菊池山哉は『日本の特殊部落』にこう記している。
瀬波の部落は三面川沿一筋町で、貧しい民家は見当たりません、凡て船乗り業のようで、副業に竹細工藁細工をして居ります。
この場所は、現在の村上市滝の前のことであろう。菊池山哉によれば旧瀬波村を含む旧岩船郡には13箇所の部落があるが、残念ながら他の部落は探訪しなかったという。
実は先に羽下ケ渕に行っていた。昭和初期の記録には羽下ケ渕に34戸の船乗り等をする部落があると書かれているからだ。
羽下ケ渕は小高い、やや孤立した場所にある集落だが、記録と比べると戸数が合わない。現地で聞いてみると、ここは農業の村で船乗りは無関係だという。しかし、何かを隠しているようであった。
しかし、途中で出会った90近いという老人から、「ワタリ」という人々についての詳しい話を聴くことができた。そこで出てきたのが「滝の前」「泉町」「下新保」「小川」といった地名だ。
かつては差別されていた人々であったが、今ではあまりそのことには触れないことにしており、まさか筆者のような年代の人とその話をするとは思わなかったということだ。
そして、やってきたのがここ。羽下ケ渕からは三面川沿いに西に向かって海の方に歩いた場所だ。ここには「おたきさま」と呼ばれる多伎神社がある。多伎神社の前だから滝の前なのだろう。
多伎神社は河口沿いの細い道をずっと進んでいった場所にあり。住所で言えば「岩ケ崎」だ。昭和初期には岩ケ崎には16戸の部落があるとの記録があるが「岩ケ崎は違う」と現地の人からはっきり言われた。
滝の前は三面川の河口沿いの山が迫ったところにある細長い集落だ。住所表記は「滝の前」だが、ゼンリン住宅地図等だと岩ケ崎と羽下ケ渕の境界上にあるように見える。
現地を訪れると、空き家が多いように見える。
菊池山哉は「貧しい民家は見当たりません」と書いたが、今では廃墟が多い。ただ、よく見るとそれぞれの家は小さな家ではなかったことが伺え、菊池山哉の記録は正しいのだろう。
こうやってみると、古い家でもどことなく風格を感じさせる。船乗りの仕事の収益は悪くなかったと思う。
ただ、件の羽下ケ渕の老人によれば、昭和の始めころからどんどん人が出ていったので、いまはだいぶ住民が入れ替わっているだろうとのことだ。
沢がある谷のようなところにも家が建っている。ゼンリン住宅地図だとこの沢が岩ケ崎と羽下ケ渕の境界のようにも見えるし、農地ナビでもこの辺りの農地の住所表記は岩ケ崎と羽下ケ渕になっている。
実際、ここはもともと岩ケ崎と羽下ケ渕地内で、そこに「ワタリ」の人々が住み着き始めたのではないだろうか。
これが菊池山哉が昭和初期に撮影した写真。「越後岩船郡瀬波村部落の民家」とある。正確には羽下ケ渕が旧瀬波村、岩ケ崎が旧上海府村ということになるのだが、これは滝の前で間違いないだろう。
道の曲がり具合からすれば、ここが菊池山哉が撮影したポイントではないかと推定する。80年程度の月日を隔てて、同じ場所に立てたことは感慨深いものがある。
菊池山哉については、間違った記録も多々あり、公には成沢栄寿などが指摘しており指摘通りの結果となっています。
菊池山哉は参考程度でいいでしょう。
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村上までしかも2度もお疲れさまでした。次回いらっしゃるときはぜひお話しをききたいです。お話をうかがいたいです。地元民でも初めて聞く内容が多いですね。
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下越はほぼ探訪してしまいました。
探訪リクエストがあれば、また行ってみようと思いますが、ございますか?
宮部さんは 出身の鳥取市下味野に訪問しない理由は何故ですか?二度三度訪れる部落はあるのに、、、、
そろそろ訪問されてはいかがですか?
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逆に、そこまで探訪して欲しい理由を知りたいです。
宮部氏の出身地であり、
詳細な取材ができるから。
知人、親族すじから部落民の生の声が多く聞けるのでは?
宮部氏が拒む理由があるのでしょうか?
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そこまで期待されると、かえってやりにくいですね
やるなら気合い入れてやらないといけません
雅子様の父親が、
村上出身でしたよね。
瀬波温泉に行った時、
周辺を散策をしましたが、
鮭の博物館(ナントカ舘)
くらいで、つまらんかった。
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