曲輪クエスト(391) 四日市市寺方

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By 宮部 龍彦

例によって『三重県部落史料集』から引用すると、寺方村に明治初期に戸数35の古村があった。昭和初期には58戸。

昔の地名は三重郡神前かんざき村字寺方てらがた小字東瀬古ということになる。文献によっては東瀬方とも書かれている。『四日市の部落史』には一貫して東瀬古と書かれているので、昔の地名は東瀬古であろう。また、明治期の地図には「寺方東堀」と書かれている。

現在では東山、東谷の小字がある。

四日市に行くなら、神前ミートに併設された「焼肉ゆき」に行かなくてはならないというお便りを頂いたので、それに従うことにした。

食レポはぜひYouTubeでご覧いただきたい。

ここは「高角こうかく神田しんでん天白てんぱく神社」。おそらく、西日本では珍しい、古村だけの鎮守である。なお、明治22年よりも前は白山神社であったという。

とすると、関東の白山神社の影響が想像されるが、それは分からない。過去に何度も祭神が変わっているということなので、無関係なのではないか。歯痛と頭痛にご利益があるらしい。

神社の住所は現在は寺方町内であるが、名前の通り、かつては旧高角たかつの村の土地であったという。しかし、正真正銘寺方の古村の鎮守であり、後には土地も含めて寺方村内になったようである。

一説では、古村の起源はこの神社に仕える神人であるという。

こちらは神前地区市民センター。こちらは同和施設ではなく、市役所の出張所のような施設である。だから、さきほどの焼肉幸に市職員のような人がいたのだろう。毎日あそこで焼肉ランチが食べられるのであれば、誠に贅沢な職場であろう。なお、この施設の住所は四日市市高角町である。

付近にはこのような物件がある。「人権のまち神前」と書かれている。しかし、「人権のまち」という言い回しは特定のカテゴリーに属する地域であると暴露することにならないだろうか

これは土地改良記念の石碑。かつては寺方東堀新田とも呼ばれており、その名の通り、農業に携わる住民も多かった。

さきほどの石碑を見ると川森と川村という名字が多いことに気づく。『四日市の部落史』には「部落出身議員」として川森と川村という人物についての記述がある。

『三重県部落史料集』に掲載された「差別糾弾事件発生解決報告表」よれば、「穢多」「牛殺し」という発言を糾弾した例が2件あり、これも「糾弾者」の名字は片方が川森、もう1つが川村である。

明治期の地図に重ねると、寺方本村の東の山麓に古村があったことが分かる。

『部落問題・水平運動資料集成補巻一』掲載の「大谷派地方関係寺院及檀徒に関する調査」には林正寺と書かれているがこれは誤りで、古村の寺は真宗高田派の誓元寺である。

寺方村は古村も含めて伊勢神宮の荘園であったという。当時からほとんどの家が土地を持って農業をしており、また副業として斃牛馬の処理の役目も持っていた。多くの家が牛を所有しており、貧しい村ではなかったという。

食肉業が興ったのは、明治期に食肉の需要が増え、屠場が開設されたことによる。

寺方では戦前の水平社運動の記録は見られず、主に行われたのは行政による改善事業である。運動が盛んになったのは戦後のことで、1958年に自治会が公会所建設を請願して以降、様々な施設の整備を要求するようになった。

『四日市の部落史』に掲載された1957年の地区実態調査表。もともと手書きのものを転写したものであろうが、当時から事業を行っていたことが分かる。

同和事業で作られた施設として「人権プラザ神前」「四日市市大型作業場」がある。他には農業倉庫や墓地、市営住宅。さらには「神前柔道教室」も同和事業として作られたという。

『四日市の部落史』には1973年7月に「寺方帰れ事件」というものがあったと記されている。電機メーカーが高角公民館であんま機の展示即売会をしたのだが、業者が「寺方の人は中へ入ってもらえん帰ってくれ」「寺方の人たちはこわいで」と言って追い返したというものである。

このことを知った高角自治会長は「部落の人の一部の人が、いつもいつも暴言、暴力をお
こすので、それがこのような問題になった」と言って追い打ちをかけた。

ここが「人権プラザ神前」。非常に分かりやすい同和施設である。

ただ、施設はもともと田畑だった場所にあり、先述のとおり、昔からの古村は斜面にある。

江戸時代には十数件の穢多村であったと記録される。寺方村の宗門人別改帳には、穢多は百姓とは別に記載されていた。

戦後に旧身分が書かれた差別戸籍なるものが問題となったが、旧寺方村の戸籍にはそのような記載はないという。

同和施設が集まっている辺りは印象深いが、昔からの古村は、普通の三重の農村のように見える。

むしろ、田舎にしては立派な家が多いように感じた。

古村を歩いていると、巨大な建物が目に入った。これが「四日市市大型作業場」である。ただ、人の姿は見えず、閑散としている。訪れた日は休日ではあるのだが、それにしても、である。

調べてみると、かつては食肉製品の製造がされていたが、事業者である伊藤ハム子会社のハーベーデリカテッセンの経営不振により2014年から稼働していないという。市街化調整区域に特別に設置された施設で、食肉以外の用途が認められないなど、制約が多いことがネックになっているようだ。

忌憚なく言えば、人権・同和という背景は決してイメージのよいものではないし、同和対策の共同作業場が今もうまくいっている例など見たことがないので、覚悟を決めて取り壊すべきではないか?

歩いていると、いかにも市営住宅っぽい建物が目に入った。実際に、これは市営住宅である。

空き家が多く、これも役目を終えつつあるのではないか。

宮部 龍彦 について

ジャーナリスト、ソフトウェアアーキテクト。信州大学工学部卒。 同和行政を中心とする地方行政のタブー、人権ビジネス、個人情報保護などの規制利権を研究している。「ネットの電話帳」管理人。

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