学術・研究:部落探訪 (129)大阪府藤井寺市林4~6丁目

アバター By 鳥取ループ

ご存知の通り、百舌鳥・古市古墳群が世界遺産登録される見通しとなった。そこで、今回は古市古墳群がある藤井寺氏を探訪することにした。

この地域で興味深いのは、古墳の周囲に多数の部落があり、しかもそれらがどうも同和地区指定されていないらしいという点である。

※大変詳しい方からコメントがありました。藤井寺市林4~6丁目は部落であることを示す近世の文書は見当たらず、仮に部落であるとすれば近代以降に形成されたことになります。歴史的な意味では現在の道明寺1丁目の旧小林村が夙村であったとの記録があるのみで、藤井寺市内で他に近世以前に形成された部落は存在しない可能性が高いです。

向こうに見える林が允恭いんぎょう天皇陵古墳。堀で囲まれているが、堀の中には水がほとんどなく、侵入できそうだが、ここは宮内庁の土地で立入禁止になっているので入ってはいけない。

この古墳の周囲に大井、北條、船橋、国府こう、道明寺、林、澤田、古室の部落がある。1935年の記録では国府、船橋、北條、古室は100世帯に満たないが、他は100~250世帯もある比較的大きな部落である。

職業、生活程度は全て共通しており、いずれも農業商業工業、その他雑業、つまりはいろいろな仕事をしており、中程度の生活だった。

不思議なのは、戦後の記録、「大阪の同和事業と解放運動」等に出てくる部落は「林」だけで、他の部落についての記録は途絶えてしまっている。

とりあえず、林へと向かう。天皇陵の周辺はすっかり都市化して住宅地になっているが、あちこちに農村の形跡が残っており、田畑の中に島のように村落があったことが分かる。

ここは西本願寺の善正寺。現在の住所表記では林6丁目だが、明治時代の地図ではここは「瀬ヶ井」という別の村になっている。1935年の記録にはこの地名は出てこない。

細い道や袋小路がある。

しかし、貧しい地域といった感じではない。まさに中程度の農村だったことを思わせる風景で、古くからの農家と思われる家はどちらかと言えば豪邸が多い。

もう1つ寺が見えてきた。

こちらは尊光寺。浄土真宗興正派で、荒本の一般地区にある寺と同じ宗派だ。

部落にはこの寺の檀家が多い一方で、創価学会も非常に多いそうだ。

ここで生まれ育ったという年配の住民に聞いてみた。部落について聞いてみると、最初は知らないと言っていたが、そのうち「林の4,5,6丁目が部落と言われていた」と小さな声で教えてくれた。同和事業は行われず、解放同盟も活動していないのだが、昔は解放同盟が活動していたそうだ。当然、同和施設はなく、部落ということを今さら言う人は若い世代の人ではまずいないということだ。

また、林以外の大井、北條等については、部落ということは全く聞いたことがないという。

住民によれば古墳と部落との関係は不明。

ただ、やはりこの辺りの部落は古墳と関係があって、天皇陵の墓守をしていたしゅく村ではないかという説がある。しかし、近畿地方には戦前も戦後も部落とも同和地区ともされていない夙村が多数あり、なぜ藤井寺市だけ多数の夙村が部落として記録され、林だけ解放同盟系の資料に掲載されたのかは不明だ。

こちらは伴林氏ともはやしのうじ神社。

部落に限らず、林地域の住民がここの氏子となっている。そういった意味では宗教的に融和していると言えるだろう。

新しい家や集合住宅も見られる。

ここは普通の自治会館で、同和施設ではない。

同和地区指定されれば、狭い道は整備されたのかも知れないが、このように言われなければ部落と分からない状態になっているのを見ると、この地域は同和事業をやらなくてむしろ良かったのだろう。

学術・研究:部落探訪 (129)大阪府藤井寺市林4~6丁目」への67件のフィードバック

    1. アバター鳥取ループ 投稿作成者

      ご指摘ありがとうございます。地名の読みは難しいので、事前調査の重要性を感じています。

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  1. アバター和泉守

    藤井寺でどうしてこんなにたくさんあるのか?ずっと謎だったのですが、やっと謎が解けました。いつも丁寧な取材ありがとうございます

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  2. アバター放浪流民

    林(瀬ヶ井)以外にも部落が存在したとは、今からでは想像つきませんね。
    道明寺の小林なんかは噂を聞いたことがありますが……

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    1. アバター中世史愛好家

      夙村に関する文書 『家系之来由』 明和三年(1766年)二月
      河内国志紀郡沢田村之内小林村・・・ ということで「夙」だったそうです。

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  3. アバター音野

    生まれが南河内の人間ですが、林が同和地区だったというのは、知っているという地元の中高年の人は多いですね。ただ、『全国部落調査』に記載されている北條や大井が被差別部落であったと言う人はいません。古文書や藤井寺市史を見てもそういった記述が見当たらないので、北條や大井、国府は被差別部落ではなく、『全国部落調査』の記述が誤っていると考えられます。
    林地区の近隣には、小林と呼ばれた夙村がありました。沢田八幡付近がそうであったのではないかと考えています。
    大阪の同和地区って稀に未指定部落が隣接しているケースがありますよね。
    林地区に関してですが、皮革などを扱っていたわけではないようですね。隠坊や墓守やなどの非農耕民が住んでいて、近世に入り周りの農村と変わりがなくなってきたが、賤視からは脱却できなかったのではないでしょうかね。

