普段から示現舎を読んでいる方は、一時期、どのサイトを見ても加島駅から徒歩8分の分譲住宅の広告が頻繁に表示されていたかも知れない。あるいは今も表示されているかも知れない。筆者もあの広告が気になったので、今回は大阪市淀川区加島一丁目にやってきた。
自動車でやってきたが、ナビが見当違いの場所を指し示したらしく、袋小路に迷い込んでしまった。しかし、とりあえず車を停められる適当な場所を探していると…
見つけたのがこの道路。駐車禁止の標識がなく、いくつか自動車が路駐されているので、遠慮なく路駐させてもらった。同和地区には必ず路駐できる道路か、タダで駐車できる場所が確保されているという法則がある。ということは…
辺りを見渡すと同和地区だった。大阪の同和地区は非常に分かりやすい。
公園にも、分かりやすい石碑がある。
道は広々としており、路上駐車だらけである。
コインパーキングがあるが、こんな具合なのでどこも安い。24時間で400円。なぜかどこも前払いである。
最安値はこの300円。4を3に張り替えた跡がある。このくらいしないと、なかなか停めてもらえないのだろう。
ちなみに、この駐車場の隣の空き地は、解放会館が取り壊された跡地だ。
加島延命地蔵。由来を見ると、明治末期に地蔵様のお告げを受けた人物が掘り出したものだという。近代日本でも、このようなスピリチュアルな故事があったことは興味深い。
公園の周囲には市営の店舗、店舗付き住宅がある。入居者募集中で店舗は月31,800円、店舗付き住宅は月50,200円から。もちろん、一般公募されているので、店を出してみたい方は、大阪市役所に問い合わせるとよいだろう。
掲示板の掲示物に、もはや同和色はない。
新しい住宅も出来ている。
1935年の世帯数が150,人口が634。1958年は世帯数が362、人口が1507と倍以上に増えている。
『大阪市同和事業促進協議会 40年の歩み』によれば、1990年の時点で世帯数517,人口1356となっている。なお、1881年(明治14年)の調査では世帯数76、人口314だ。戦後の人口急増は、戦災により部落の半分が消失し、その後の復興の過程で人口流入が急増し、スラム化したという。ということなので、住民のほとんどは賎民とは無関係と考えられる。
これは「加島希望の家」。1991年に作られた障害者施設で、現在も運営されている。
部落解放同盟加島支部の前身である、西大阪水平社の創立大会が開かれた正恩寺。
この道路は部落の境界で、ファミリーマートのある側は地区外である。
ここがかつての加島青少年会館だが、閉鎖されていた。売却が検討されているが、最近、土壌から基準値超えのヒ素化合物とフッ素化合物が検出された。
ふと見ると、紅白の垂れ幕があり、何か祭りでもやっているのかと思ったら…
広告に出ていた物件だ。宅地が一区画1680万円、建物付きで3080万円。この辺りの物件としては、びっくりするほど安いというわけではない。ただ、大阪市の同和地区は福祉施設は充実しているし、路上駐車に対してうるさく言われないので、そういうのが好きな人にはお勧めの物件である。加島駅は東海道線が止まらないので、淀川区なのに新幹線へのアクセスが悪いのが難点。
同和事業には功罪があったというが、大阪市について言えば、功よりも罪が大きかったと言わざるを得ない。都市部落は、本来であれば都市に飲み込まれることが自然な姿である。しかし、同和事業は見た目からあまりにも分かりやすすぎる同和地区を作り、地域と住民の自立を妨げた。
最近になって「同和地区の土地は避けられている、土地差別だ」というが、それではもともと境界など曖昧だったところに、同和地区の線引をしたのは誰なのか。なぜ同和地区に限って路上駐車が蔓延して駐車場がこれほどまでに安いのか。そして、同和事業を止めて、用地を売りに出した途端に、次々と民間住宅が建てられては売れていることを、どう捉えるのか。少なくとも、大阪市に関して言えば、市民による差別ではなくて、政策の問題だろう。
