ご存知の通り、百舌鳥・古市古墳群が世界遺産登録される見通しとなった。そこで、今回は古市古墳群がある藤井寺氏を探訪することにした。
この地域で興味深いのは、古墳の周囲に多数の部落があり、しかもそれらがどうも同和地区指定されていないらしいという点である。
※大変詳しい方からコメントがありました。藤井寺市林5~6丁目は部落であることを示す近世の文書は見当たらず、仮に部落であるとすれば近代以降に形成されたことになります。歴史的な意味では現在の道明寺1丁目の旧小林村が夙村であったとの記録があるのみで、藤井寺市内で他に近世以前に形成された部落は存在しない可能性が高いです。
※別の詳しい方から情報提供がありました。歴史的事実はともかく、善正寺の檀徒が多く伴林氏神社の氏子ではない5,6丁目が部落と言われているとのことです。1~4丁目は尊光寺の檀徒が多く、そこは部落外と言われているとのことでした。
向こうに見える林が允恭天皇陵古墳。堀で囲まれているが、堀の中には水がほとんどなく、侵入できそうだが、ここは宮内庁の土地で立入禁止になっているので入ってはいけない。
この古墳の周囲に大井、北條、船橋、国府、道明寺、林、澤田、古室の部落がある。1935年の記録では国府、船橋、北條、古室は100世帯に満たないが、他は100~250世帯もある比較的大きな部落である。
職業、生活程度は全て共通しており、いずれも農業商業工業、その他雑業、つまりはいろいろな仕事をしており、中程度の生活だった。
不思議なのは、戦後の記録、「大阪の同和事業と解放運動」等に出てくる部落は「林」だけで、他の部落についての記録は途絶えてしまっている。
とりあえず、林へと向かう。天皇陵の周辺はすっかり都市化して住宅地になっているが、あちこちに農村の形跡が残っており、田畑の中に島のように村落があったことが分かる。
ここは西本願寺の善正寺。現在の住所表記では林6丁目だが、明治時代の地図ではここは「瀬ヶ井」という別の村になっている。1935年の記録にはこの地名は出てこない。
善正寺の檀徒は5,6丁目に分布しているという。
細い道や袋小路がある。
しかし、貧しい地域といった感じではない。まさに中程度の農村だったことを思わせる風景で、古くからの農家と思われる家はどちらかと言えば豪邸が多い。
もう1つ寺が見えてきた。
こちらは尊光寺。浄土真宗興正派で、荒本の一般地区にある寺と同じ宗派だ。
部落1~4丁目にはこの寺の檀家が多い一方で、創価学会も非常に多いそうだ。
ここで生まれ育ったという年配の住民に聞いてみた。部落について聞いてみると、最初は知らないと言っていたが、そのうち「林の4,5,6丁目が部落と言われていた」(※実際には4丁目は部落に含まれているとは認識されていないという)と小さな声で教えてくれた。同和事業は行われず、解放同盟も活動していないのだが、昔は解放同盟が活動していたそうだ。当然、同和施設はなく、部落ということを今さら言う人は若い世代の人ではまずいないということだ。
また、林以外の大井、北條等については、部落ということは全く聞いたことがないという。
住民によれば古墳と部落との関係は不明。
ただ、やはりこの辺りの部落は古墳と関係があって、天皇陵の墓守をしていた夙村ではないかという説がある。しかし、近畿地方には戦前も戦後も部落とも同和地区ともされていない夙村が多数あり、なぜ藤井寺市だけ多数の夙村が部落として記録され、林だけ解放同盟系の資料に掲載されたのかは不明だ。
こちらは伴林氏神社。地元では「ともばやしじんじゃ」と呼ばれている。
部落に限らず、林地域1~4丁目の住民がここの氏子となっている。そういった意味では宗教的に融和していると言えるだろう。
新しい家や集合住宅も見られる。
ここは普通の自治会館で、同和施設ではない。