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    1. アバターA

      逆に『全国部落調査』に記載されていない部落は大阪府内だとどこでしょうか?

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      1. アバター音野

        ぱっと思いつく限り、下瓦屋ですかね。
        鶴原は『全国部落調査』に記載ありますが。
        あと桜ヶ丘ですかね。『全国部落調査』に付近の新稲が記載されてますが、、、

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    2. アバター鳥取ループ 投稿作成者

      明治期の地図では、土師ノ里駅の辺りに「小林」とあります。
      あと、4,5,6丁目の場所を明治期の地図と見比べたところでは、本来の「林」は部落ではないように思います。実は明治期にあった「瀬ヶ井」という村が部落で、地名の表記の上では林と一緒になったと考えられます。
      瀬ヶ井が穢多あるいは非人の村だったという記録はあるのでしょうか。

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      1. アバター音野

        たしかに明治期の地図では、小林は道明寺天満宮の近辺にありますね。
        明治期の地図を見ると瀬ヶ井村が、現在の林4~6丁目付近に見られますね。
        昭和になると瀬ヶ井は林東と名前を変え、現在の林1~3丁目辺りは林西と地名の表記が変更されます。
        瀬ヶ井村は林村の枝郷であったのでしょうか。
        瀬ヶ井が被差別地域であったという記録は探してみます。

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      2. アバター中世史愛好家

        全部で4点ありましたが、とりあえず1点を。
        『大阪の部落史通信43号』(2009年1月)
        「西郡村関係文書から見えるもの-その特異性と普遍性について-」森田康夫 より

        ・・・かわた村でも西郡と斃牛馬の草場を分ける植松村東八尾座の場合でも、看坊
        を送る林村善正寺か自村内の安楽寺が旦那寺であって・・・

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        1. アバター中世史愛好家

          2点目は、『信太山地域の歴史と生活』283頁
          表27「村外出身の女房の出身地」より

          和泉国南王子村(かわた村)に嫁いだ女性の出身地として、「河内国
          志紀郡瀬ヶ井村2名」とのこと。

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          1. アバター中世史愛好家

            3点目は、「近世浅眠身分の重層構造について
            -河内国を中心に-」9頁 森田康夫より

            さて近世宿村はえた村ほどその数は多くなく、河内国では
            各郡域に1ヶ所程度であった。しかも1村落内に併存していた
            植松村を典型に、宿村の隣接地にえた村が併存するという併存
            関係こそ近世浅眠構造の原点でもあった。志紀郡沢田村之内
            小林の宿に対して林村の被差別部落・・・

          2. アバター鳥取ループ 投稿作成者

            ありがとうございます。とすると、藤井寺市については、小林が夙、林の一部(瀬ヶ井)が穢多、全国部落調査に記載された他の部落については根拠不明ということになるんでしょう。

          3. アバター中世史愛好家

            ※先述の3点目は、×浅眠・○賤民です。

            4点目は、『大阪の部落史通信11号』(1997年9月)
            「近世河内国における和膠生産の広がり-柴屋文書
            より(その2)」森田康夫 より

            皮屑の取引関係村々として、富田林村、更池村、新田
            村、池田村、瀬ヶ井村、平野村、西郡村、今津村・・・

  4. アバター萬野

    80年代前半に土師ノ里に住んでました。
    林は入り組んだ狭い道で「部落かな」という印象でした。
    私は国府2丁目の近鉄沿いでしたが、周辺に部落らしいところはあ
    りませんでした。大和川と石川の合流点が近く、水が出やすい宅地
    としては良くない環境です。
    向野や更池、若松町、矢田など先鋭的な解同の支部が暴れてた時代
    ですが、藤井寺市では表向きの同和対策事業は目に付きません。
    土師ノ里駅の北西に、マッチ箱のような古い木造の市営住宅があったの
    思い出しました。入居していた市職員が、住宅を勝手に壊し自宅を建て
    てしまい逮捕されるという事件もありました。あれが同和住宅だったの
    かなぁ

