「日本人のおなまえ研究」と言いつつ、在日コリアンの名前を研究しているこのシリーズ。最後に、コリアにおける名字の歴史について宮本洋一からお話をうかがった。
なお、朝鮮、韓国という言葉は民族全体を表すには適当でないという理由で、宮本洋一氏は一貫して「コリア」という用語を用いている。また、中国も同様の理由で「シナ」という用語を用いている。
創氏改名は強制だったか?
Q. 創氏改名というのは強制だったと思うか?
A. 創氏改名での創氏を「義務」とするか「強制」とするかは言葉の選択の問題である。占領を良く言うならば「解放」、悪く言うならば「侵略」とするのと同じ。現在から批判するべきことではないと考える。
Q. コリアにおいて名字に対する認識はどのようなものだったか?
A. コリアの名字に関する根本認識の例として『名字の謎がわかる本 あなたのルーツをたどる』(森岡浩、幻冬舎、2003)の195ページでは「韓国人は本貫(先祖の出身地)と名字を大事にする」とあって韓国人の名前を勝手に変えると国際問題になりかねないとしている。
しかし、コリアでは名字を大事にしていたかを疑わせる記述が三点あるので文献から引用する。
第一にコリアでは自らの姓をシナの姓へと変更した。
「朝鮮に於ける姓は元來支那の姓を模倣したもの」
『朝鮮の姓 復刻版』(朝鮮総督府編、国書刊行会、1975)3ページ。
「古代式族名を漢樣式に改めんとする試みは。新羅よりは遙に早く支那文化に接觸したる百濟に於て最初に行われたり」
『朝鮮の姓名氏族に関する研究調査』(今村鞆編、朝鮮総督府中枢院、1934)11ページ。
古代のコリアには特有の姓があったことは百済の将軍に鬼室福信(きしつ・ふくしん、クィシル・ポクシン)、高句麗の将軍に乙支文徳(いつし・ぶんとく、ウルチ・ムンドク)といった名前があったことからわかる。
第二に1910年の日韓併合前の状況としてコリアでは20世紀になっても姓がない人が多数いた。
「されど隆熙二年明治四十一年民籍法施行の際、姓の無かりし者も相當の數に上り。其當時姓を作りし者ありしは、該事務を管掌せし編者の實驗したる所なり」
『朝鮮の姓名氏族に関する研究調査』(今村鞆編、朝鮮総督府中枢院、1934)29ページ。
隆熙2年・明治41年は1908年。次の文献にあるように民籍法の施行は1909年だった。
「朝鮮ですべての人びとが姓と本を持つようになったのは、一八九六年戸口調査規則が発布され、一九〇九年民籍法が施行されてからである」
『在日朝鮮人の名前』(伊地知紀子、明石書店、1994)15ページ。
ここでいう「本」は本貫のこと。
「しかし、なお一九一〇年日韓併合民籍施行の際、多数の無姓の者が発見され、警察の督促で多くの者が出身地の門閥の姓をとって自己の姓として用い始めたと伝えている」
『世界の姓名』(島村修治、講談社、1977)291ページ。
以上から1910年の日韓併合の直前までコリアでは姓を有していない人が多くいたことがわかる。
第三に1940年からの創氏改名以前にコリア人が自ら日本名を名乗っていた。
「李太王の年間政變により、内地に亡命したる人士の中には。姓名を内地式に變じたる者多し。保護政治となるに及び。或は同化心より。或は好奇心より、或は爲す所あるべく。姓名を内地様式に變じたる者あり。皆大抵庶民階級の人々にして。中には門札に票示し、名刺に印刷し。内地人との關係に於て專ら其姓名を使用せり。併合後に於ては此類を各地に生じ、特に平安道には多くして。其中、伊藤、長谷川等の姓を稱する者多かりしが。後に内牒を發して之を禁じ。何れも元の姓名に復せしめたり」
『朝鮮の姓名氏族に関する研究調査』(今村鞆編、朝鮮総督府中枢院、1934)35ページ。
句読点は原文のまま。李太王が李氏朝鮮の国王だったのは1863年から1897年、大韓帝国の皇帝だったのは1897年から1907年。
創氏改名以前に称した姓で伊藤、長谷川がなぜ多かったかに関しては、伊藤は政治家の伊藤博文にあやかったという点、長谷川は漢字三文字でコリア、シナの一字姓と違うことを強調できるという点を推測する。
冒頭で引用したコリアでは「名字を大事にする」は、古代の姓を自らシナの姓に変更して、20世紀になっても姓がない人が多数いて、創氏改名の前に日本名を名乗って、現在も通名を使用することをふまえて言っているならばそうなのだろう。
近世以前のコリアの名字
Q. 名字に南北での違いは見られるか?
A. 『朝鮮の姓名氏族に関する研究調査』(今村鞆編、朝鮮総督府中枢院、1934)に記載のある本貫は大部分が南にある。
また、『日本のコリアン・ワールドが面白いほどわかる本』(康煕奉、樂書館、2001)の173ページに「在日社会で一番多いのは慶尚道(キョンサンド)出身者とその子孫である。地理的にも日本に一番近いので、それも当然か。また、慶尚道は山間部が多く、農地に恵まれなかった。やむにやまれぬ事情で日本に渡ってくるケースがほとんどだった」とあるように南部出身者が大多数を占める。
コリアの本貫は北に少なく、北の出身者も少ないことから南北での差異は特に見いだせない。
Q. 近世以前にコリアから渡ってきた帰化人の名字はどのような傾向があるか?
A. 古くは百済、新羅といった国から来た姓氏が平安時代の『新撰姓氏録』にでている。これらが現在まで存続しているかは家系の問題であって姓氏の問題とは異なるので言及しない。
百済、新羅の国名をそのまま使用した姓氏は現在もある。ただし、名前の系統と家系は別である。
李氏朝鮮の時代としては李から李家とした例があった。この場合でも現代のコリア系の通名としても李家の帰化の記録があったので名前からすべての来住した時代を判断することはできない。
Q. これは確実に渡来人と言える名字にはどのようなものがあるか?
A. 金海のように約千人のすべてがコリア系かと考えていたところ『山口県寺院沿革史』(可児茂公編、山口県寺院沿革史刊行会、1933)から山口県の僧侶の一件のみが別と判明した例があった。
稀に別起源はあるので断定はしない。おおよその数ではコリア系特有の名字は500個以上あるのではないかと推定している。
詳しく知りたい場合は「人名力・別館」にある「コリア系」の記述を見てもらいたい。
これは私知っています。歴史学者の講演を聞きました。
史料も見せてもらいました。
朝鮮人は子供を産んでも産みっぱなしで名前を付けない家族がいたので
日本人が戸籍制度を導入して保護したのです。
たくさん産んで下の子や女児にはつけない家があったそうです。