部落差別解消推進・部落探訪(86)
兵庫県伊丹市堀池

By 鳥取ループ

伊丹と言えば空港だが、空港だけでなく部落も存在する。

部落と言っても、日本には「居住移転の自由」があり、これは旅行することの自由とも解されるので、部落を探訪するのは自由である。また、公共の場所で写真を撮ることも自由だ。世界には自由に旅行ができない国もあれば、むやみに写真を撮ると逮捕されてしまう国もあるが、日本でその点が自由であることは幸せなことであるはずだが、なぜか部落に限っては公務員によって写真撮影が咎められることがある。これこそ、根深い部落差別の実態と言えよう。

今回訪れたのは堀池という部落。1935年の記録では117世帯806人の規模であったと記録されている。生活程度は悪くなかったらしい。


大阪近辺の部落は、なぜかここが部落であるとやたら強調する物件があることが多い。堀池も例外ではない。この部落解放同盟事務所は市の人権センターと児童館の正面にある。

これが人権センターと児童館。

児童館の広場には、部落解放のための施設であることが、誰にでもよく分かるように、ふりがなを付けて大きな文字で説明してある。別に隠す必要はないが、かと言ってここまで強調する必要があるのか。

共同浴場もある。

…と、ここまで撮影したら、児童館から2人が近づいてきた。1人はIDカードをぶら下げているので市の職員らしい。最近、部落の写真をネットで載せる人がいるので、そういう目的で撮られるのは困るということであった。そこは正直に、「まあ、私がそういうことをやっている鳥取ループですが、見たところ広場にあんな看板もあるし、別に部落だということは隠していないのでは」ということを言うと「別に隠してはいない」と、どこかで聞いたような答え。

「隣保館の前に解放同盟の事務所があるし、これも誰が見ても分かりますよね?」と言うと、「行政は解放同盟と協力してやっている」という。堂々としたものだが、それでも撮影はされたくないようだ。

「児童館の駐車場に車を停められるのは困る」と言うので、「では、児童館の中を撮らせてもらえませんか?」と言ったら、断られた。

ちなみに、隣保館や児童館の中を撮影することについては、地域によって対応はまちまちだ。「中を見せてもらっていいですか?」と聞いたら「ウチは公の施設なんだから、勝手に入ってもらって構わんよ」と「解放歌」がカラオケセットと共にデカデカと掲げられている広間にすんなりと入れることもある。

仕方がないので、近くのコインパーキングに停めて撮影を続行した。

市の対応はアレだが、部落内は至って普通。廃墟や空き地が多いということもないし、ラーメン屋もある。廃車が路上に置かれていることもない。昔は周辺には田畑が広がった村で、住民も農家が多かったのだが、今は都市化が進んでいる。

広い公園がある。

都市部なのでニコイチはない。代わりに大阪近辺ではよく見られる団地があった。

大規模な墓地。墓石から、浄土真宗の信徒が多いことが分かる。

さらに住宅地を進むと寺が。西本願寺だ。

門を覗くと何かいる。

猫が留守番していた。

この部落には保育園と、葬儀場まである。まさに「ゆりかごから墓場まで」。兵庫ではあるが、大阪の部落と共通したところがある。

「せめるより 許す心と 思いやり」。全くそのとおりである。全てを許せば楽になれるのだ。

この広場にも部落であることを強調する長文が掲示されていた。

部落差別解消推進・部落探訪(86)
兵庫県伊丹市堀池
」への8件のフィードバック

  1. .

    官が民に対して単なる裁量で何かを禁じるのはおかしいでしょう。きちんとした根拠がなければなりません。

    児童館内部の撮影拒否に対して「法的な根拠は何ですか?」「それは伊丹市の公の方針ですか? ならば、その旨の公文書を作って署名捺印してください」などと粘るべきだったかもしれません。今後、この手の拒否に遭うことはどんどん増えていくでしょうから。

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    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      ゴネればよいかも知れませんが、面倒くさいので、トイレを借りるついでに適当に撮ろうかと思います。

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  2. 竹槍

    地元民です。
    堀池が部落だとは知りませんでした。
    伊丹市で部落といえば、空港近くの中村地区のことです。
    現在では、原っぱになり、刈り取られた草は奈良公園の鹿の餌となっています。
    もといた住民はJR伊丹駅横のイオンモール近くの桑津という場所の市営集合住宅に住んでいますよ。
    鍵の引渡し式の様子がニュースで取り上げられたことがあります。

