学術・研究:部落探訪(244) 滋賀県 草津市 西草津1丁目

カテゴリー: 部落探訪 | タグ: , | 投稿日: | 投稿者:
By 鳥取ループ

今回は草津駅前の指定同和地区を訪れた。戦前の戸数は51、かつては留守川村、新町と呼ばれていたようだ。現在の地名は西草津一丁目。略して西一というのが同和地区の呼称となっている。

1996年の同和対策地域総合センター要覧によれば1971年に141戸だったものが1996年には385戸と大幅に増えている。改良住宅と公営住宅は合計80戸あるとされている。

『滋賀の部落』によれば、ここは東海道の宿場である草津村の枝郷の穢多村であった。典型的な街道筋の宿場部落である。

留守川という近世の名称のルーツのヒントがこの駐車場にある。ここは2002年までは草津川の川底だった。今は川が付け替えられたが、旧草津川は天井川で、なおかつ平常時は水が流れていないという特徴があった。水が留守だから留守川というわけである。

川底がかなり高いので、自動車が通る道路や鉄道は橋の代わりに川底をくぐるトンネルを通っていた。

留守川は藍染が盛んであった。染め物を作るだけでなく、原料の藍玉の取引を行っていたという。藍染を扱う青屋は全て穢多であったが、分限者が多く、明治期の1戸あたりの納税額が滋賀県内の部落で一位だった。

いわゆる「青屋村」は穢多村でないところもあるので、青屋が賎視されていたというより、ここでは穢多が青屋を営むようになったと見るべきだろう。

ここでは1976年から同和対策事業として小集落改良事業が行われた。

稀有な例だが、事業の除却図が草津市によって公開されている。

これも稀有な例だが草津市が2010年の詳細な状況も公開している。それによれば当時の戸数は名目上500、実質的には481だったとされている。そして混住化率は73.18%。

どうも草津市の言う混住化率というのは、同和関係者でない人の割合を言うようなので、大部分は外部から移住してきたということだ。

それゆえに問題もあった。10年ほど前まで固定資産税の同和対策減免があったのだが、その認定を解放同盟支部長がやっていた。しかしこれほど人が流入しくると、旧住民との婚姻や離婚も頻繁にあり「同和関係世帯」かそうでないかの切り分けが難しくなった。そのため、ある時解放同盟支部長が今後は申請があれば全員認定すると宣言してしまった。

これは圓教寺。真宗大谷派のお寺である。「大谷派地方関係寺院及檀徒に関する調査」にも出てくる。

ここが西一会館という隣保館。比較的新しくして立派な施設だ。

ここに関係してもう1つ騒動があった。地元隣保館の嘱託職員は従来は解放同盟の推薦で入れていたのだが、それも新住民を含めて一般公募した。しかし、これも解放同盟支部長の独断で、後になってから解放同盟上層部から横槍が入った。その時には既に一般からの応募者がいたのに、排除されてしまったという。

さらに支部長を辞めさせられてしまったということだ。

しかし、現状はそもそも固定資産減免は廃止。西一会館は地元NPOによる指定管理となっている。

現地を歩くと、ニコイチの間に持ち家やアパートが混じっている。新快速が停まる駅の間近なのだから、間違いなく同和事業をやらない方が自然に開発されて、今頃何の違和感もない住宅地になっていたはずだ。

なお、草津市でも改良住宅の払い下げが進められている。ここでも徐々にニコイチが減っていくと考えられる。

この部落で同和事業は必要なかっただろう。そのようなことを住民から聞いたことがある。

また、『滋賀の部落』によれば西一の住民は隣の木川新田地区の住民を差別しており、一般地区からのそれより激しかったことが書かれている。住民によれば、それは事実であったようだ。かつては、新田の子と遊ぶなということはよく言われたそうだ。

近世の歴史についても、同和事業についても、いろいろと示唆するものが多い部落である。

鳥取ループ について

ジャーナリスト、ソフトウェアアーキテクト。信州大学工学部卒。 同和行政を中心とする地方行政のタブー、人権ビジネス、個人情報保護などの規制利権を研究している。「ネットの電話帳」管理人。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

wp-puzzle.com logo

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

関連記事

学術・研究:部落探訪(251) 滋賀県 愛知郡 愛荘町 長塚

筆者が長塚を訪れるのは初めてではなく、実は10年ほど前にも一度訪れている。その頃と何も変わっていないように見えた。その時の様子は『同和と在日②』に書いている。 昭和初期の戸数は50。生活程度は悪くなく、明治21年の調査記 […]

学術・研究:部落探訪(250) 大阪府 大東市 北条3丁目“東之町”

前回は大東市野崎を訪れたが、当然北条も訪れねばなるまい。戦前の記録では333戸とされているが、1958年の記録には200戸とある。しかし、この地は一貫して都市化していることから、戸数が減ることはあり得ない。戦後間もない頃 […]

学術・研究:部落探訪(249) 大阪府 大東市 野崎1丁目

今回は大東市にやってきた。ここには2つの部落があり、いずれも元は農村にあった。そして、その後都市化して今に至っている。 野崎は戦前の記録では138戸と既にそれなりの戸数であった。過去の航空写真では比較的家が密集しており、 […]

学術・研究:部落探訪(248) 大阪府 守口市 金田町1丁目

大阪にも、それなりの数の未指定地区がある。今回はその1つである。事前に地図等で調べてみたところでは、確かに部落が存在していたとは考えられるものの、そこに何か痕跡があることはあまり期待できなさそうであった。 かつての部落名 […]

学術・研究:部落探訪(247) 大阪府 富田林市 若松1丁目

ここはかつては「南新堂」と言い、戦前には268戸の部落だったとされている。さらに昔は「富田」と言い、応仁の乱の落人の7戸から始まったとされる。 この場所を探訪しようと思ったのは、地元研究者からリクエストがあったからだ。し […]

学術・研究:部落探訪(246) 大阪府 箕面市 萱野1,2丁目“北芝”

今回の部落探訪は箕面市萱野である。最近はNHKのバリバラで紹介されたが、大阪の衛星都市の部落では珍しく「北芝」という旧村名が全面に出されることが多い。戦前の記録ではここは芝村の一部であり、戸数は54戸あったとされる。 「 […]