今回は、滋賀県草津市にある「木川新田」を訪れた。この部落は地元では単に「新田」と呼ばれる。
この部落については、様々な文献を見ることができる。
「滋賀の部落 第1巻 部落巡礼」によれば、木川新田の始まりは、明治20年頃の郡役所の記録による、山城国愛宕郡柳原庄(現在の京都市崇仁地区)から移住した「佐山」「増田」姓を名乗る人物であるという。一方、「月刊福祉」(1968年6月)によれば、130~14年前に「佐山」「増田」姓を名乗る世帯が木川本郷(木川町の南西側地域)から移住し、堤防の護岸工事と新田開発をしたのが始まりとされている。
このように部落の発祥は諸説あるのだが、おそらく文政から天保年間(1830年頃)に始まったことになる。
確実に言えることは、この部落の世帯数がその後急激に増えたことだ。文献によれば、1887年には22世帯、1921年には40世帯、1940年には57世帯、1945年には80世帯、1968年には218世帯、そして2011年には524世帯となっている。
つまり、木川新田の住民のほとんどは、戦後の高度経済成長期(1954年~)から同和対策事業時代(1969~2002年)に移住してきた。なぜ、高度経済成長期以降にこの地に移住してきた住民が多いのかというと、「月刊福祉」によれば交通の便がよかったからだという。この地はちょうど京阪神地域と中京地域の中間地点にあり、その上1956年に東海道本線が電化されたため、東西の大都市圏に容易にアクセスできるようになった。さらに、木川新田は草津駅まで歩いていける距離にある。そのため、土建関係の日雇いの仕事を求める人夫の街として人口が増えた一方、スラム化がすすんだ。
木川新田は交通の便はよいが、住環境としてはあまりよくなかった。その理由は、部落の北側にある旧草津川の存在である。2002年に新河道が開削されて川が付け替えられたため、現在は廃川となっているが、それより前の草津川は堤防周囲よりも水面が高い位置にある「天井川」であり、低地である木川新田は雨が降るとすぐに水に浸かってしまう状態だった。
木川新田の起源は「被差別部落」というよりは戦後に形成された「スラム」であると言える。「佐山」「増田」姓の人物にしても、柳原庄から移住したということは、あくまで伝承の1つに過ぎず確実な裏付けはない。いわゆる「部落産業」と言えるようなものはなく、前述のとおりその歴史的経緯から人夫の街であり、土建関係の自営業者が多い。
また、2011年に草津市が公開した文書「隣保館等の概要と地区の状況について(新田地区)」によれば、当時の524世帯のうち524世帯、つまり100%の世帯が「同和関係者の世帯」とされている。これが意味するところは、木川新田の同和対策事業は純粋な「属地主義」であったということだ。そのため、例えば「同和対策の対象になっている方で在日韓国人の方も何人かいらっしゃる」(行政関係者)ことになる。
部落問題に関して、しばしば「差別により部落民は環境に悪いところに住まわされた」といった言説が聞かれるが、木川新田の場合は逆で、地理的環境によってスラムが形成され、部落が拡大することになった。もとは小さな部落であったのだが、戦後の同和地区指定がむしろ滋賀県でも有数の大部落としての地位を確立させてしまったとも言えるだろう。
木川新田では1972年に「住宅地区改良法」に基づく住宅地区改良事業が行われた。住宅地区改良法は不良住宅地の改良を目的として1960年に制定された法律であるが、1969年に同和対策事業が始まってからは、同和地区に対しては実施要件が緩和され、国からの予算が出やすくなった。
「住みよい街づくりのために」(1998年 草津市住宅改良課)に、その事業の詳細が書かれている。この資料の見どころは、いわゆる「ニコイチ」と呼ばれる改良住宅の設計図である。実際に現地にある住宅と見比べると様々な発見がある。
これは地区の東側にある「No1. Bタイプ」と呼ばれる改良住宅で、これは1976~1978年に建設された。図面では平屋根だが、窓の配置が一致しており、瓦屋根は後で増設されたと考えられる。
こちらの最初から瓦屋根が付いている「No3. Bタイプ」に似ているが、窓の配置が一致しないことと、文献によれば「No3. Bタイプ」は1986年以降に地区の西側のみで建設されたとされていることから、別物であることが分かる。
これは「No1. Aタイプ」で、これも1976~1978年に建設された。やはり後で瓦屋根が付けられている。