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    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      あそこまであからさまに、部落とか同和とか書いてあるのに知らないとは意外でした。
      伊丹市中村は部落なんでしょうか?同和部落というよりも朝鮮部落のように見えますが。

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  3. ばばあさん

    あの児童館は、ふらっと入る、誰でもフラットに、ということで「ふらっと」という愛称が付いてます。しかし、フラットではないですね。中の講堂に『人の世にー』の文章がデカデカと掲げられ、解放の父でしたっけ、なんか有名なお二人のデカイ写真パネルが舞台の両脇に飾られてました。よくわかってない人間が入ると異様な雰囲気で驚きます。夏には解放盆踊りが開催されます。伊丹は、小学校区ごとに盆踊りが開催されるのですが、ここのだけ、なんか説明文がうだうだ付いてます。そこまで言われると、余計に意識してしまいます。

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    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      全然ふらっとじゃなかったです。職員の背後にはIDをぶら下げてない人が控えてました。
      やはり融和していないように感じました。

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  4. 毒者

    堀池を訪れたのなら殺牛殺馬祭祀についても調べてほしかった。民俗学的に興味深い話題なので。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%B1%A0_(%E4%BC%8A%E4%B8%B9%E5%B8%82)

    旧摂津国川辺郡昆陽村の一部。1648年(慶安元年)から1664年(寛文4年)の間に昆陽村から独立したとみられ、1889年(明治22年)の町村制施行に伴い川辺郡稲野村の大字堀池となった[1]。町内の中心部にある最光寺は雨乞いの行事で知られていたが、現在は祭具に使われた巻物を伝えるのみで伝統が途絶えている[2]。

    殺牛殺馬祭祀-兵庫県西宮市・高座岩-
    http://youkai.tou3.com/Entry/94/

    高座岩は武庫川中に在り。上面七、八間、高さ四、五間、略方形をなせる大岩石にして、凡一萬三千八百二十四才、獨り傑然河中に突出し天然の一奇岩なり。上面水平にして、座敷の如し。此の岩は近郷の信仰ある岩にして、旱魃にならば雨乞を執行する場所たり。其の儀式は動物の生血を塗るにあり。然らば天其の汚を厭ひ、洗い去らんが為めに雨を降らすといふ。其の血は、武庫、川辺両郡は純白色の馬の血を塗るを例とす。 有馬郡誌(1929年)

    明治十六年に大旱魃があり、雨ごいをしたのが最後だという。このときのようすをつぎにしるすことにする。日照りが続いたので各村の庄屋が寄って、雨ごいの相談をし、堀池村に頼みにきた。まず寺で香をたき、郷中の者が寄って雨を乞う。この村に博労(馬の売買をする人)がいたので、頼んで伊勢から白馬を買い求めてもらった。白馬を殺して雨を乞うのだが、かわいそうだというので血を少しだけ取ってみたが、時雨だけだった。そこで旧例に習って行事をすることになった。白馬を豊中にあった屠殺場につれて行き、血を一滴のこさず、にない桶に取り、首を挟箱に入れて持ち帰った。寺で読経が続くなかで、雨ごいの行列を組む。先頭は掛越家の次男が勤めることになっていた。彼は白の裃にぞうりをはいた死装束で馬に乗り、雨ごいの巻物一巻を持つ。若中が竹槍を持って巻物を護衛する。しかしこの巻物は偽で、本物は商人の姿に変装した豪傑二人が一足先に持って出る。次いで若中が馬の首の入った挟箱をかついで行く。若中は藍染めの浴衣を着ていた。このあとにまず、昆陽村の者が続く。あとは上の村から順に下の村が列に加わる。途中で昆陽池を左にまわってから武庫川の上流に向かう。生瀬(西宮市)のやや上手にコーライ岩とよぶ大きな石がある。一行が着くと、挟箱からまず白馬の首を出して岩に置き、白衣の者が読経する。終わると、ミソダキとよぶコーライ岩の淵に首を落とす。若中はにない桶の血を岩一面に塗りつける。本来は、白馬を引いていって、ここで白装束の者が首を淵に切り落としたという。行事が終わると、一行は来たときと同じ順序で村に帰る。途中で昆陽池により、池のまわりを右にまわる。当時はこのころから風が吹きだし、豆粒ほどの雨が降って、浴衣の藍がおちて晒のようになってしまったという。一行が帰るまで、寺では読経を続けている。その後、雨ごいはしていないが、雨を乞う神仏の名を列記した巻物二巻を伝えている。また村では毎年盆の十七日に、雨ごいで死んだ馬の施餓鬼(供養)を昆陽寺で行なっている。 伊丹市史 第6巻① 「高座岩の雨乞い」

