廣瀬というと、現在は古い公営住宅が立ち並んでいることが印象的だが、その辺りは昔は田んぼで『滋賀の部落』によれば非常に狭い部落であったという。確かに、戦後間もない頃の航空写真を見ると、狭い区域に家が密集している。
1888年は118軒、1931年は261軒、1999年は545軒と記録されている。
ここが木之本文化センター。隣保館である。
廣瀬に隣保館ができたのは1963年と、かなり早い時期である。それだけ、この部落では貧困対策が急がれたのだろう。
中には「しが人権マップ」なるものが。同和と朝鮮にまつわる物件がいくつか含まれているが、選ばれた基準がよく分からない。
これは部落の中心にある日吉神社。神社の発祥時期は不明だが、1000年以上昔に遡ると言われている。
廣瀬村は明治になるまで全く土地を持たなかった。小作すらしておらず、皮革と雑業をして暮らしていたと考えられる。
明治7年に本村から百数十メートル四方の土地を与えられて分村独立したと『滋賀の部落』には説明されている。 百数十メートル四方 というのは、昔の航空写真から見える集落の範囲の程度しかないことから、その頃も農地はなく、住居のための土地だけだったと考えられる。
他の貧困を抱えた部落では、住民の生活の荒れ具合が記録されていることが多いが、この廣瀬部落はそうではない。住民は非常に従順で、大人しかったことが記録されている。
また、部落であっても大抵は金持ちの一軒二軒はあるものだが、ここは例外なく全ての家が貧しかったという。
この部落には大規模なニコイチ群は見られない。この公営住宅は同和事業の最初期のものだ。かつてはここでも公営住宅の家賃踏み倒しが横行していたという。
区画整理された場所には持ち家もある。
今回も動画版を制作した。部落全般の同和地区指定がどのようにされたのかという問題について解説しているので、ぜひご覧頂きたい。
「語りのちから」という本にここがクローズアップされていたのを思い出します。こんな所だったんだ。
この本でしょうか?
https://www.amazon.co.jp/dp/4335550677
土地の所有者はどなたなのでしょうか?
明治7年以前は木之本村の所有だったそうです。
田部にあるニコイチ群は、
同和とは、関係ないのでしょうか?
関係あると思います。いわゆる、滲み出しされた部分ですね。
本村と枝村の関係は、地域によって結びつきに大きく差が有るようですが、「貧乏、土地がない、差別されている」これだけ見れば本村にとって何のメリットも無いように思うのですが、なぜこの地に住み続けることが出来たのでしょうか。
普通なら追い出されてもおかしくはないでしょうに。
滋賀の部落によれば、苅又村の住民の居住地は本村の所有だったそうです。おそらく、本村に土地代を払っていたのではないかと思います。
滋賀の未指定地区といえば若宮や小柿が有名ですね。
ところで大阪の藤井寺の林や淡輪の峯地蔵なんかも地域の住民の要望で同和事業をやめちゃったのでしょうかね。
林には昔隣保館的な建物はあったようですが。
あと大阪は夙村があったところは行政から同和地区に指定されていませんよね。