森友学園よりエグい大阪朝鮮学園の公有地購入劇(後編)

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By Jun mishina

中大阪朝鮮初級学校(大阪市東成区東中本3)の市有地無償使用の過去を検証していく中で見えたもの――。それは、在日朝鮮人の教育闘争史であった。彼らは、「差別」「植民地支配の被害者」「弱者」を持ち出す一方で、朝鮮連盟、朝鮮総連などの運動家による「恫喝」と「威嚇」、この2つを巧みに使い分け行政と交渉し要求を突き付けた。そんな光景は、容易に想像できる。それが最も如実に表れたのは、大阪市との間で交わした「覚書」かもしれない。

覚書で市有地の無償使用と2800万円の交付金を認める

なぜ中大阪朝鮮初級学校は、市有地を無償使用するに至ったのか? しかも森友学園騒動の地、豊中市野田のように航空機の爆音が鳴り響く土地ではない。大阪市内の好地だ。時系列は前後するが、結論から言うと大阪市と大阪朝鮮学園の間で1961年(昭和36年)に交わされた「覚書」が原因なのだ。まずは、その全文を紹介しておかなければならない。

覚書

大阪市教育長中尾正幸(以下甲という)と財団法人大阪朝鮮学園設立代表者 金得善(以下乙という)との間に大阪市立西今里中学校の廃止並びに各種学校「大阪朝鮮中級学校」の設置に関しこの覚書を交換するものとする。

1,乙は大阪市立西今里中学校(以下西今里中学校という)廃止の際、同校に在校する生徒全員を財団法人大阪朝鮮学園の設置する各種学校「大阪朝鮮中級学校」(以下中級学校)の相当学年に収容し当該生徒が同校を卒業するまで学校教育法に定める中学校の教育に類する教育を行うものとする。

2、甲は西今里中学校廃止の際、同校に勤務する大阪市教育委員会の任命にかかる朝鮮人講師を退職させるものとし乙は中級学校の職員として採用するものとする。

3、甲は西今里中学校廃止の際、同校の用に供していた大阪市所有の土地及び建物並びに備品を昭和39年3月31日まで甲の定める案件に従い、中級学校の用に供するため財団法人大阪朝鮮学園に無償で使用させるこの期間経過後の使用についてはその際双方協議するものとする。

4、甲は財団法人大阪朝鮮学園設立後、遅滞なく甲の定める条件に従い、同法人に対し金2800万円を交付する。

5、甲及び乙は双方誠意をもってこの覚書の各条項を履行するものとし日本国の法令、条例、規則、その他の諸規程を遵守するものとする。乙がこの覚書の各条項に違反した場合は財団法人大阪朝鮮学園は第3項により受けた物及び第4項により甲から交付された金銭を返還しなければならない。財団法人大阪朝鮮学園の設立認可が取り消された場合も同様とする。

6、この覚書の交換の後においては乙は甲に対して本覚書に定める条項以外にあらたに甲の負担となるべき事項を要求しないものとする。

7、第3項及び第4項に定める事項は大阪市長が決定し又は大阪市において予算措置が講ぜられた時に効力を生じるものとする。

8、甲は西今里中学校を廃止して、乙が中級学校を設置する時期は本覚書交換の日から2日以内とし双方協議の上、決定するものとする。

昭和36年7月1日

(*原文ママ)

ご覧の通り覚書は、8項目からなっている。公有地を特定団体に無償使用させる行為自体が”グレー”なのに「日本国の法令、条例、規則その他の諸規程を遵守」というのもどこか白々しい。注目すべきは、大阪市が無償使用を認めた上で、2800万円の交付金まで支給していたことだ。昭和30年代の2800万円がどれだけ莫大な金額なのか? 想像に難くない。当時の社会情勢を鑑みて、朝鮮総連、朝鮮学校の関係者、活動家が与える威圧感、恐怖感は、ただならぬものがあったに違いない。そうでもなければこれだけ好条件の覚書を交わせるはずもない。そして最も注視すべきは、在日コリアンの権利闘争で「覚書」が重要な役割を果たしてきたことだ。覚書とは、当事者同士の合意事項を書面にしたもので契約書、協定書の一種。覚書は、団体・個人とも交わすことができ、議会の議決も必要ない。特に期限が定められていない限りは効力が認められ、役所内部で引き継がれていくという。また法令上は、当事者間の契約ないし協定に変更が生じた際、新たに作成する文書を「覚書」とする場合もある。