同和地区指定されれば、狭い道は整備されたのかも知れないが、このように言われなければ部落と分からない状態になっているのを見ると、この地域は同和事業をやらなくてむしろ良かったのだろう。
小室ではなく古室ですね。国府の読み方は「こう」。
ご指摘ありがとうございます。地名の読みは難しいので、事前調査の重要性を感じています。
藤井寺でどうしてこんなにたくさんあるのか?ずっと謎だったのですが、やっと謎が解けました。いつも丁寧な取材ありがとうございます
林(瀬ヶ井)以外にも部落が存在したとは、今からでは想像つきませんね。
道明寺の小林なんかは噂を聞いたことがありますが……
夙村に関する文書 『家系之来由』 明和三年(1766年)二月
河内国志紀郡沢田村之内小林村・・・ ということで「夙」だったそうです。
生まれが南河内の人間ですが、林が同和地区だったというのは、知っているという地元の中高年の人は多いですね。ただ、『全国部落調査』に記載されている北條や大井が被差別部落であったと言う人はいません。古文書や藤井寺市史を見てもそういった記述が見当たらないので、北條や大井、国府は被差別部落ではなく、『全国部落調査』の記述が誤っていると考えられます。
林地区の近隣には、小林と呼ばれた夙村がありました。沢田八幡付近がそうであったのではないかと考えています。
大阪の同和地区って稀に未指定部落が隣接しているケースがありますよね。
林地区に関してですが、皮革などを扱っていたわけではないようですね。隠坊や墓守やなどの非農耕民が住んでいて、近世に入り周りの農村と変わりがなくなってきたが、賤視からは脱却できなかったのではないでしょうかね。
逆に『全国部落調査』に記載されていない部落は大阪府内だとどこでしょうか?
ぱっと思いつく限り、下瓦屋ですかね。
鶴原は『全国部落調査』に記載ありますが。
あと桜ヶ丘ですかね。『全国部落調査』に付近の新稲が記載されてますが、、、
明治期の地図では、土師ノ里駅の辺りに「小林」とあります。
あと、4,5,6丁目の場所を明治期の地図と見比べたところでは、本来の「林」は部落ではないように思います。実は明治期にあった「瀬ヶ井」という村が部落で、地名の表記の上では林と一緒になったと考えられます。
瀬ヶ井が穢多あるいは非人の村だったという記録はあるのでしょうか。
たしかに明治期の地図では、小林は道明寺天満宮の近辺にありますね。
明治期の地図を見ると瀬ヶ井村が、現在の林4~6丁目付近に見られますね。
昭和になると瀬ヶ井は林東と名前を変え、現在の林1~3丁目辺りは林西と地名の表記が変更されます。
瀬ヶ井村は林村の枝郷であったのでしょうか。
瀬ヶ井が被差別地域であったという記録は探してみます。
全部で4点ありましたが、とりあえず1点を。
『大阪の部落史通信43号』(2009年1月)
「西郡村関係文書から見えるもの-その特異性と普遍性について-」森田康夫 より
・・・かわた村でも西郡と斃牛馬の草場を分ける植松村東八尾座の場合でも、看坊
を送る林村善正寺か自村内の安楽寺が旦那寺であって・・・
2点目は、『信太山地域の歴史と生活』283頁
表27「村外出身の女房の出身地」より
和泉国南王子村(かわた村)に嫁いだ女性の出身地として、「河内国
志紀郡瀬ヶ井村2名」とのこと。
3点目は、「近世浅眠身分の重層構造について
-河内国を中心に-」9頁 森田康夫より
さて近世宿村はえた村ほどその数は多くなく、河内国では
各郡域に1ヶ所程度であった。しかも1村落内に併存していた
植松村を典型に、宿村の隣接地にえた村が併存するという併存
関係こそ近世浅眠構造の原点でもあった。志紀郡沢田村之内
小林の宿に対して林村の被差別部落・・・