これは「No3. Aタイプ」で、1986年以降に建設された比較的新しいもので、最初から瓦屋根が付けられていた。
しかし、改良住宅をよく見ると、写真のように空き家になっているものが多く見られる。地元住民によれば、これには複雑な事情があるという。
改良住宅は、もともと不良住宅の代替として建設されたもので、入居できるのは地元に家を持っていたか、あるいは3親等以内の親族に限られる。改良事業が終わった今となっては、一般の市営住宅と同じように誰でも入れるようにしてしまうことも考えられるのだが、現在のところ草津市は一般市民はおろか、親族を入れさせることさえしていないのだという。
理由の1つは、ニコイチ住宅の今後の扱いが定まっていないためだ。おそらく、草津市が望む一番の解決方法は、全ての住宅を住民に払い下げてしまうことである。ニコイチ住宅は既に築30年から40年が経過しており、しかも耐用年数は45年とされ、もう間近に迫っている。しかし、改築には費用がかかるし、駅近くにいつまでも戸建ての市営住宅が立ち並んだ状態を続けるわけにもいかないだろう。
払い下げられたニコイチ住宅は、扱いとしてはもはや民間の建物と変わらないので、そのまま住み続けれても良いし、他人に売ってもよいし、取り壊して家を新築してもよいし、商店やアパートにしてもよいだろう。木川新田を「同和地区」から普通の街に変えるためには、ニコイチ住宅の払い下げは、近い将来やらなければならないことである。
住宅の払い下げには当然、住民の同意が必要なのだが、これがまとまらないのだという。その理由は、まず世帯数が多いことである。ニコイチ住宅は200世帯近くもある。そして、家賃が3000円程度と安く、その家賃や水道光熱費すら支払っていない住民がおり、他人に又貸ししてしまっている住民もいるという。すると、自分のものにするよりも、現状の公営住宅のままにしておく方が得だという考えもあり、今更家のためにお金を払うのは嫌だという住民もいる。このような状態で新たな入居者を入れたらまた問題を長引かせることになりかねず、そのため草津市は新たな入居者を入れることを嫌っているのだろう。
(後編に続く)
被差別部落と一般スラムの違いは結局、封建時代の身分差別に起源を持つという伝承の有無にかかっているのでしょうか?
そうすると被差別部落というのは存在自体が一種の共同幻想ですね。「自称・平家の落人の部落」「自称・キリストの子孫の部落」と変わらない。
>被差別部落と一般スラムの違いは結局、封建時代の身分差別に起源を持つという伝承の有無にかかっているのでしょうか?
「被差別部落」=「同和地区」ということであれば、そういうことになると思います。
ただ、それも地域によってはかなりいい加減だし曖昧ですね。
例えば新田地区の隣の西一地区は青屋をルーツとする被差別部落で属地主義の新田地区とは違い属人主義を採用しているとのことでしたね。
また新田地区と西一地区では通婚関係も一切なかったとか。
西一地区は暴力団組員が常駐してる新田地区とは違い治安も比較的安定していると聞きます。
属地主義を採用すると利権目当てのエセ同和が集まってきて治安が悪化してしまうということでしょう。
滋賀県草津市木川町の明治神社
http://blog.goo.ne.jp/tanezaka/e/f1fea95fa18320f42462b5eadbf239d9
木川村(きのかわむら)
北山田村の東に位置し、北端を草津川が西流する。村名は草津川の異称木川にちなむとされ、本郷と出屋敷・新田の三集落からなる。中世には木川庄として推移『滋賀県の地名 日本歴史地名大系25(平凡社)』
出屋敷とか新田(しんでん)とは荒地を開拓したという意味である。
天井川に隣接する新田地区は過去何度も台風水害を被っている。
私は大正6年(1917)創建といわれる明治神社に参拝した。
広い道路を横断して東へ急ぐ。雨は更に激しく降り出した。
びしょ濡れになって真宗大谷派・喜龍山笠堂寺に至る。
もともとこの寺は北村(現橋岡町)にあったが、大正の初め頃に新田地区に移築されている。
>もともとこの寺は北村(現橋岡町)にあったが、大正の初め頃に新田地区に移築されている。
http://www.city.kusatsu.shiga.jp/shisei/kaigishingikai/hokoku/chikijinkenbosaisomu/kentoiinkai.files/4c91dcba005.pdf