ここは旧加島青少年会館に隣接する加島中央公園。
これも旧加島青少年会館の一部。加島青少年会館の建物は一部は既に解体され、残った建物も閉鎖されている。
加島中央公園の向かい側にあるURの住宅。これは同和住宅ではない。
写真を撮り忘れてしまったのだが、実は加島地区の北に「加島北住宅」という市営住宅がある。『40年の歩み』によれば、これはもともと同和住宅であり、加島同和地区の飛び地だった。しかし1982年に北住宅は一般化され、北住宅に住んでいた加島部落の住民は地区内の同和住宅に移転した。
『40年の歩み』には、さきほどの加島希望の家の写真と一緒にに、1988年89年に、「この年は同促協方式の堅持に関わるゆゆしき問題が起きています。大阪市は、加島地区住民2世帯に対し、地区協の推薦なしに’83~’88年の6年間、個人給付を支給していることが判明しました。いわゆる「市同促協方式」逸脱問題です」との記述がある。これはどういうことかというと、同和事業は解放同盟あるいは解放同盟関係団体が窓口となって行うという「窓口一本化」をすすめている中、大阪市が、窓口を通さずに直接事業を行ったのは(解放同盟の利権を脅かすので)けしからんということである。
解放同盟から見れば窓口を飛ばされることは「ゆゆしき問題」であったが、窓口一本化により解放同盟の支部が絶大な権限を持つようになった。「運動と事業の分離」をすすめているとの趣旨の記述があるが、裏を返せば少なくとも当時は運動と事業が事実上一体ということであり、後に飛鳥会事件が起こったことから分かる通り、「運動と事業の分離」はうまく進まなかった。
これは「アンダンテ加島」これも障害者支援施設で、さきほどの「加島希望の家」と同じく、社会福祉法人加島友愛会が運営している。
いつも拝見させていただいております。
記事引用させてもらいますが
「都市部落は、本来であれば都市に飲み込まれることが自然な姿である。しかし、同和事業は見た目からあまりにも分かりやすすぎる同和地区を作り、地域と住民の自立を妨げた。
最近になって「同和地区の土地は避けられている、土地差別だ」というが、それではもともと境界など曖昧だったところに、同和地区の線引をしたのは誰なのか。」
その後の訪問内容も含め非常に考えさせられる内容です。
上手く伝えられませんが、今行われている同和の取り組み自体がこの「線引き」のような感じてしています。
しかも、その線引きが大阪では非常にいい加減です。加島については、北住宅が飛び地だったのを一般化して境界を引き直しています。
ここまでくると、もはや江戸時代の差別などとは無関係です。
市民や不動産業者を悪者にしていますが、同和事業を止めたら、しっかりと富士工務店が土地を買い上げて、しかもその土地が売れているんですよ。
大阪は商人の街なんですから、差別がどうなどということが、商取引に持ち込まれるとは思えません。
1980年代の初めに加島3丁目にあった寮にちょっとだけお世話になったことがあります。十三筋と福知山線の間のエリアは木の柵で囲われた草ぼうぼうの土地と何かの文書が掲示された古い家ががまだらにあって、よそ者が歩いていてはいけないような雰囲気でした。1997年の東西線加島駅開業を見込んだ地上げだったのでしょうか。現在ストリートビューを見ても当時の面影はほとんどなく、老人ホームエバーライフ加島の西側に「文化住宅」と表示されるアパートくらいのもんです。
淀川区、東淀川区はもともと田舎でしたからね。新大阪駅近くにも、昭和の頃まではボロい文化住宅がたくさんありました。
40年ほど前、入口入った正面の壁にマルクス・エンゲルス・南田某の顔写真を掲示していた青少年会館も閉鎖になっているんですね。40年ほど前でも道路を隔てた「一般地区」が砂利道で逆差別が誰の眼にも見えました。神崎川を隔てた豊中市の庄内地区の方が道路は狭隘で迷路でした。
