この部落は1935年の記録では265戸、商業農業日雇いが主で、生活程度は悪かったとされている。さらに昔は杉本新田という地名であった。
その名の通り、新田開発が行われた。その時、関西各地の賤民が集められたと言われている。
この大阪市住吉スポーツセンターの駐車場から探訪を始める。30分無料、その後1時間100円なのでお得である。障害者なら2時間無料だ。
このスポーツセンターは部落の北側にあり、この辺りは地下鉄の車庫だった。そして、その西側には大阪市立大学がある。
今は浅香中央公園になっている場所も地下鉄の車庫だった。
そして部落の南側には大和川がある。つまり、部落は大学と車庫と川に囲まれ、周囲から断絶されたような立地だった。
しかし、それはあんまりだということで車庫を撤去するように求める運動が地元から起こり、1990年頃に地下鉄車庫が撤去された。そうして出来た広大な空き地は、講演とスポーツセンターと市立我孫子南中学校になり、一部は民間に売却された。
部落は浅香1丁目と2丁目の南側、大和川沿いで東西に細長い範囲である。その場所は、他の大阪市内の同和地区と同じように改良住宅団地が立ち並んでいる。
そして、ここが墓地。名字は様々だが、朝田、住田、住吉といった名字が気になる。京都の部落で見られる名字があることから、関西の部落から人が集められたというのは本当かもしれない。そして、住吉区内の他の部落とも交流があったのだろう。
掲示物はこれといって同和だの部落だのを主張してはいない。
老人や障害者向けの福祉施設が目立っているのは大阪市内の他の同和地区と共通している。
紅白の垂れ幕があって、何やら祭りの雰囲気が。何かと思えば民間の住宅の売出し中であった。ここは同和対策の公衆浴場の跡地だ。
ここには青少年会館があった。
これは青少年会館の運動場だろう。
解放会館があった場所は既に住宅地になっている。
さらに分譲される住宅地。
やはり、あの工務店だった。同企連には加入していないが、大阪で最も部落解放に貢献している企業ではないだろうか。多くの企業が見習うべきである。
大和川の付け替えにより多くの新田が開発されました。
旧大和川流域の村は旧河川の川床。新大和川流域の村は付け替えによって
潰れた田畑の代わりに、代替地を開発したそうです。
新田開発には、村が請け負ったり、町人が請け負ったり、代官が請け負ったり
様々な形がありますが、富田新田や杉本新田だけなぜ賤民で形成され、被差別部落となったのか
不思議ですね。(ちなみに富田新田は旧西除川の川床を開発した村なので、本来かなり細長い村でしたが、矢田の部落の範囲は拡大してますね。)
杉本新田は、地域の歴史研究では宝永元年1704年頃に住吉からの分村ということになっているらしいので、それを裏付ける資料が何処かにあるのだと思います。
富田新田については、道祖本村、富田村、更池村等と共に1594年(文禄3年)の検地帳にて、「かわた」の肩書きを持った登録人が記載されていることで、皮多村との評価にになっているのだと思われます。