1928年の記録では、現在の村上市貝附に21戸の部落があったとされる。それ以外に特に記録はないが、せっかく近くを通りがかったので訪れることにした。
この地域の名所らしいものと言えば、「貝附地区の桜」というのがグーグルマップにある。無論、訪れた時は桜の季節ではないので青々としていた。
例によって墓地を訪れたが、やはり他の新潟県内の部落と同じく、様々な宗派が混じっている。部落の寺というものはない。
ごく普通の自治会館と掲示板。ここが同和地区指定されたとは考えられない。
しかし、部落内の道は広く、きれいに整備されており、古くからの村であるとはとても思えない。
国道から一段上の高台にあり、意図的に入らないと通らない場所であるし、歩きながら撮影するのはとても気まずかった。
特に見どころはないと思って部落を後にしたのだが、そこでふと思い出したことがあった。町田市 下小山田町の部落のことである。そこは高度経済成長期に開発のために移転した部落なのだが、貝附もそれと同じような雰囲気があった。ということは、貝附も移転した部落なのではないかと考えられることだ。
そこで目をつけたのは、さきほどの場所からすこし東に行ったこの場所である。
戦後間もない頃の航空写真では十何軒かの家が建っており、あとでその場所に線路と道路が作られている。今は線路のこの場所に集落があった。
今は跡形もないこの場所だが、かつてはここに集落があった。それが貝附であり、道路と鉄道建設のために先程の場所に移転したのでは? そう考えた。
旧道らしきものがあるので、ここを車で進んでみた。
今は竹やぶになっているこの場所にも、昔の航空写真では家があったはず。
ここに神社があったらしい。
今でも、その参道らしきものが残っている。そして、これがここに部落があった唯一の痕跡のようだ。
さらに進むと、まさにポツンと一軒家が。あとで聞いたところによれば、ここに住んでいるわけではなくて、趣味で建てた別荘のようなものらしい。
さらに進むと軽トラに載った住民に出くわしたので聞いてみると、この辺りには「上貝附」「下貝附」「花立」という村があり、東京オリンピックの直後の頃に大水害で被害を受け、集落ごと移転したという。やはり、さきほどの場所は移転後の集落だったのだ。ちなみに戸数から検証したところでは、「上貝附」 が部落であった。
日が陰ってきたので、新潟県を後にする途中、このようなものを見つけた。「語り継げ!羽越水害 子に孫に」。貝附はまさに羽越水害で荒川の氾濫により壊滅した部落だった。1967年のことである。