マルクス・エンゲルス見たかったですが、もう入ることはできませんでした。今でも加島は一般地区のほうが道が狭いです。同和地区の部分だけ、やたらと広々としてますね。
朝田委員長以降の解放同盟は、「平等な社会を作る」のではなく、「部落民が上位に立ち、一般住民は部落民にひれ伏す」社会を作るのが最大の目的だったのでないかと考えています。かつての全国水平社の同人が、大正時代にそういう支配関係の逆転について語っているようです。
同和住宅群も、大阪の豪華小学校も、部落民が上位という考えの一環で生まれたように思っています。よく言われる「逆差別」は、結果的に生じたのではなく、そもそもの目標として「逆差別の社会づくり」を目指したのではないでしょうか。
そのような考えもなく、単に金、金だったと思います。大阪の同和地区の住民のほとんどは部落民ですらないですから。
貧乏人が国からの金に群がった。そのためには何でもやった。それだけでしょう。
>かつての全国水平社の同人が、大正時代にそういう支配関係の逆転について語っている
よろしければ出典を教えてください。興味があります。
水平社結成の中心人物達に影響を与えたといわれる戦前共産党幹部の佐野学が「日本社会史序論」(大正11年)中の部落民解放論に〝武士階級が当時の支配階級である貴族を倒してこれに代わった〟という例を挙げています。
この武士階級が貴族を倒したという話を、のちに水平社同人が機関紙または演説で取り上げていると、佐野一男が「水平運動批判」(大正13年)で紹介しています。
国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができます。
興味深い資料を紹介していただき、ありがとうございます。
『水平運動批判』76ページの第三回全国水平社大会の可決事項「官吏の部落出身者を調査し水平運動に反対する者に徹底的反省を促す件」などというのは凄いですね。まさに水平社によるアウティングと強要行為です。
121ページ以下の「差別糺弾の是非」に紹介された暴力糾弾の事例の数々も「全国水平社はテロリスト集団だった」という宮部さんの説を裏付けています。
ただ水平社の「徹底的糾弾」の路線はわずか数年で穏健化していき、その後さらに三分裂するなど、急速に変化していくようです。初期の水平社のやり方を復活、長く維持させたのは戦後の組織だと私は感じています。
部落問題研究所の『戦後部落問題論集』第2巻344ページに「すべての人びとが水平線上にならぶ、無差別・平等な水平社会をめざした水平社の崇高な理念」との記述があります。同じく『部落』誌には「解同は水平社の伝統を受けつぐ組織だといっているし、解同の主催する集会では必ずといっていいほど、水平社の『創立宣言』が読まれていますが、事実は、もっとも反宣言的な団体になり下がっている」との記述があります。しかし歴史を遡れば、そもそも水平社自体が一般民への復讐心に燃える暴力集団だったのではないかと私は思います。
つまり、部落解放運動は朝田善之助の登場でいきなり部落排外主義や物盗り主義に走ったのではなく、水平社の時代から怨恨と物欲に凝り固まっていたのではないか。解放同盟長野県連委員長の山崎翁助によると「部落民以外は差別者である」という排外理論は水平社時代から既に存在したものだそうです(朝日新聞長野支局『ルポ 現代の被差別部落』朝日文庫版168ページ)。神聖視されている松本治一郎にしても、戦時中から戦後にかけての恥知らずな嘘つきぶりや変節ぶりを見ると、解放運動界隈で言われるほど立派な人物だったかどうかは疑問です。
『水平運動批判』の記述は興味深いです。
そう言えば、全国水平社が今で言うエセ同和行為をやっているというのも何かの文献で見た思えがあります。融和事業年鑑だったかな…。探しておきます。
いま水平社批判が重要だと思うのは、解放同盟の名前では大衆に拒否感があるため、イメージの良い水平社の名前を利用して運動再興を狙う動きがあるように個人的に感じているからです。