    返信
  5. アバターたろちゃん

    大阪茨木の道祖本もおもしろいですよ。
    あそこは周囲の地域でかなり軋轢があるので、地元の人間の話を聞けたら聞いてみてください。
    典型的な柄悪いから差別される例ですわ。

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    1. アバター鳥取ループ 投稿作成者

      茨木の部落は、他にも興味のあるところがあります。大阪に行く機会があれば、行ってみます。

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    1. アバター鳥取ループ 投稿作成者

      取石は興味深い場所です。「沼守」という名字が顕著で、これは全国でもまず高石市取石でしか見られません。

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  6. アバター和泉守

    取石は静かなな住宅街で、私も住みたい地域でもあります。
    お買い物等も便利で凄く生活しやすい場所だと思いますよ。
    近隣で生活していますが、沼守さんは知りあいにはいなくて…取石に限定なんでしょうね。
    是非に一度来てみてくださいね。

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  7. アバター

    関西の夙村をやったらキリが無い
    中国地方の神社の宮番と同じ
    鳥取ループはアホ

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  8. アバター元藤井寺市史執筆者 

    私は,『藤井寺市史』第二巻,通史編二近世の執筆に携わった,元同市史の編纂専門委員です。そのため,現在藤井寺市域に含まれる各村に大量に残されていた近世文書を,約10年間くらい,原史料で直接読む機会に恵まれました。少なくとも,江戸時代の第一次的村方文書で被差別部落と明記されていたのは,沢田村の枝郷,字小林の「沢田村之内 夙村」だけでした。『藤井寺市史』第二巻に,江戸時代の沢田村の絵図の写真と,それをもとに作図された土地利用図が掲載されていますが,沢田村の村域の東端に,円状の堀で囲まれた空白の部分があります。この周囲と堀で隔絶された内部が「沢田村之内 夙村」で,原絵図にはズバリそのように明記されています。しかし,藤井寺市の方針で,同市史では,いわゆる差別用語はすべて消去されました。その理由は,隣接する河内松原や羽曳野などとくらべて,実は藤井寺市域には,被差別部落が圧倒的に少なかったからです。これが真実です。沢田村以外の村の原文書中で,被差別部落があったことが記されている史料に,私は出会ったことがありませんし,編纂会議においても,問題になったのは,上記の「沢田村之内 夙村」だけです。もし,沢田以外に被差別部落が存在したとすると,それは近代以降に形成されたものと考えざるをえません。

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  9. アバター元藤井寺市史編纂委員

    先日の『藤井寺市史』元執筆者です。補足します。江戸時代の沢田村については,幕末期の宗門改帳が多数残されていました。私たち編纂委員は,これらを綿密に調査しました。その結果,興味深い事実が判明しました。それは,江戸時代の沢田村の「本村」の住民は,1件だけを例外として,他の家々は,沢田にある真宗西本願寺派の極楽寺の檀家でした。そして,例外の1件桜井家は,江戸時代の初めから代々庄屋(名主と表記された史料もある,上州沼田藩の飛び地であったためでしょう)を務め,沢田名産であったブドウの生産を独占的に経営していた,沢田村の草分け的な家でしたが,この桜井家と,沢田村「枝郷」の「沢田村之内夙村」の住民全戸は,夙村内に真宗西本願寺派宗德寺があるのにも関わらず,八尾の「八尾御坊」(代々東本願寺門跡の連枝が住職を務めた格式の高い寺院)大信寺の檀家だったのです。この,沢田村本村の庄屋桜井家と「沢田村之内夙村」の全戸が,なぜ一般の沢田村住民と檀那寺が違うのか,この問題は,私たち編纂委員でも解明できませんでした。「沢田村之内夙村」の位置は,現藤井寺市国府の允恭天皇陵と,現藤井寺市沢田の仲津山古墳の丁度中間点辺りで,近鉄土師ノ里駅から南へ数百メートルのあたりです。住宅化が進む前の国土地理院の地形図や航空写真ではズバリわかります。また,現在の住宅地図でも,「沢田村之内夙村」を取り囲んでいた堀の跡がはっきりと読み取れます。江戸時代には沢田村の村内でしたが,現在の住所表記では,藤井寺市道明寺になります。また,林村は,沢田村とは北側で隣接しています。以上のように,かつての「沢田村之内夙村」が,周辺各村との境界に近いことから,現藤井寺市域に被差別部落がいくつか存在したという誤った情報が拡散されているものと,私は考えております。再度付け加えますが,私が同市史の編纂委員として,約10年間,毎月大阪に通って江戸時代の膨大な各村の文書を見た中で,林村に差別を受けているような住民が存在したことが記されている第一次的文書には,全く出会ったことがありません。明治以降,「沢田村之内夙村」が,旧林村の村域に存在したと誤記されたのではないかと思います。または明治以降,藤井寺市と隣接し,被差別部落が極めて多かった河内松原や羽曳野あたりから,差別を受けていた人々が,林村に移住して一集落を形成した可能性もあるかもしれませんが,ともかく江戸時代の林村村内に被差別部落が存在したという説は,九分九厘誤りと断言できます。「沢田村之内夙村」の住民は,ほとんど農業で生計を立てていましたが,「船頭」をしている家が存在していたことが記録された原史料が存在します。また,明治初年につけられた苗字で,現藤井寺市域に含まれる他の村にはない「沢田村之内夙村」の特徴的な姓は「辻本」さんです。私の印象では,私が同市史の執筆をしていた約20年ほど前の時点で,藤井寺市内では,差別問題はありませんでした。そのため,河内松原や羽曳野等の市史とは異なり,『藤井寺市史』では差別用語はすべて消去して,存在しなかったものとしてしまったわけです。最後に,私は当然ながら差別を容認するような立場のものではありませんが,誤った史実が拡散されていくことを危惧しています。私は現在,愛知県東部の三河地方に住んでいますが,愛知県内の被差別部落や被差別民についても,全くデタラメな歴史が孫引きされ,誤った史実が拡散されております。藤井寺市周辺の方が,正しい歴史研究をしていただけるように,元『藤井寺市史』の編纂委員である私は,あえて知っている事柄について投稿させていただきました。

