前回訪れた和草野は明治中期に形成され始めた、比較的新しい村であったが、その近くにある田中は本当に古い村である。
『滋賀の部落 第1巻部落巡礼』によれば、明治21年の滋賀県調査に「北土山村ノ内 田中町」とあるという。当時の戸数は11戸。昭和初期でも19戸と、小規模な古村である。

和草野の南、田中の北に「水月」という村がある。読みは「みなづき」で、「水附」とも表記した。

もともと、田中は水月の一部であったという。

古村は、東海道と御代参街道の分岐点の裏手にある。『滋賀の部落』は、田中は典型的な街道部落で道中奉行によって意図的に設置されたと推測する。しかし、明治期の記録では慶長年間古検帳に「かわた」として記載があるといい、江戸時代より前に成立した可能性が高い。
なお、上の写真は水月である。


和草野にはジェイドルフ製薬の工場があったが、田中にはリバーテックの金属加工工場がある。

『滋賀の部落』によれば、「かわた」であるから明治初期の記録に「農ヲ以テ生活シ」とあるのを誤りと断じるが、実際は農業をしつつ皮田の役目を負っていたというのが妥当なところだろう。皮田の仕事は街道の斃牛馬の処理である。

実際「水月の忠兵衛」という大地主がおり、「水月」とあるが田中の人間である。しかし、明治期に没落したという。

しかし、何よりも気になるのは、田中は『同和対策地域総合センター要覧』に記載がないのである。地域総合センター「清和会館」の対象地区は和草野だけであり、田中はあくまで同和対策施設の近隣地区である。

この空き地には、実は集会所があった。

ストリートビューで見た2012年の状態が上の写真。これは明らかに公有の集会所の佇まいではない。このような同和施設が全くないとは言い切れないが、和草野にある地域総合センターや改良住宅等と明らかに釣り合いが取れていない。

従って、ここは何らかの理由で同和地区指定を辞退した、未指定地区であると鑑定する。