しかし、大勢による暴力的糾弾も、学童の同盟休校も、初期水平社の段階で既に行われており、朝田委員長以降の組織の活動モデルは初期の水平社にあったと思います。水平社にさかのぼっての検証が必要だと考えます。
はじめまして。
記事と関係ない話で恐縮なのですが、茨城県北相馬郡利根町の谷原部落についてなにかご存知のことはありませんでしょうか。
数年前まではネットに谷原部落の古老の談話を収録した
すみません、途中で送信してしまいました。
談話を収録したサイトがあったのですが、削除されてしまったようで、「利根町史」にもほとんど部落についての記述はなく歴史が詳らかでありません。
部落とわかるものも白山神社くらいしかなかったように思います。
機会があれば調査していただけると幸いです。
谷原部落の古老の談話のアドレスは分からないでしょうか。
ウェブアーカイブに残っているかも知れません。
http://homepage3.nifty.com/na-page/096-2.html
たぶんこれです。
サービスが終了してしまっているようです。
ありました。これですね。
https://web.archive.org/web/20151103071730/http://homepage3.nifty.com/na-page/096-2.html
少し読んでみたところでは、長吏村だったようですね。
高津屋の跡とか、記念館の南側の宅地とか、押付新田の鶴殺し山とかキーワードが出てきます。
ありがとうございます!
はじめまして、いつも拝見しております。
加島ではありませんが、近所に住んでいました。
30数年前のお話ですが、新幹線の高架下(最後の画像)にタクシーの廃車が捨ててあったり、家電の不法投棄がたくさんありました。
団地は昔からありますが、高架下に木造のバラックも数件ありました。
怖そうなおばちゃんが住んでいて、異様な雰囲気だったのを覚えています。
子供のころ友達と自転車でよく探検に行きました。
コメントありがとうございます。東淀川区に祖母の家があったので、私も子供の頃あの辺りをうろちょろしていました。
確かに新幹線や東海道線沿いは、部落に限らず不法投棄だらけでしたね。
ただ、横山ノック知事の頃にかなり浄化されて、路上の廃車は2000年以降も同和地区に限ってちらほらありましたが、さすがにもう撤去されました。
そうですね。2000年ごろから、廃車やゴミが少なくなりましたね。
90年代くらいまでは、新大阪付近の線路沿いにも放置車両が多数ありました。
ガラスが割られて、ゴミ箱状態の車や全焼している車も見ました。
高校生のときよくいったバイク屋さんに来ていた、暴走族のお兄ちゃんが「交機に追われたときは柴島の裏に逃げたら、Uターンして帰りよる」とよく言っていました。
80年代後半のお話ですが、暴走族対策の交通機動隊のパトカーも東中島や飛鳥地域は避けていたようです。
東海道線に乗っていると加寿苑の荊冠がはっきりとみえますね
加島駅近くに飲食店を出そうかと思ってるんですが、治安や客層などどんな感じですか?
良かったら教えてください
私はよく分からないので、一度現地に行って、近くの飲み屋等でそれとなく聞いてみるのがいいのではないかと思います。
小学生の頃に、がっつり加島青少年会館に放課後通っていました。解放開館で狭山事件について何回もビデオとか見ていた世代です。
当時給食費が部落民だけ100円で、ランドセルは無料で支給されました。
自分が小学校の頃は何も感じなかったのですが大人になって思い出すと異様な価値観と、えげつないお金(税金)の使い方だなと思いました。
35年ぶりに、青少年会館を実際見に行きました。懐かしいのと同時に、どえらい広くて良い施設だったのに、活用されなくて閉鎖されてるのが寂しく悲しかったです。
あれだけ豪華な施設を、なんか未来に活用して欲しいです。
たぶん、青少年会館は更地にされて富士工務店あたりが買うのではないかと思います。