    80~90年前のことでした。水飢きん、旱ばつが続き、雨乞いが必要になりました。近郷近在の村から頼みにきます。稲野の9ヶ村も尼崎市の塚口方面からも参加しました。西宮市の生瀬の奥、武庫川の上流に、屏風岩といって、川岸に有名な大きな岩があります。そこへ堀池村から白馬一頭をつれ、当時なお未成年であった掛越家の方が白装束で参加しました。村ではこの巻物を読むと死んでしまうという伝説があり、当人は死を覚悟して生瀬へ行ったものでした。これには堀池村に納金しなければなりません。また、生瀬までお供をするといぅことで、この当日は行列を組みました。目的地に着くと、当人が巻物を読み上げ、白馬を岩のうえで殺し、その岩を血で汚します。そうすると、天が怒り出し、今まで晴れていた空がにわかにかきくもり、けがれた岩をきれいに洗い落すために雨が降るといいます。しかも、お供をしなかった村には雨が降らないといわれていました。子供のころ、この大役を引き受けた掛越由松からよく聞きました。しかも不思議なことに、雨が降ったのは事実だったとも聞いています。当日は、村中の女の人が炊き出しをし、握り飯の弁当をこしらえます。それを男達が長持に入れ行列をし、弁当を運びました。行事が終わったあと、全員が弁当を食べることで行事は終わりました。 「伊丹被差別部落のあゆみ」②(1982年発刊)

    発刊から80~90年前との事ですので、1892~1902年(明治25~35年)。史料によると、この間、明治26年、31年、33年、34年に神戸における旱魃の観測記録がありますので、この4年の内のいずれかの年での事でしょう。こんな近代にも殺馬祭祀が行われていたとは、少し驚きです。

    高座岩の雨乞い<白馬を犠牲とした昆陽の雨乞いの発生と変遷>
    http://www.geocities.jp/yamauo1945/kouzaiwa.html

    (注2)堀池村の浄土真宗本願寺派の最光寺(さいこうじ)。最光寺の寺号公称が許されたのは明暦3年(1657)だが、道場の創立としては江戸初期以前と考えられている。本尊阿弥陀仏立像は、慶安2年(1649)に西本願寺より下付されたといわれている。

    (2)雨乞い儀礼における堀池村の役割

     資料1によれば雨乞いの主体は昆陽池と昆陽井を取り仕切る昆陽村であるが、雨乞い儀礼の主役は堀池村である。雨乞い行列の先頭は堀池村、2番手は昆陽村、3番手以降は上の村からの順とある。昆陽村の石高は江戸時代末期の状況を反映した旧高旧領取調帳(『兵庫県の地名Ⅰ』)によれば1370石で、昆陽井組の中でも突出している。一方の堀池村は、125石である。つまり、堀池村の石高は昆陽村の1/11である。これは、昆陽井組の中で最小石高の千僧村と比べても半分にも満たない。このような小村がなぜ儀礼の中心となるのか。それは、堀池村がかわた村であることにある。「かわた」は、皮革業者という意味の職業名とみるか、のちの「穢多」身分につながる被差別身分の名称とみるか意見が分かれているが、いずれにせよのちの被差別部落に関係してくることは否定しがたい。近世の被差別部落が、権力の強制によって死牛馬の処理を課せられていたことから、雨乞いにともなう殺馬の儀礼を依頼されたものと考えられる。それは押し付けでもあるが、切羽詰った願いでもあったであろう。文禄3年(1594)の「摂州川辺郡御願塚村検地帳」には「こやかわた 二郎五郎」の名があり、これが昆陽村に住んだ「かわた」の初見とされる。(『伊丹被差別部落のあゆみ』③)その後、寛文4年(1664)までに堀池村は昆陽村から独立し、天保5年(1834)の『摂津国郷帳』には堀池村皮多村の名が記載されている。資料4は昆陽の雨乞いの堀池村サイドからの貴重な記録である。また堀池村には、先祖が奈良時代の高僧行基が昆陽池を造った時にその工事に従事した人々で、「堀池」という地名もそれに由来するという伝承が残されている。

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    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      詳しい説明ありがとうございます。もちろん、歴史には興味がありますが、多くの部落を探訪するためには、「深さ」にはどうしても限界があるのが悩ましいところです。

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