例えば1991年、日韓政府の間で「在日韓国人の日韓法的地位協定に基づく協議の結果に関する覚書」が妥結された。ここで使われる「覚書」は、1965年の「日韓法的地位協定」を引き継いだものだから、前述した意味に近いだろう。

対して在日団体と行政、特に地方自治体と交わす場合の覚書は、闘争で得た権利に対する「お墨付き文書」といった性格を帯びている。露骨な言い方をすれば「お前ら約束しただろ」といった念押し文書。そんなイメージだ。

歴史的に見ると、終戦後、在日朝鮮人らが起こした「阪神教育闘争」で”勝ち取った「覚書」によって大阪府内には、複数の民族学級が設置された。これは「覚書民族学級」と呼ばれている。また覚書民族学級には、専属の「覚書講師」が配置され指導に当たる。なお本件とは、別問題だが参考資料として戦後、京都府が朝鮮連盟(現在の朝鮮総連)と交わした覚書の一部を紹介しておく。

「在日」と「同和」。長年、日本のタブーとして語られてきたこの両者。全く異なるものだが、彼らに共通するのは、行政から権利を「勝ち取る」「引き出す」ことが最大のアイデンティティということ。在日コリアンの場合、「覚書」がその一つと言えよう。今の常識で言えば、行政が朝鮮学校に市有地の無償使用を認め、交付金を出すのは、考えられないことだ。しかし昭和30年代の朝鮮連盟、朝鮮総連の勢いを考えれば、大阪市もこの条件に同意せざるをえなかったのだろう。

戦後の混乱から生まれた公立の朝鮮学校

大阪市東成区東中本3の中大阪朝鮮初級学校を訪ねてみた。学校では、子供たちが元気よく体育の授業をしていた。実際に生徒たちの姿を見ると、こうした取材や記事は、どこか心苦しい思いもある。だが朝鮮学校の過去に対して、どうしても疑問や不信感が払拭できない。それに”我がハッキョ(民族学校)”と言いながら、学校を担保に入れ教育機会を奪ったのは、外ならぬ朝鮮総連ではないのか。こうした事態に対し本来、在日朝鮮人たちがもっと声を挙げるべきだ。では、この学校の関係者たちは、何を思うのだろうか? 同校の正門は、閉ざされており、インターフォンもない。電話で学校職員を呼び出し取材を申し込んだが「担当者は決まっておらず、コメントできない」ということだった。

校舎は、ずいぶん老朽化が進んでいる。朝鮮学校も生徒が減少していく中で、中大阪朝鮮初級学校はいつまで存続するのだろう。そんな思いで学校を後にした。

そして話を同校の過去に戻す。1929年(昭和4年)、大阪市が民間企業からこの土地を購入した。その後、阪東国民学校が建設されたが、戦時中の空襲によって同校が焼失してしまった。ところが戦後、状況が一変。1947年(昭和22年)、大阪市は、この跡地に「東成朝鮮学園」の建設を認めた。と言っても戦後の混乱期に乗じて、朝鮮連盟が旧国民学校の土地を事実上、占拠してしまったと言うべきだろうか。どうあれ東成朝鮮学園が、現在の中大阪朝鮮初級学校のルーツということになる。

ところが1949年(昭和24年)、東成朝鮮学園などの朝鮮学校に対して閉鎖命令が下った。大阪府知事が命令したとあるが、GHQの意向であるのは間違いない。当時、在日朝鮮人による暴動が多発しており、GHQが警戒していたことにある。当時、朝鮮人の暴動の根源に「教育闘争」があると考えられており、ならば学校という原点を断とう、というわけだ。

ここで妙なことが起きる。1950年(昭和25年)、今度は、大阪市が学校の一部を「市立本庄中学校西今里校舎」として使用するために、東成朝鮮学園と賃貸契約し、大阪市が建物を賃借することになった。朝鮮学校に土地を貸して、今度は、その建物を有償で借りる。なんとも不思議な構図になってしまった。

そして同年7月1日、市立本庄中学校西今里分校が開校。翌年には、市立西今里中学校と改称。現在ではもう存在しないが、同校は「公立の朝鮮学校」なのだ。実は、公立の朝鮮学校は、大阪だけでなく、次のとおり全国各地に設置されていた。設置数を見ると意外と多い。