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    1. アバターA

      「辻本」さんということは橿原市の洞部落との関連が考えられますね。洞も墓守の部落ですから。

      本田豊によると愛知県下では津島神社が多くみうけられるとのことですが、「全国部落調査」や「愛知県下地方改善事業地区調査」を見る限り、津島神社との関連が裏付けられません。本田説は誤りなのでしょうか。

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    2. アバター鳥取ループ 投稿作成者

      大変貴重かつ学術的なコメントをありがとうございます。
      ということは、歴史的な意味では現在の道明寺1丁目、旧小林村の夙が、藤井寺市の唯一の部落ということですね。加筆しておきます。
      愛知県東部の部落もぜひ探訪いたしたいと思います。

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      1. アバター元藤井寺市史執筆者

        愛知県東部三河地方には,西部尾張地方の甚目寺・津島のような大規模なところはほとんど残っていません。知立市・豊川市(旧小坂井町)が比較的大きいですね。ネットの掲示板などの書きこみを見ますと,典拠もあやしいおかしな情報がほとんどです。一番肝心なことをほとんどの方が理解していません。それは,旧三河国には,江戸時代,天領をはじめ,20家ちかい大名家の本領・飛び地,80家以上の旗本家の本領・飛び地,それに家康公や三河武士たちの出身地であることから寺社領がたいへん多く存在しました。これらのおそらく数百にのぼる個々の領地は,小規模とはいえ独立した政治組織でした。だから,例えば,大きな旗本家の場合,陣屋を置き,そのそばに牢を設置し,「番太」と呼ばれた被差別民が1~数家あるという事例が,第一次的史料から数多く確認できます。また,新城市には,「陰陽師」が居住する村がありましたが(いわゆる指定地区です),この村の宗門改帳を調査すると,「本村」と陰陽師が居住する「山屋敷」は別帳として差別されており,また陰陽師たちの通婚関係は,前述の小坂井などの部落民にほぼ限定されています。つまり,江戸時代の三河国では,被差別身分の人々は分散して各地に居住しているものの,通婚関係などで横のつながりを持っていたというのが実態のようです。だから大規模な部落はなく,明治以降消滅していったのだと推測しています。実際,私も,同和教育なんて全く受けたことがありませんし,日常の生活でも,部落差別など全くないに等しいです。ちなみに,私は,江戸時代の武家の研究者であり,被差別部落史については全くの門外漢ですが,当然古文書が読めるので,第一次史料に基づいた部落史も,ある程度語ることができるわけです。

