竹田の子守唄には「久世の大根飯、吉祥の菜飯」という歌詞がある。今回訪れたのはその吉祥に当たる部落である。とは言っても、吉祥院全体が部落というわけではない。 1935年の記録では吉祥院に菅原という名前の97戸の部落があった。
今でこそ都市化しているが、かつては小さな農村だった。その範囲は現在の吉祥院菅原町の範囲にほぼ一致し、それ以外の場所は田畑が広がっていた。菅原という地名は、近くにある吉祥院天満宮つまり菅原道真を祭神とする神社があることに由来すると考えられる。
ちなみに、前回、久世の大根飯の動画を掲載し忘れたので、以下からご覧頂きたい。 久世の大根飯は大根の葉を使っており、菜飯の菜というのは大根の葉のことという証言があることから、久世の大根飯と吉祥の菜飯は同じようなものだったとも考えられる。
前評判では、ここは同和地区指定されたものの、改良住宅が建てられなかったという。確かに、区画整理されて道は整然としているが、見た目はあまり違和感がない。
街の掲示物も、特に同和を強調していない。
何組かの親子が遊んでいる広い公園の周囲には、京都ではごく普通の家が立ち並んでいる。
公園の隅には、この地域の無形文化財、六斎念仏の石碑が。しかし、材質の選択がまずかったのか、20年でかなり劣化してしまっている。
六斎念仏について知りたいなら、かつての隣保館である吉祥院いきいき市民活動センターに行くとよい。もとは100戸に満たない農村だったことを考えれば、不釣り合いに立派な建物である。無論、少なくとも現在は一般化され広く使われるようになっている。
中に六斎念仏の展示室がある。六斎念仏は念仏とは言うものの、実際は様々な娯楽要素を取り入れた民間玄能である。近世以前は部落は排除されたいたのだが、明治になってから部落でも行われるようになり、そして現在では都市化によってむしろ部落外で廃れ、部落で伝承されるという皮肉な経過を辿っている。
そのこともしっかり書かれていた。「吉祥院六斎は、同和地区の人々が中心となって周辺の人々と共に保存と継承に努めた」「同和地区を含む組は、明治中頃まで差別によって六斎念仏を上演する機会が狭められていた」と非常に直球な表現で説明されている。
明治時代の地図と同じ場所に墓があったので行ってみた。墓石から、浄土真宗であることがすぐに分かる。
西教寺という寺は、確か部落内で見かけた。
そして、ここが西教寺。世帯数に相応しい規模であるように見える。
そして、京都の他の同和地区と同じように公衆浴場があるが…
既に閉鎖されているようである。部落や周辺の家はどう見ても風呂付き。単純に、需要がなくなったということだろう。
吉祥院は砂ノ町と聞いていましたが、、
砂ノ町も同和地区の範囲には入っていると思われますが、昔から村があったのは菅原町です。
古くは南条と呼ばれていたそうです。
同じ京都市の同和地区でも改良住宅が建てられたりして大規模に
同和事業を行った地区と、菅原町のように改良住宅が建てられず、
大々的に同和事業を行わなかった地区とでは何か違いがあるのでしょうかね。
あと山科の川田のように被差別部落があったのに同和地区に指定されていない
のはなぜなのでしょうか。
おそらくですが、地元住民や解放同盟支部の方針の違いがあると思います。改良住宅が立ち並ぶのは視覚的に同和地区だと主張するようなものだから、貸付金方式にするべきといった議論があちこちであったのは事実です。
下深部のコメントのhttp://stanford.maps.arcgis.com/apps/SimpleViewer/index.html?appid=733446cc5a314ddf85c59ecc10321b41
この地図は1931年ー1932年の間に作られたものなのでほぼほぼ全国調査が行われた時と同じですよね
「西教寺」ですか…。竹田の部落のお寺も「西教寺」という名前でしたが、何か関係があるのでしょうか。
すみません、そこまでは調べておりません
京都の大学で人権教育について学んでいます。同和について知り、YouTubeやブログを拝聴、拝読するようになりました。
とても勉強になります。施設にも行ってみたいと思いました。
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開かずのトイレ
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