地元研究者からお誘いがあったので、今回から茨城県古河市を探訪する。最初に訪れたのは水海という場所。その名の通り、この辺りは沼や池だったようである。1935年の時点で戸数は3、主な産業は農業、そして白山台という小字。手がかりはこの程度だ。
しかし、その場所は意外にも簡単に特定することが出来た。
まず、日本板硝子ウィンテック関東支店の住所が「水海白山台」となっている。
国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスで1947年の航空写真を見ると、上記の会社の場所は田畑が広がっているだけなのだが、その近くに3軒の家が並んでいるのをはっきりと確認できる。
そして、現在のその場所をマッポン!で確認すると、当時の家が2軒残っており、いずれも名字は静井である。
実際に、現地を訪れてみた。セブンイレブンがあるこの交差点の近くのはずだ。
ビニルハウスの向こうに生け垣があるが、そこが古くからの家。1947年の航空写真では左隣にも家があるのだが、そこには新しい家や集合住宅が建っている。
この立派な生け垣を見て、これは古くからの家だと確信した。北関東の曲輪クエストでは、同様の生け垣を度々目にした。後で聞いてみたところでは、関東平野は強風が吹くので、風よけのためのものなのだそうだ。部落に特有というよりは、これが古くからの農家で、しかも周囲に家がなかった証拠だ。
今も残る2軒はどちらかというと豪邸で、過去の航空写真を見ても敷地は広かったし、日本板硝子ウィンテック関東支店の辺りまで同じ小字ということは、それなりに土地を持っていたと考えられる。過去の記録に生活程度「中」とあるとおり少なくとも困窮していなかったどころか、むしろ豊かだったのではないだろうか。
近くに墓地がある。宗派は明らかに時宗である。名字の読みは「しずかい」。伝承によれば、もとはもっと川に近い場所に家があり、源義経の妾である静御前を一晩かくまった、あるいは沼地を渡したことから、静の文字を与えられたというのである。
本当であれば、「静井」という名字の発祥地であり、しかも平安時代からの歴史ある部落ということになる。
今は本家と分家が1軒ずつの2軒ということだ。本当はもう1軒あったが、過去の航空写真から推定すると1980年前後に土地を売って出ていったようだ。
少し離れたところに、静御前ゆかりのものがあるというので行ってみた。
土地改良事業の石碑の隣に…
静乃椿という椿の木がある。
この柳も静御前ゆかりのものだそうだ。
おそらく、ここから静井の名字が発祥し、現在は栃木県小山市の部落に数多く見られる静井は、ここから分かれていったもののようである。
無論ここは未指定地区である。なぜ、ここが部落とされたのかは不明である。
私が子どもの頃は「部落」という言葉は「集落」くらいの意味で覚えました。
「差別」とセットで「部落」という言葉の違う意味を覚えたように思います。
「差別利権があるから忘れられては困るのでいつまでも蒸し返す」という意見があり、同意します。
利根川の対岸の栗橋も静御前の伝承地で、かつては北葛飾郡静村といっておりました。
墓が栗橋駅前にあります。
ところで、小山にも行かれるのでしょうか? 北関東にしてはなかなかディープです。
特に思川沿いと、小山駅の東側。
小山には一度行っております。こちらの記事をどうぞ。
https://jigensha.info/2017/10/11/buraku-43/
ときどき訪問して、勉強させていただいております。
以下はスレタイと関係ない話題ですが、失礼します。
マーケティング専門家の立場で政府のコロナ対策を検証批判している方が、「大阪で感染者が多い理由は、生活保護を受けている大阪の高齢者は、東京と比較して、若者並みに外で飲食しているからだ」という仮説を指摘していて、具体的には、
「はっきりいうと大阪府が公表できないとサイトに書いている「被差別地域」に感染者が集中していて、70代の高齢者が下の世代と全く変わらなく出歩いているからだとデータから推測してます」
と書いています。
https://www.landerblue.co.jp/54181/
この記事の元となっている分析は、以下の2本です。
https://www.landerblue.co.jp/53989/
https://www.landerblue.co.jp/54103/
鳥取ループさんのご関心の範疇ではなさそうな気がしていますが、もしご関心がありましたら、独自の切り口でいつかコメントをお聞かせいただければと思っております。スレ汚しになっておりましたら、ごめんなさい。
3軒目と思われるお宅がまだありますよね。
S井姓ではなくM姓ですが。おそらく元の敷地は
売り払って、田んぼだったところに現居は建てて。
この場所の利根川の対岸を上流に向かい、JR鉄橋の手前に静御前の墓があります。