『毎日新聞』は、市立本庄中学校西今里分校開校時の様子を「戦乱の祖国建て直そう本庄中で朝鮮人学童の始業式」と題し、こう報じた。

「この日やっと自分たちの学校が出来た朝鮮人生徒180名(1年87、2年64、3年29)がうれしそうな顔をそろえて初の登校、川村校長は『いま、朝鮮は名ばかりの独立国で不幸な目にあっていますが、こうして勉強の機会を与えられた皆さんの力でやがて立派な内容のある独立国にして下さい。そして皆さんは善良な在日居留民として日朝のくさびとなって下さい」と訓辞。戦乱の祖国の寛容さを気づかう生徒たちの小さな胸に深い感銘が漂っていた」

川村校長とは、名を川村市兵衛という。朝鮮人教育や日朝交流に功績があったとして、今も語り継がれている。

しかし1961年(昭和36年)、すなわち覚書が締結された年に、市立西今里中学校は、廃校になる。理由は、複数あった。従来から、公立の朝鮮学校は、日本への「同化政策」につながると在日朝鮮人たちから反発があったこと。また一般の学校に通う在日朝鮮人も増加してきたこと。こうした背景から、「公立朝鮮学校」の存在理由がなくなったのだ。

そして市立西今里中学校の廃校とともに同じ土地と建物で「大阪朝鮮中級学校」(2006年に中大阪朝鮮初級学校に改称)が誕生。そしてこの年(1961年)に、朝鮮学園と大阪市の間で「覚書」が交わされたのは、先に述べた通り。その後、2009年に大阪市が無償使用を拒否するまで、契約が切れた後も朝鮮学園が土地を使用し続けていたのを再契約で追認することを繰り返し、同校はこの地に居座り続けてきた。この間、大阪市は、「無償使用」という異常な状況に対して「不作為」という訳でもなかったようだ。裁判記録によると昭和50年代に大阪市は、学園側が借地料を支払うよう、交渉を試みたようである。ところが朝鮮学園側がこれを拒否し、「無償使用」が続いていく。これに加えて、大阪府から補助金も支給されていたのだから”至れり尽くせり”といったところだ。

こうして中大阪朝鮮初級学校の過去を見ていくと、同校は単なる朝鮮学校の一つではなく、在日朝鮮人の教育闘争のシンボル校という見方もできる。それと同時に、学校の歴史からは、戦後の在日朝鮮人が国内でどう振る舞ってきたか? その一端が垣間見えた。和解によって中大阪朝鮮初級学校は、当面、存続していくのであろう。ただし建物は老朽化し、資金力も乏しく、何よりも在日朝鮮人の”朝鮮学校離れ”も進んでいる。悲しいことにもはや「差別」と叫ぶだけで、要求が通るほど、行政も市民の目も甘くはない。伝家の宝刀「覚書」といった”裏技”ももうありえない。だがそんな時勢だからこそ長年、朝鮮学校側が訴えてきた「教育の自主性」「民族教育」の真価が試されているのではないか。

Jun mishina について

フリーライター。法政大学法学部法律学科卒。 月刊誌、週刊誌などで外国人参政権、人権擁護法案、公務員問題などをテーマに執筆。「平和・人権・環境」に潜む利権構造、暴力性、偽善性を取材する。

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森友学園よりエグい大阪朝鮮学園の公有地購入劇(後編)」への3件のフィードバック

  1. 江戸川

    数十年前、私は大阪市内の小学校に通いましたが、学区内に韓国民団の集合住宅があり、そこ以外に住むコリアンもいて、クラスに2、3人は在日韓国、朝鮮人の級友がいました。ある日の工作の時間、私が多少、絵がうまいということで、民団の住宅の友人から「ここに国旗を書いてほしい」と頼まれたことがあります。何も考えずに日の丸の絵を描いたら、「これじゃなくて、韓国の旗」と言われ、ハッとして太極旗に書き直しました。彼らは幼いころから、自分と「国家」の関係をそれぞれに考えていたのだろうと思っています。級友たちは皆、日本名でした。

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  2. 斉藤ママ

    戸籍は民団や朝鮮総連が用意してくれるみたいです。
    「北朝鮮に消えた友と私の物語」に、船でやってきた朝鮮人の話が載っています。

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    1. 斉藤ママ

      確か在日朝鮮人が書いた別の本だったと思いますが、
      年齢や生活様式が違う人になりすますのは大変だ、みたいなのを読んだ記憶があります。

      戦前から日本には朝鮮人が住んでいて、
      子供たちを日本の学校に通わせていました。私の母は机を並べて勉強していました。
      市民権があるのに、日本の戸籍を取ろうとしたのは、どうしてなのでしょうね。

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