戦前の記録では旧藤枝町に39戸の部落があった。その付近、旧西益津村稲川には30戸の部落があったとの記録がある。気になるのは、菊池山哉が「現状は稲川村と全く同一村をなして居る」ということである。
結論から言えば、戦前の記録にある2つの部落は、いずれも現在の藤枝市藤枝1丁目内にあったことが判明した。現地は同和事業の対象となったが、現在は事実上同和地区としての扱いは終えている。
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以下は菊池山哉『長吏と特殊部落』からの引用である。
志太郡、藤枝町、益津、□□
○東海道島田の宿を下って、藤枝の町へ入らうとする地に、瀬戸川てふ川がある。その橋袂、ならば大したものであるが、其処から右折して田畝、稲川曲輪に寄生して居る。瀬戸川の堤防は一丈余も高い。川底の方が田畝より高い。その堤防下である。三十戸許り。
○鎮守はない。
○藤枝の町の発展につれて、益津村の曲輪から分遣さして貰ったものであらう。この曲輪を藤枝の方で、益津村と呼ぶ謂で、現状は稲川村と全く同一村をなして居る。
「稲川村と全く同一村をなして居る」というのがポイントである。
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そして、稲川の記述。
志太郡、西益津村、稲川、□□
○東海道を外れて、南方田畝の間にある、西益津村の藤枝町の隣村である。
○白山神、神体は束帯の座像一座、祭日は二月二十二日、餅から旛まで全部白づくめとの事、現在の堂は大正年間の改造で、それまでは小祠であったと云。
○農家であるが、細工場が附く。造りは堂々たるもので、密集ではない。二十戸許り。
○志太郡中白山神社を祀る曲輪は、此処だけであるとて、曲輪の人々は、この事を誇りとして居る。而して武田信玄が嘗つて身延山を攻め滅ぼさうとしたが、白羽の箭に当たつて遂に戦死した、その最後に白羽(歯)の痛みを治してやると言つて息絶えた、夫れで白山様は歯痛に利薬があるのだと。訳の解らない伝説を伝へて居る。法華身延の信仰と混線して来たものであらう。各自の家に次の如な門札が張ってある。
樹甘露法雨
南無七面大天女守護攸
煩悩焔滅除
確かに、家に門札があるが、菊池山哉の記録にある文字は読み取れなかった。
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「第4自治会館専用駐車場」とある。
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そしてこれがその藤枝第4自治会館。調べてみると、もとは藤枝市立益津会館という隣保館だったが、2009年に地元自治会に譲渡されている。
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隣保館だった時代には、講座があると館長が「ここは部落であり…」といった説明をしていたという。
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自治会館の1ブロック南のこの通り…
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実は天保13年藤枝宿図には「穢多小路」と記されている。このことから、この部落が穢多に由来するものであることが裏付けられる。
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同和施設が譲渡されているということは、事実上同和地区としての扱いは終えているのだろう。ただ、改良事業で作られたニコイチ住宅等は残っている。
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空き家になっているものと、そうでないものがある。このような物が置かれているということは、住民に払い下げがされているわけでもないようだ。
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団地形式の改良住宅は「藤枝1丁目団地」で、複数ある。初期のものは昭和46年に建設された。なので、初期の同和事業で作られたことが分かる。
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この藤枝1丁目公園のストリートビュー画像を2012年まで遡ると、気になるものが写っている。
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地元住民によれば、それは白山堂で、管理する人がいなくなり老朽化していたので取り壊したという。さらに昔は、もっと南側にあったそうだ。これは菊池山哉が記録した白山神であろう。現在は土台の跡だけが残っている。
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そこで謎が生まれる。藤枝1丁目は旧藤枝町であった。一方、菊池山哉が記録したもう1つの部落は西益津村。これは現在の藤枝市稲川である。菊池山哉は藤枝には鎮守はなかったという。しかし、この白山堂は最近まであった場所も、昔あった場所も藤枝1丁目内である。
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白山神社は稲川にあるこの川関神社に合祀されたという。念のため、稲川でも聴き込んでみたが、稲川では家に日蓮宗の門札など掲げられたことはないという。
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これは日蓮宗宗傳寺。この部落の寺であるのみならず、藤枝およびその周辺部落の総本山的な寺である。
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墓地を見ると、確かにこの部落だけでなく、周辺部落の名字の傾向を反映しているように見える。
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そして、筆者が開発した名字分布分析ツール「マッポン!」による分析結果がこれだ。有料版では最も掲載数の多い2000年の電話帳を利用した分析も可能になったので、ぜひ課金しよう。
これを見ると分かるのは、宗傳寺前の道路を境に、きれいに名字の傾向が分かれている。宗傳寺は昔は現在の道路上にあったということなので、文字通り寺を境に2つの村に分かれていたことが示唆される。
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住民によれば実際、宗傳寺を境に部落は「上」と「下」に分かれていた。どちらが上でどちらが下なのかは不明だが、一方が藤枝町で、一方が西益津村稲川に属していた。それがいつしか両方とも藤枝町藤枝に編入され、戦後は一体の部落として同和事業の対象になった。そう考えると辻褄が合うのではないか。
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そして、研究者により決定的な証拠が見つかった。『日本実業商工名鑑 昭和14年度版 京阪神廃品版』である。藤枝町の廃品業者が掲載されており、部落の北側に多い青木姓の業者の住所は「藤枝町益津」であり、部落の南側に多い瀧本姓の業者の住所は「藤枝町稲川」となっている。
稲川は本来は西益津村の地名であるが、当時は藤枝町の字として扱われていたのだろう。これで、菊池山哉が2つの部落として記載しつつも、「全く同一村をなして居る」と記録した意味が分かった。
日蓮宗宗傳寺。この部落の寺であるのみならず、藤枝およびその周辺部落の総本山的な寺である。
↑
根拠が希薄! 総本山の意味は?
#99ade591527e414e4416449942396b7b
宗傳寺に電話を入れ確認しました
日蓮宗のお寺らは藤枝市に正應院、大慶寺妙法寺
など数寺あり、宗傳寺が
宮部氏の言う
「藤枝およびその周辺部落の総本山的な寺である」は根も葉もないことである。とのことでした。
宮部さん メッ!
#99ade591527e414e4416449942396b7b
お寺に迷惑電話はやめましょう
迷惑電話ではありませんよ。
迷惑なのは、似非情報を流す宮部さんの方ですよ。
丁寧にご対応いただきましたよ。
宮部さんが探訪時に裏どりしないで、似非情報を流すからいけないのですよ
メッ
#99ade591527e414e4416449942396b7b
また、私はお寺に氏名、住所、電話番号等を名乗ってますよ。
問題は宮部さんの言う
「藤枝およびその周辺部落の総本山的な寺である」
が正しいかどうかでありますよ。
メッ
#99ade591527e414e4416449942396b7b
承知しました。もう敗北を認めます。
該当箇所はこの屈辱を忘れないよう、打ち消し線にしておきます。
宮部さん
勝負事じゃありませんよ(笑)
間違った情報提供は差別を助長したり、情報が独り歩き足ますのでご注意ください。
#99ade591527e414e4416449942396b7b
個人的には、
寺の事は
どうでも良いかな‥。
間違ってた情報は、
訂正してるんだし。
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マッポンは同和抜きにしても普通に地理院とグーグルの行き来ができるのが素晴らしい
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