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  10. アバター

    ぜひ愛知県の記事にも書いてください。
    山屋敷や新屋敷は非人で陰陽師ではないですよ。

    返信
    1. アバター元藤井寺市史執筆者

      私のコメントをよく読んでくださいね。私は,確かに部落史の専門家ではありませんが,江戸時代の第一次的・同時代史料である「宗門改帳」を実際に読んで,書いているのですよ。歴史を研究する上では,第一次的史料に書かれている事柄は,そのまま受け止めなければなりません。
      あなたは,その知識を,何から得ましたか?。第一次的史料にそう書いてあるのを,ご自分の目で見て,コメントされているのでしょうか?。もし,あなたが,部落史の専門家の著書等からその知識を得たとすると,それは「二次的資料」から得た知識ということですよ。なぜなら,その著者の「主観」が間に挟まれているからです。さらに,その著者の方が,自治体史や他者の先行研究から注を引用しているのであれば,その著書は,もはや三次的・四次的・・・資料であり,私たちのように専門的に近世史・江戸時代史を研究している者は,重要視しませんし,取り上げもしません。
      ちなみに,第二次的・三次的研究書ではありますが,部落史の古典的著作といえる髙柳金芳氏の『江戸時代 部落民の生活』の巻頭図版には,『江都官鑰秘鑑』の「浅草弾左衛門由緒」が写真で紹介されていますね。おそらくご存じだとは思いますが,その第一次的史料では,陰陽師と非人は,他の被差別民とともに,おなじカテゴリーの中に隣り合って記録されています。前述のように,私は部落史については門外漢ですから,髙柳氏の同書が,現在,部落史研究家の間でどのような位置づけがなされているのかは存じませんが,「浅草弾左衛門由緒」で陰陽師と非人が同列で記録されているという第一次的史料を無視することはできません。
      以下は,あくまで,私のこれまでの江戸時代史研究の中で持ち続けている問題意識ですが,たとえば穢多と非人を全く別物のように区別して考察する歴史観は,ナンセンスだと思います。江戸時代に穢多だったお宅のご子孫のお宅に江戸時代の同時代史料が現在まで残されているということはまずないでしょうし,非人とされていたお宅のご子孫の場合でも同様でしょう。つまり,第一次的史料が存在しない研究対象を研究するのは,想像や推測ばかりの研究に終わらざるを得ないからです。
      ただ,私が旧三河国内に残された第一次的史料から断言できるのは,穢多も番太も陰陽師も非人も,それ以外の被差別民も,区別なく通婚関係を結んでいたことです。「宗門改帳」という第一次的史料に,そのように明記されているからです。
      私は,興味本位ではなく,あくまで学術的に,江戸時代の武家について研究している者です。その点,ご了承ください。

      返信
    1. アバター元藤井で市史執筆者

      私のコメントが「新説」であるならば,部落史・被差別民史は,たくさんの先行研究があるように見えて,その実第一次的文書に基づくしつかりとした研究がほとんどないということになりますね。あるいは,偏った歴史観をもつ研究者によって研究されてきたことの何よりの証拠です。私は,四半世紀の江戸時代史研究の中で,全く専門外の分野でありながら,第一次的史料から知ることのできたことを,そのままコメントしただけですからね。
      白山神社や津島神社と被差別民との関係を研究されている方がいることは存じております。しかし,私の知る限りでは,これもナンセンスな研究視点です。たしかに,名古屋城下町東端の王子村(現中区新栄)の指定部落には,江戸時代から白山神社がまつられていたことは,第一次的史料である城下町絵図などから確認できます。被差別民が白山神社信仰を持っていたことは明らかでしょう。しかし,白山神社も津島神社も,私の住んでいる市および周辺を見渡しても,部落や部落民とは全く関係のなかった村むらに白山・津島神社が祀られているケースのほうが圧倒的に多いのです。しかも,岡崎城下町では,旧武家屋敷地区に白山神社が祀られていますし,大岡越前守忠相の先祖の本貫地であった,現安城市大岡町には立派な白山神社があり,江戸時代には大岡家からの信仰を受けておりました。さらに,德川将軍家の菩提寺大樹寺があった門前村には,その大樹寺の総門前の目抜き通りに白山神社があります。津島神社についても,のちに東京・青山の地名の由来となる,三河以来の青山家一統の本貫地百々村には,津島神社が祀られています。つまり,白山神社や津島神社は,むしろ武士階級の信仰を集めていたという揺るぎがたい事実があります。したがって,白山神社や津島神社が存在するからその村・地区は被差別部落であったという説明は,間違いであると言えます。
      繰り返しますが,私は,江戸時代といっても,武家およびその家臣団を専門分野にしており,同じ江戸時代といえども部落史・部落民研究からは,最も遠い位置にいる者です。だから,研究史もほとんど知りませんし,論文なんて書く能力はありません。また,私は,父方先祖・母方先祖ともに全員士族という家に生まれ,育ちました。そのため,部落史・部落民研究を,偏りのない視点から描き出すことは不可能であろうと自覚しております。血です。

      返信
      1. アバターA

        ありがとうございます。2つほどご教示ください。

        1.知多市八幡に「穢多坂」という小字がありますが、旧賤民と関係しているのでしょうか?

        2.愛知県の旧賤民の居住地を示す古絵図は「本多中務大輔家時代岡崎城下図」ぐらいしか私は存じ上げませんが、他にどのような絵図があるでしょうか?

