらう
ここは文字通り観光地で、訪れた日は日曜日なので観光客で賑わっていた。これは由比本陣跡地で、今は静岡市東海道広重美術館になっている。
美術館の隣には東海道由比宿交流館があり、由比宿のジオラマがある。
ジオラマを見ると、東側の宿入口のさらに東に8戸の家がある。観光案内所で聞くと、「東町」という名前は知らないが、この場所も一応は宿の中で「松原」と言うそうだ。文字通り、松並木があったが、今ではその場所は街になっていて松は残っていない。
革作の村だったのかどうか聞くと、「知らない」ということだった。ジオラマでは東の8軒も宿のような佇まいになっているが、史実とは違うのではないか? 何かが隠されているように感じた。
ともかく「松原」へと向かった。
既に宿場としての役割は終えているが、観光客向けの店や案内板がある。
旧街道に沿って東に進むと、道が曲がっている箇所がある。
これは桝型跡。桝型というのは、攻撃してきた敵が一度足を止めるように、道が曲げられた場所のことである。ここがジオラマにあった東の入口である。
その先にまた、緩やかに道が曲がった箇所がある。
この一里塚跡から東が「松原」である。
この辺りだろうということは、おおよそ分かっていた。
本行寺の寄進者名簿によれば、横田、小林、山本、久保田という名字がある。
その分布を検証すると確かにこの辺りだ。
詳しそうな人に出くわしたので、聞いてみると確かにかつて差別された村があったという。しかし、現在は1つの自治会にまとまってはおらず、意図してなのか一戸単位で別々の自治会に分けられたのだという。融和を進めるためだろうか。
現在の「松原」はよそから移り住んできた人の家が多くなっている。もとは砂地で、開発する際に大きな松の木が掘り出されたという。
かつて、革作の家は壁を黒く塗る習慣があって、現在も家を建て替えた際に暗めの色を選択する傾向があるという話も。
菊池山哉が記した稲荷社はこのドラッグストアの裏手にあるという。自治会は別だが、稲荷社の氏子は本行寺の寄進者と同じ名字である。しかし、高齢化や移住により神社を維持できなくなり、最近の数年は周囲の家も加わって維持していた。
稲荷社への入口は非常に分かりにくいが、何とかアプローチすることが出来た。
しかし、みかん畑に囲まれた神社は、壊されていた。
在りし日の様子は、こちらのページで見ることが出来る。
先述のとおり、そもそも維持が難しくなっていた。その上、崩れかかった石段で怪我をする人が出たということがあって、閉鎖を決めたのだという。「岡崎の稲荷神社に返した」ということだ。
この稲荷神社は1806年の『東海道分間延絵図』にも描かれている。当時は白山神社もあるが、位置関係からすると稲荷神社はそのままの場所にあったのであろう。
寂しいことだが、仕方がない。
菊池山哉の記述には、原典も含め以下の誤植がある。
×(前略)蒲原の大屋へ婿入された。山下氏の所蔵である。
〇(前略)蒲原の大屋へ婿入された、山下氏の所蔵である。
つまり、山下姓はあくまで蒲原(新田)の大屋。
当地(由比町)については、
『由比町の歴史 上巻(1972)由比編』の通読をお勧めしたい。
https://dl.ndl.go.jp/pid/9536696/1/173
一般問屋の縫右衛門と、”かわや”の縫右衛門(大屋)がいた事や、
壇那寺が旧北田村妙栄寺(日蓮宗・清水区由比北田109)である事が判る。
又、西久保村、藤枝宿南町、坂本村との通婚関係や、
(市内に分散したという)富士宮市大宮町の”姓”も、
終章「戸籍人別帳(明治十二年七月一日調査)」に記載がある。
現在はネット上で読む事が出来るが、
数年前、現地(蒲原)から徒歩数分の図書館でこれを確認した時は、
思わず声を発してしまった記憶がある。
藤枝の福本、平沼の渡辺が確定。
伝法の居なくなった稲木姓は渡辺に改姓か。
富士宮市は連雀青柳で東町だろな。道路拡張で池谷一族などに土地を買われバラバラか。
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大宮町字東新町は、現在の弓沢町に当たるはず。
地区は欠畑橋辺りかと思う。
橋の周辺には鍋田姓(西久保町)も見受けられる。
連雀は町内で移住した先かと。
次は蒲原だろうが、大宮町は宮部氏の探訪記を待ちたい。
ちなみに蒲原は三島の配下ではなく、駿府毛皮町 彦助の配下だったとの事(『蒲原町史. 資料編 近世 1』より)。
森永牛乳東新町販売所は今の明治安田生命支店が有る所に有った
その向いの池谷文具店の裏に野田、山下姓が固まっていた今は野田はいない
鍋田姓は40軒くらい有るから西久保と同じ筋かはわからない
清水区も一般の鍋田が多い
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確かに東新町は富士宮市役所の北側一帯の様ですね。
大正13年3月の調査で20軒125人、昭和10年1月で
15軒80人ということは、思ったより分散してなかった様ですね。
市史で日露戦争戦死者に源道寺に野田姓あり源道寺字東新町
太平洋戦争に咲花地区戦死者に野田姓
東新町池谷家文書もありだいたいその当り
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ちなみに由比の”久保田”姓1軒は、一般との通婚だと思う。
そもそも久保田姓は、由比・蒲原では一般。
蒲原出身の有名なミュージシャンも一般です。
君
なぜ識別番号つかないの
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>なぜ識別番号つかないの
身内だから!(笑)
身内じゃないですよ。
何故つかないのかは、自分にもわかりません。
群馬県 伊勢崎市
も、お願いします。
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今 下味野の準備中
伊勢崎はもっとあとかもね
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