以前の記事で「私たちの手で 住宅地区改良事業・農村同和篇」の聖地特定企画をやったことを覚えているだろうか。今回訪れたのはその聖地の1つである。映画では具体的な地名は明示されなかったが、建物の形状等から掛川市千浜であることが特定された。
戦前の記録によれば戸数49で、当時から農村であった。映画が作られたのは1971年であるから、ちょうど今年で50周年ということになる。きれいに整備され、改良住宅が建てられ、産業振興策も行われ、未来は希望に満ちているよう見えた、あの時の村はどうなったのか。50年前と今を比較しながら見ていこう。
訪れたのはちょうど昼頃。現地に餃子が美味しいラーメン屋があるというので朝食も食べずにいたのだが…
コロナの影響で休業という衝撃的な事実が発覚。しかも営業再開は明日からということで、運が悪かった。
さらに、朝から低い雲が垂れ込めていたのだが、ついに雨が降り始めた。こんなことなら、翌日にすればよかったと後悔した。
それでもはるばる来たからには、探訪しなくてはいけない。まず団地が目に入ったが、これは映画には出てこなかったし、掛川市の公営住宅の一覧にも入っていないので、民間の団地のようだ。
次に、映画にあったような広い畑とビニールハウスが見えた。地名の通り比較的海に近いためか、砂の多い土壌である。映画ではメロンを栽培していたが、確かに水はけのよい砂地はメロンには適しているだろう。
そして、ついに期待していたものが現れた。時間の経過により壁が黒ずんでしまっているが、映画に出てきたのと全く同じ形のコンクリートブロック造ニコイチ住宅である。
一方で、きれいに塗り直されているものもある。この違いは何だろうと考えた。
その前に気づいたのは、ほとんどのニコイチの玄関に南妙法蓮華経が書かれた御札があることだ。これは戸守札と言って、魔除けのために玄関に貼り付けられる、日蓮宗特有のものである。神奈川県西部と静岡県の部落はほぼ全て日蓮宗であることが特徴であるため、よく目にするものだ。
これも静岡県ではよく見る屋敷神。
ここは映画に出てきた場所ではないだろうか。もちろん、同じ建物が並んでいたので、たまたま建物の配置が似ている別の場所である可能性もあるが、ほぼ間違いないと感じた。
そして、ここがメインストリート。映画では改良住宅は71戸とされるが、現地に来ると明らかにそれよりも少ないし、先述のようにメンテナンスのされ方にばらつきがあり、空き家もある。大幅にリフォームされていたり、改良住宅があったと思われる場所に独自の戸建てが建っていたりする。
その理由は、払い下げられたからだろう。掛川市のウェブサイトで調べても千浜のこの辺りに改良住宅や公営住宅は見つからない。ブロック造のニコイチは住民の持ち入れとなり、所有者によってその後の扱いにばらつきが出たためこうなった。
中には完全に放置されてしまっているものもあった。
奈良県辺りのニコイチであれば定期的にメンテナンスがされ、このような状態にならないのであるが、あれは税金を使って維持しているためだ。だから千浜の例が悪いとは言い切れない。ただ、定期的に塗り直さないと壁が変色して見た目が悪くなってしまうという、ブロック造住宅の欠点が如実に出てしまっている。払い下げてメンテナンスが住民任せになれば、こうなってしまう可能性は常に付きまとう。
空き家はニコイチだけではないので、高齢化そして過疎化が進んでいることが伺える。
やはり、古いニコイチに住んでいるのは高齢者が多いように見えた。その1人に聞いてみると、映画のことはよく知らないようであったが、映画に出ていた織物工場については千浜会館の隣りにあり、いつ頃からかは分からないがもう使われていないという。
ここがその千浜会館。隣保館であるが、少なくとも外には同和や部落と言った類の掲示物はない。
その裏手が子供の遊び場になっていて、何かの工場のような大きな建物がある。
まさにこれが旧織物工場だ。想像していた通り、非常に大きい。
「想像していた通り」というのは、映画のこのシーンを見れば分かる。多数の豊田自動織機の織物機械が整然と並んでいる。当時は出来た織物を大手のアパレルメーカーが買い取ったのでそれなりに儲かったようだ。
それが今となっては閑散としていた。農業と違い、こちらは長く続かなかったようだ。
千浜会館の裏手とは別の場所にも小さな公園があり、ここには「大浜町千浜東」と刻まれた石柱がある。大浜町は1956年から1973年まで存在していた町だ。
そして、この部落には昔からため池がある。この池は明治期の地図にもあり、この池の北西側を取り囲むように部落が立地している。
ニシキゴイが泳ぐこの池の名前は「丸田池」。池の名前として昔の地名を留めている。