        よろしくお願いします。

        返信
        1. アバター元藤井寺市史執筆者

          1,現知多市については,第一次的史料を直接見た経験がないので,存じません。現知多市は,江戸時代には尾張德川家の領地であったわけですが,尾張藩は,地方知行制(上級・中級家臣に,俸禄として,蔵米ではなく領地を与える)を明治維新まで採用していました。加賀前田家や鹿児島島津家など,大大名家では,ほとんどそうでした。このきわめて基本的な史実も,ネットの掲示板などでは,ほとんどの方が知らないままで書きこんでいる印象を受けます。ここからは私の推測ですが,その当該の村が,尾張藩士の知行地であった場合,治安維持などのため穢多を居住させていた可能性はあるのではないでしょうか。
          2,ご指摘の岡崎城下町絵図には,「エタ」・「猿屋」などの記述がありますよね。現在でも,この該当するあたりに,皮類専門店(かばん店)があります。ほかにもいくつか残されていますよ。一般の方でも刊行書籍でみられるものとしては,『西尾市史』所収の城下町絵図,奧殿藩の奥殿陣屋絵図(「番太小屋」が明記され,「番太」一軒が描かれています)あたりでしょうか。刊行されておらず,私たちのような専門の研究者でないとみられない絵図は,私も現物をかなり見てきました。一例をあげますと,現在の豊田市に領地・陣屋があったある旗本家の領地の一つであった村の幕末の絵図が現存しますが,この村には,のちに指定地区となる部落がありました。絵図をみると,「本村」から西へ細長い道を行くと,小さい集落が描かれています。はっきりとこの集落が被差別部落であるという記述はありませんが,大正以前のお生まれの地元の方に聞くと,ここが差別を受けていた部落であったことをみなさんご存じです。現在の,豊田スタジアムのあたりになります。なお,この旗本家は,陣屋のある村に,やはり牢を設置しており,穢多一軒がありました。このお宅のご子孫は,旧宅(土地の古老は「首切り坂と呼んでいます)のすぐそばに今でも住んで見えて,今では集落内で一番の豪邸にお住まいですが,三河国では極めて珍しい苗字です。

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  11. アバターレッドブルホンダ

    何かヒートアップしてますな。
    山屋敷は非人で三河萬歳の集落ではありませんよ。
    穢多非人三河萬歳に通婚関係は無いでしょう。
    何か穢多と非人を混同している高須クリニックさんみたいですな。

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    1. アバター元藤井寺市史執筆者

      申し訳ありませんが,二行目の文章の意味がよくわかりません。私は,まだ「三河萬歳」については,何も書いていないのですが・・・。ただ,武家文書を読んでいると,「三河萬歳」についての記述に行き当たることはありますし,私は,「三河萬歳」を専業にしていた部落についても,第一次的史料から把握しております。ただ,「三河万歳」は,現在でも地元では保存会があり,また小学校の学芸会でも恒例の出し物としているところがあるため,私は「三河万歳」の歴史に関する記述や発言はひかえるようにしています。
      私のコメントをよく読んでくださいね。江戸時代の第一次的文書,現在でいえば戸籍に相当する「宗門改帳」に,穢多・非人・陰陽師などが,区別なく通婚していたことがズバリ明記されているのですよ。三河国では,新城市には指定地区をかかえていた村の「宗門改帳」が比較的多く残されており,私はそれらを直接見た経験からコメントしています。あなたは専門の研究者ではないようにお見受けしますが,新城市の「宗門改帳」を調査するだけでも,あなたのコメントが誤りであることが明確になります。ただ,現在では,専門の研究者以外では,原史料の閲覧は許可されないかと思います。
      なお,高須先生のコメントがありましたが,高須先生のご認識のほうが,私は正しいと思います。高須先生のご先祖は,三河国幡豆郡(現在は西尾市)で,江戸時代より代々続く医家で,郷士でした(第一次的史料が現存します)。幡豆郡も,西尾藩の領地は二万石ほどで,あとは天領・大名家,旗本家領,寺社領が入り乱れておりました。私も,幡豆郡のある旗本家の陣屋詰家臣の日記の調査をした経験がありますが,やはり,陣屋のそばに牢があり,被差別身分のものが置かれていたと明記されています。穢多・非人などが各村に点在していたものと見てよいでしょう。高須先生のご世代ですと,ご両親や,祖父母から,直接被差別民のことを伝え聞いておられたのではないでしょうか?。その際,穢多も非人も別段区別なく伝え聞いておられたのではないでしょうか。「一般」の身分の人々が,明治以降,穢多も非人も区別なく伝承していたことのほうが,むしろ重要ではないかと,私はとらえています。

      私は,『藤井寺市史』をはじめとする著書もあり,現在でもいくつかの『研究紀要』に毎年武家関係の論考を投稿している,一応専門の研究者です。ここでコメントを書こうと思ったきっかけは,たまたまユーチューブで,鳥取ループさんが,徹底したフィールドワークによる研究手法を取られていることを知り関心を持ったことと,かつて私自身も市史の編纂に携わった藤井寺市がとりあげられていたからです。また,繰り返しますが私は部落史は専門外であり,第一次的史料から知ることのできた史実についてだけはお答えできますが,そもそも「第一次的史料」という言葉の意味すらわからない興味本位で部落史を調べている方への質問には,解答不可能です。ご了承ください。