地区の歴史を裏付ける資料が少なく、S40年代~S50年代にかけ■■町の乗誓寺(1749年、釋良雄中興)の寺宝掛軸から独自の調査をし、歴史を推考した。
・乗誓寺の掛軸には天明2年壬寅5月7日(1782年)金福寺下 矢橋北村の銘があり、乗誓寺は、金福寺の末寺であったと考えられる。金福寺を興したのは源信僧都であり、楠一門が代々住職を継ぎ、近畿8ヶ国内に780余の道場を有する。また、金福寺末寺といわれている寺院のほぼ6割が被差別部落の中にある。
・楠一族は、南北朝時代南朝方に忠勤を尽くした。楠正成の子息正行・正時が四条畷の戦いにおいて刺し違えて自害した後、次男・四男・五男・六男は四国の一部と若狭にまで分散し、追っ手から逃れ陰遁生活をした。陰遁生活をつづける中、在所との交流をせず、外部との接触を絶って生活した結果、近世になり身分制度が確立するに従い、被差別部落として位置づけられてきたと思われる。これは金福寺住職坂口真道老師が講演の中でも述べられており、被差別部落生成過程において、自ら外界との交流を避けて、ひたすら隠れ住んだ人々が、やがてその生活形式と言語の違いから、差別されるようになったいうこともあるとのことであった。
・金福寺の維持には信徒が労を提供しており、被差別部落の徴用においては、エタ頭による徴用の記述が金福寺に残っているが、エタ頭が■■町を徴用した記述はない。このことから当時■■町が被差別部落として位置づけられていなっかったことが推測される。また、金福寺寺宝が乗誓寺に下賜されており、金福寺とは特に深い関係が伺われることから、■■町には、楠一族が陰遁生活をしていたものと推考される。
・このように、金福寺の歴史から推考すると、1300年代から1450年代にかけて分散した楠一族が(■■町)に移り住み陰遁生活をした。■■は農耕の適さない河川敷であったが開拓し、矢橋道と北川とに挟まれた土地に池を掘り、上流から水を集めた。さらに、北川の下を通って南側に抜けるトンネルを作った。さらにやや離れた所にもう一つ池を作り農耕の基盤を作り、米作りを営んできた。そのトンネルを作った技術は当時の日本としては最新の技術で、金を掘り出すために用いられた鉱山技術らしい。
・明治初期の公図によると、地積と世帯数から単純に見積もっても一軒あたり2反の田地があったことが推測される。
その通りです。被差別部落とは大衆の創り出した共同幻想に過ぎません
何も違いはありません。
でも被差別部落は共同幻想であるという認識が定着してしまうと、良くも悪くも被差別部落への特別視がなくなる反面、優遇措置も要求しにくくなるでしょうね。「われわれ部落民が不幸な思いをしているのは自業自得ではなく、封建制度の残滓のせいである。だから行政は責任をもってわれわれを不幸から救うべきである」というのが同和団体の言い分ですから(朝田理論)。
「不幸から抜け出せないのは自己責任。行政に甘えないで自助努力しろよ」という意見は、同和団体にとっては都合が悪いでしょう。もっとも、社会的に成功した部落民、たとえば橋下徹(あと竹中平蔵も?)はそのように公言して憚りませんが。
竹中平蔵は部落民ではありません。
橋下徹も部落民ではないですよ。
「橋下徹も部落民ではない」はさすがに無理な主張かと。橋下が「歴史的・社会的に形成された被差別部落に現在居住しているかあるいは過去に居住していたという事実などによって、部落差別をうける可能性をもつ人」であることは否定できません。
橋下徹の場合、東京幡ヶ谷の生まれで、その後に飛鳥地区に移り住んでいるので、部落民と言えるかという判断は微妙なんですよね。
少なくとも行政上は同和関係者との扱いをされていませんでした。
新潮や週刊朝日の件がある前までは、解放同盟は橋下徹が部落民だとは言ってなかったのですが、
いつの間にか橋下徹は部落民ということになってしまいました。
橋下家(大阪府八尾市・豊中市)
家系
・橋下の母によれば、「橋下一族は先祖代々同和地区に住んでいたわけではなく、徹の祖父の代にたまたま転入したに過ぎない」という。橋下の母によれば、「橋下家は同和部落出身ではない」ということになるが、『週刊文春』(2011年11月3日号)によると「橋下の実父は、とある関西地方の山裾の寒村の被差別部落の出身」という。つまり橋下は被差別部落にルーツがある。
