『三重県部落史料集(近代篇)』に掲載された「管内◯◯部落と其人口」によれば、多気郡斎宮村には「大頭」という古村があった。その戸数は15戸前後で、明治初期からあまり変わっていない。
もとは小作人の村で、農業のほか、草履や傘を作っていたということである。
『三重県部落史料集(近代篇)』にはこの地で水平社運動があったこと、そして小作争議があったことが書かれている。「東山」という名字の人物が出てきて、大正時代の記録に書かれた番地には今も「東山」という家がある。それは豪邸である。
今はNPOの張り紙がされているが、ここは「勝見教育集会所」である。
『近世伊勢神宮直轄領の被差別民について』という資料にこの村のことが書かれている。
かつて、現在の斎宮塚山古墳群のあたりに「非人集落」があったというが、ここからは離れている。その非人集落は元禄時代に盗賊を匿った罪により解体された。
非人集落とは別に「穢多」集落があった。それがまさにここのことであろう。貞享時代に現在の松阪市から移住した数家が起源であり、旦那寺は善覚寺であるという。これは『三重県部落史料集(近代篇)』の記述とも符合する。
付近の百姓は伊勢街道の賃稼ぎのために田畑を放置することが多かったため、穢多村は田畑を耕作するための労働力として歓迎された。
穢多村により作られた米は伊勢神宮にも納入されており、時の幕府はこれを問題視したが、神宮は「時間が経てば穢れが消える」という見解を示して続けさせたという。
他に、墓掘りや埋葬も穢多村の生業であった。
ただ、当初は他の穢多村のように斃牛馬の処理権を持たなかった。
しかし、天保時代に佐田村の穢多と斃牛馬の処理権をめぐって争いが起き、最終的に斎宮も権利の一部を得たという。
現在は、「大頭」という地名を目にすることはなく、代わりに「勝見」という名称を目にする。ただ、登記情報等には「大頭」という小字が確認できる。
この施設は「斎宮ふれあいプラザ」。
1970年代くらいまでは、この施設の東側に小さな集落があるだけだった。
現在は西側にも集落が広がっており、付近の公営住宅(斎宮団地)は、もとの村の規模に見合わず戸数が多いように見える。老朽化して空き家が多く、今後解体されて集約化されるという。
同和だの人権だの部落だのSDGsだのといった掲示物は見られない。
単純に部落地域のひなびた風景が好きで、閲覧してます。
Pinterestに示現舎のアドレスから保存しようとするとポリシー違反で弾かれてしまうのが残念ですね。
トランプ政権の流れでこれも変わってくれると良いのですが。
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