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  12. アバターツシマジンジャ・ホンダ

    書く度に信憑性が無くなるからやめなさい
    新城市や豊田市に指定地区はない
    あんた5ch人権板を荒らしていた解同側の奴だな
    豊田スタジアムで判った

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  13. アバターわん

    愛知県に関してはこの人がいう二次資料に既出の絵地図文献ばかりであり新城市豊田市に指定地区はなく豊田スタジアムの場所に過去に穢多部落は無い
    沢田村之内夙村が怪しくなってきた

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  14. アバター

    この人
    豊田市の上野山部落が豊田スタジアムの場所に有ったと書いて論破されて逃げた人
    その後かなり二次資料を読み込んだのかなw

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    1. アバターA

      「打桐豊成=AaA=ペ」さんは独自のフィールドワークをしているようだから、鳥取ループ氏に連絡して、一緒に愛知の部落を探訪すればいい。もし可能なら元藤井寺市史執筆者氏とも合流し、リアルで討論すればいいと思う。「おまえ解同だろ」といった、部落研究とは関係ない当てずっぽうには意味がないから。

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  15. アバター元藤井寺市史執筆者

    掲示板はともかく,ここもこのレベルの人たちが読者なんですね。私は,江戸時代の武家の研究の中で偶然知ることのできた,部落史に関する第一次的史料をヒントとして提示することで,真面目に研究しようとしている人が部落史を大成されることを期待しているだけなんですけどね。私は,自分の武家にかんする研究だけで手いっぱいですからね。
    ちなみに,私がコメントであげた第一次的史料の所蔵先だけはお伝えしておきます。史料を見せてもらえるのかどうかは,皆様の現在の社会的地位によるかと思いますが。
    〇「沢田村之内 夙村」と明記された村絵図(延宝5年,1677)→市史編纂室解散後,藤井寺市沢田,元沢田村庄屋・沼田藩藩士格,松村様方に返却されています。沢田で一番の豪邸なので,すぐわかります。前述のとおり,『藤井寺市史』第二巻にも写真(386-387ページ)および土地利用図(392-393ページ)が掲載されております。「沢田村之内 夙村」の文字は,きれいに消去されていますが,夙村が円状の堀で囲まれていたことははっきりとわかります。なお,同市史第十巻(村絵図・地図集)も参考になるかと思います。

    〇豊田市旧上野山村絵図→豊田市足助町,宇野樣方所蔵。

    〇新城市「宗門改帳」→昭和47年の時点で261冊現存,各村および各村個人所有。その一部が『新城市誌資料XI 宗門人別改帳集成』(新城市教育委員会編)に所収されています。

    では,江戸時代史の解明のためには,やはり避けては通れない正しい部落史を大成してくださる方が登場するのを期待しております。

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    1. アバター鳥取ループ 投稿作成者

      部落研究者にはなぜか精神を病んでいる人が多くおりまして、このコメント欄にも異常な方が時々現れるので、気にしなくてもよいです。

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  16. アバター

    たしか豊田スタジアムの場所は旧上野山村ではないと判明し君は逃亡したんだよね
    彼女云々ブログは読んでいないが失恋は大変だね

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  17. アバター元藤井寺市史執筆者

    鳥取ループ樣の徹底したフィールドワークは,第一次的史料が少ない部落史研究には,重要な研究手法といえます。今後も,各地の研究成果をアップしてください。
    私も,藤井寺市史の調査をしていたころには,車で藤井寺市まで自転車を持ち込んで,自転車で藤井寺市旧全村のフィールドワークも実行しました。江戸時代の河内国大和川周辺の村むらは,当時の日本国内では極めて生産力の高い地域でした。持高百石クラスの百姓もゴロゴロいましたし,武家屋敷のような長屋門を構えたお宅が,あちこちにありました。