その寒村の橋下姓の老婆は「昔は“橋下(ハシシタ)”という家が六十軒ぐらいあった。大概の者は名前を“橋本”に変えて出て行ったと聞いている。ここらの人はみな教育熱心で、一生懸命勉強して就職差別やいろんな差別と闘ってきた。」と述べている。
山裾の寒村を離れ、橋下の実父らが居ついた先は大阪府八尾市にある同和地区だった。この地区のもっとも古い記録は豊臣秀頼がおこなった1613年10月の検地帳にある「かわた」という記載である。カワタというのは「皮田」とも「皮多」とも書き、とくに大阪に特徴的な穢多身分の呼称で、死牛馬の処理を生業としていた。徳川幕府の頃には生皮からとれる膠を生産していた。橋下家がいつ移ってきたのか定かではないが、墓所には橋下から三代前の曾祖父の名が刻まれている。
橋下の叔父によると「ほかにも在日とか言われているけどそんなことない。同和や。わしもアニキ(橋下の実父)も同和やゆうのに誇りもっとった。」という。
・橋下姓
橋下の母は次のように語っている。「あの子が生まれた時点で、向こう(橋下家の人々)との因縁を断ち切るつもりで、ハシシタ姓をハシモトと変えたんです。向こうの親たち(橋下徹の祖父母)は、反対しました。けど、橋の下を歩むようなイメージの苗字はどうか。この子は、橋のたもとを注意深く生きていくように、と願って変えました。だから、ちっちゃいときから、あの子はハシモト。その意味は当人もよく知らないはずです。」。
橋下の叔父は「(ある日突然)アニキ(橋下の実父)が『俺はこれからハシモトでいく。お前はハシシタでいけ』言うたんや。」と述べている。
解同の綱領には出てきませんが、被差別部落民かどうかを判定する基準に「通婚圏」のことを入れてもいいかもしれません。要するに、ムラ同士で通婚しているかどうか。親類がみなムラソトに住んでいる中で一人だけムラに住んでいるなら、その人は被差別部落民ではなく「ムラに住みついたハク」でしょう。
橋下の祖父らが宍粟のムラから八尾のムラに移ったのも、おそらく親類を頼ってのことでしょう。ムラに特徴的な希少姓が特定地域に固まるのではなく遠隔地のムラに点在する例があることを本田豊が指摘していますが、これも遠方の親戚を頼って移住したためでしょう。
幻の“とんがらし漬”特産品に 滋賀・草津市
http://kanko-kusatsu.com/info/tongarashi/
滋賀県草津市観光物産協会は、同市木川新田地区に伝わるトウガラシ漬を基に「草津とんがらし漬」を企画、発売した。発酵させたトウガラシの漬け床に野菜を漬け込む。家庭の味として地区内から出ることはなかった「幻の漬物」で、同協会は「草津の特産品になれば」と期待している。
一昨年から観光物産協会の嘱託職員となった石橋清一さん(63)は草津の特産品を開発しようと、かつて味わったことのあるトウガラシ漬に注目。同市木川町の「つけもん屋いし井」と共同で、地区の民家数戸の作り方を参考に、うまみ成分を加え食べやすい味にした。乳酸発酵のため健康によく、塩で漬ける漬物よりも塩分が少ないという。
祖母から漬け方を習い、今も漬けている同町の新田会館のNPO「心輪」職員の山内久代さん(73)は「昔から『医者いらず』として食べられていた」と話す。作り方は各家庭で異なるが、湯通ししたトウガラシと塩だけで漬け床をつくり、野菜を3~5日漬け込むと食べられる。
滋賀の食事文化研究会によると、トウガラシ漬は高島や甲賀などの山間地のものが知られているが、草津のトウガラシ漬は同市内でもあまり知られていなかった。
発売された「草津とんがらし漬」は、ミブナを原料に100グラム入りで税抜価格300円。問い合わせはつけもん屋いし井TEL077(566)2508。
トウガラシ漬は知りませんでした。というか、そのような名物があるとは全く聞いていません。
NPOが関わっているというのが眉唾ものです…
ただ、田舎では村単位どころか家庭単位で秘伝の食べ物が伝承されていたりします。
木川新田でも、本当にいくつかの家でだけで伝承されていたものではないでしょうか。
古い写真の住宅、母の実家と同じではないですか!
外はボロボロでも中は清潔でしたね。トイレ・お風呂は共同。
戦後の借家はどこもこんな風だったのでは?
母の兄が家を建てて、みんなで引っ越ししました。家建ててもらってずるくね?
>山城国愛宕郡柳原庄
「あたご」郡ではなく「おたぎ」郡です。
すみません、確認しましたら確かに「おたぎ」でした。
さきほ訂正しておきました。