今回は皆ノ川に続き、さらに『人間みな兄弟』を製作した亀井文夫監督の足跡を追った。筆者が訪れたのは串本町和深。ここは本州最南端の部落である。
1934年当時は世帯数52,人口318,1954年当時は世帯数81,人口392。そして、1960年に製作された『人間みな兄弟』では90世帯、450人が暮らすと解説されている。
ここが最寄り駅の和深駅。
訪れたのは真冬だが、本州最南端だけあって、寒くはなかった。関東に比べれば、まだ植物が青々としている。
映画に出てきた通りの風景。
対岸から駅の近くにあるトンネル方向のパノラマ画像。海が青くて気持ちいい。
駅からは階段を登った高台に部落がある。
民宿があったが、売り物件だった。
地元の議員と、和歌山らしく二階俊博自民党幹事長のポスターがある。
この道路は旧街道で、この道路の海側が部落である「前地」、山側が一般地区と考えられる。
とりあえず、部落内の様子と廃墟を撮影する。
ふと見ると、近くに木が生えた井戸が。
『人間みな兄弟』では、部落には9つの井戸があると解説されている。その1つとして、木の近くにある井戸が映し出されている。
映画と同じアングルで撮影。この井戸で間違いないだろう。なお、この井戸の向こうに見えるのは国道42号線で、部落の中の家々を立ち退かせて突っ切るように作られた。
残念ながら映画に出てきた井戸で特定できたのはこれだけだ。映画では部落には9つの井戸があり、夏の渇水時期には8つが枯れて1つだけしか使えず、子供が水汲みに駆り出されたという。
映画にはもう2つ井戸が出てくるが…
地元住民に聞いてみると、確かに井戸は9つあったが、既に埋められているものも多い一方、未だに現役のものもあるという。また、映画には若干誇張があるようで、夏の間でもそんなにしょっちゅう枯れることはなかったそうだ。
今ではこの部落も上下水道完備である。
埋められた井戸の跡として住民が教えてくれた1つがここ。井戸の枠だけが残っていて、顕彰碑がある。
明治9年説教所建立、昭和34年10月再建とある。
ここも井戸の跡のようだ。
部落内にはところどころ空き地があるが、よく見ると畝の痕跡があり、耕作放棄した畑のようである。
これは隣保館だが、あまり同和や人権を全面に推し出していないように見える。
集合住宅がいくつかある。過去の人口の推移を見れば分かる通り、よそからの人口流入があった。住民によれば、今でも移り住んでくる人が多く、むしろ古くからの住民は山側の一般地区の方が多いという。住人のほとんどは勤め人。あまり寂れた雰囲気はない。
※写真にある古い集合住宅は昭和45~47年に作られた前地改良団地。
その一方で、ごく最近作られた大きなニコイチ群が。ただ、他の同和地区にありがちな路上駐車はなく、ベンツやセルシオが停まっているということはない、明るいニコイチ住宅だ。しかし、このニコイチ住宅も何十年か後には薄汚れて時代遅れのものと見られてしまうのか、それは誰にも分からない。
※このニコイチ群は、前地南団地で、昭和47年前後に建てられ老朽化した改良住宅の跡地に作られたものと考えられる。
ここは共同墓地。「皮下」という墓石が見えるが、やはり職業に関係する名字であったようである。
墓地から見下ろすと、そこには透き通った南国の海。
本州最南端ということで、さぞ寂れているだろうと思っていたが、全くそうではなく串本町は案外活気があった。バカンスのついでに部落を探訪するのもよいだろう。
この地区に寺がないのが気になるところ。
ここの墓の「皮下」という姓を見て思ったんですけど、「穢多・皮多(あるいはアイヌ民族)の子孫と確定できる人」ってどれ位いるんですかね。
私の近所には「武士の子孫の爺さん」も「帰化在日」も居ますが、前者は戦前の公文書や興信所の記事を見れば「士族」とあるし、後者も官報を見れば両親の帰化の記録があり、詐称でないとわかります。
でも、穢多やアイヌの血筋を示す証拠って、かなり乏しいですよね。明治政府もいっそ、差別心を隠さずに、むき出しにして、戸籍や国勢調査で公式に穢多身分やアイヌ民族を区別していれば、「ニセ部落民」とか「在日アイヌ」とか、変なことも起きなかったと思うんですけどね。本当に曖昧な問題だなあ。
状況証拠としてはほぼ確実だろうというのは時々ありますが、江戸時代からの血筋として100%確定という例は今のところ見たことがないです。
戸籍については解放令以降は公式には穢多身分であったことを示すことは記載しないことになっていますし、日本はどんどん公文書を捨てるし、閲覧禁止にしてしまうので、確実に証明することは難しいですね。