    しかし,第一次的・同時代史料である「宗門改帳」よりも,著者や他者の研究の引用という「主観」が加わっている地誌のような第二次的・第三次的資料のほうが役に立つなどというコメントを見るとガッカリしますね。歴史学研究の研究方法を全くご存じでないまま,部落史研究というきわめて難しい問題に,興味本位で取り組んでいる方が多いということですからね。おそらく,私の長文を読み取る読解力もお持ちではない方々なのでしょうね。こういう方々の書きこみにより,誤った部落史の再生産が繰り返されていくことを,私は本当に危惧しております。
    ここで写真がアップできるのであれば,上野山村の絵図の写真は今手元にありますし,沢田村の絵図のコピーも探せば出てくると思います。是非,私のコメントに疑問を持たれる方には,直接見ていただきたいですね。
    上野山村の絵図は,前述のとおり,「本村」から西側にのびた道の先(矢作川東岸)に「枝郷」というかたちで部落が描かれているのですが,今の豊田市の地図に重ね合わせると,豊田スタジアムから豊田北高校あたりにピタリと一致します。現在の当該地域の町境は江戸時代とは大きく変わっており,上野町ではなく,近年つけられた町名になっています。
    私は武家の研究者であり,また会社経営者でもありますから,部落史に関するコメントを書いてばかりはいられません。ご指摘があったように,5ちゃんねるに上野山村に関する情報を書きこんだのは私です。「逃げた」などと言っている方は,私がヒントとして紹介している新城などの第一次的史料を,ご自分の力で調査してみてください。ただし,江戸時代の文書がご自分でお読みになれない方は,そもそも部落史のような難しいテーマを研究する資格はありません。せいぜいご自分の読解力でお読みになれる部落関連の本でも読んで,ご自分の頭の中だけで,部落史の空想でもして,娯楽の範囲内にとどめ,書き込みなどはしないでくださいね。

    返信
  18. アバター元藤井寺市史執筆者

    追記
    自宅史料庫で探してみましたら,今ほど「沢田村之内 夙村」と明記された延宝年間の絵図のコピーが見つかりました。市史掲載前の,「沢田村之内 夙村」の部分が消去される前の,原図のコピーです。
    専門的かつ真剣に部落史研究をされている方で,ご覧になりたい方は,コピーを送付いたします。
    豊田市上野山絵図についても同様です。

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    1. アバター鳥取ループ 投稿作成者

      画像添付機能をコメント欄に追加しました。
      Choose Fileボタンを押してみてください。

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  19. アバター元藤井寺市史執筆者

    1,延宝5年沢田村絵図(原図,藤井寺市沢田松村家文書)のコピー
    2,同上,「沢田村之内 夙村」の部分の拡大
    3,説明図
    4,『藤井寺市史』第二巻所収の同絵図(「沢田村之内 夙村」の文字が,何の断りもなく消去されています。)
    5,上野山村絵図(豊田市宇野家文書)
    6,同上,説明図
    以上を添付したつもりですが,私は極度の機械音痴であるため,もし添付できていなければお知らせください。
    くれぐれも,正しい部落史の研究という目的にのみご利用ください。

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  20. アバター元藤井寺市史執筆者

    上手くできていないみたいですね。とりあえず,沢田村絵図(原図)をもう一度アップします。

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  21. アバター元藤井寺市史執筆者

    「沢田村之内 夙村」の拡大図。円状の堀で周囲を囲まれていたことがお分かりいただけるかと思います。私の執筆した当時(20年くらい前)は,堀の一部が残っていました。

    返信
  22. アバター

    上野山村枝郷とは君の加工以外は何処にも書いていないね
    そこの三河では珍しい姓を書いてみたら?

    返信
  23. アバター

    三河の探訪はバツイチの48歳の古物商さんと行けよ鳥取ループ
    一次資料に当たれない奴は書くなとは鳥取ループを含む殆んどに当てはまるな

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  24. アバター元藤井寺市史執筆者

    ぺ樣
    遠方でなければ,豊田市の上野町(かつての本村)の80歳くらいの古老の方に直接お話を聞かれると良いですね。おそらく,「あそこ(私が枝郷と書いたところ)のドームのところだよ。」と,教えてくれますよ。中には,「えったさん」なんて言われた古老もいました。豊田市は,トヨタの本社があるため,県外からの移住者のほうが人口が多いので,そのような方たちではなく,先祖代々上野や周辺の寺部・高橋あたりにお住まいの古老の方なら,おそらくご存じです。私は,豊田市内に領地をもっていた大名家や旗本家についてもかなり調べましたが,同じくこのあたりの歴史を調べている郷土史家の方たちの間では,上野山村の当該地区(矢作川東岸)に部落民がいたことは当たり前すぎて,話題にも上らないくらいなんですよ。今日は4時半迄は時間に余裕があるので,私でわかる範囲でしたら,質問にはお受けしますよ。
    あと,せっかくなので,「沢田村之内 夙村」についても,なにかご意見がありましたらお願いします。

    返信
  25. アバター元藤井寺市史執筆者

    ぺ樣
    質問に答え忘れましたね。ただし,私のコメントをよく読んでくださいね。三河で珍しい姓の元穢多であったお宅は,上野山村ではなく,上野山村の領主であった旗本家が,陣屋を置いていた別の村に住んでいました。前述のとおり,そのお宅のご子孫はいまでもお住まいですが,その姓は「東京の若者の街」〇〇〇の地名と同じです。わかりますよね。

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