ありがとうございます。とすると、藤井寺市については、小林が夙、林の一部(瀬ヶ井)が穢多、全国部落調査に記載された他の部落については根拠不明ということになるんでしょう。
※先述の3点目は、×浅眠・○賤民です。
4点目は、『大阪の部落史通信11号』(1997年9月)
「近世河内国における和膠生産の広がり-柴屋文書
より(その2)」森田康夫 より
皮屑の取引関係村々として、富田林村、更池村、新田
村、池田村、瀬ヶ井村、平野村、西郡村、今津村・・・
80年代前半に土師ノ里に住んでました。
林は入り組んだ狭い道で「部落かな」という印象でした。
私は国府2丁目の近鉄沿いでしたが、周辺に部落らしいところはあ
りませんでした。大和川と石川の合流点が近く、水が出やすい宅地
としては良くない環境です。
向野や更池、若松町、矢田など先鋭的な解同の支部が暴れてた時代
ですが、藤井寺市では表向きの同和対策事業は目に付きません。
土師ノ里駅の北西に、マッチ箱のような古い木造の市営住宅があったの
思い出しました。入居していた市職員が、住宅を勝手に壊し自宅を建て
てしまい逮捕されるという事件もありました。あれが同和住宅だったの
かなぁ
大阪茨木の道祖本もおもしろいですよ。
あそこは周囲の地域でかなり軋轢があるので、地元の人間の話を聞けたら聞いてみてください。
典型的な柄悪いから差別される例ですわ。
茨木の部落は、他にも興味のあるところがあります。大阪に行く機会があれば、行ってみます。
夙村では取石宿がありますが、夙村だからか未指定地域ですね。
取石は興味深い場所です。「沼守」という名字が顕著で、これは全国でもまず高石市取石でしか見られません。
取石は静かなな住宅街で、私も住みたい地域でもあります。
お買い物等も便利で凄く生活しやすい場所だと思いますよ。
近隣で生活していますが、沼守さんは知りあいにはいなくて…取石に限定なんでしょうね。
是非に一度来てみてくださいね。
関西の夙村をやったらキリが無い
中国地方の神社の宮番と同じ
鳥取ループはアホ
私は,『藤井寺市史』第二巻,通史編二近世の執筆に携わった,元同市史の編纂専門委員です。そのため,現在藤井寺市域に含まれる各村に大量に残されていた近世文書を,約10年間くらい,原史料で直接読む機会に恵まれました。少なくとも,江戸時代の第一次的村方文書で被差別部落と明記されていたのは,沢田村の枝郷,字小林の「沢田村之内 夙村」だけでした。『藤井寺市史』第二巻に,江戸時代の沢田村の絵図の写真と,それをもとに作図された土地利用図が掲載されていますが,沢田村の村域の東端に,円状の堀で囲まれた空白の部分があります。この周囲と堀で隔絶された内部が「沢田村之内 夙村」で,原絵図にはズバリそのように明記されています。しかし,藤井寺市の方針で,同市史では,いわゆる差別用語はすべて消去されました。その理由は,隣接する河内松原や羽曳野などとくらべて,実は藤井寺市域には,被差別部落が圧倒的に少なかったからです。これが真実です。沢田村以外の村の原文書中で,被差別部落があったことが記されている史料に,私は出会ったことがありませんし,編纂会議においても,問題になったのは,上記の「沢田村之内 夙村」だけです。もし,沢田以外に被差別部落が存在したとすると,それは近代以降に形成されたものと考えざるをえません。
先日の『藤井寺市史』元執筆者です。補足します。江戸時代の沢田村については,幕末期の宗門改帳が多数残されていました。私たち編纂委員は,これらを綿密に調査しました。その結果,興味深い事実が判明しました。それは,江戸時代の沢田村の「本村」の住民は,1件だけを例外として,他の家々は,沢田にある真宗西本願寺派の極楽寺の檀家でした。そして,例外の1件桜井家は,江戸時代の初めから代々庄屋(名主と表記された史料もある,上州沼田藩の飛び地であったためでしょう)を務め,沢田名産であったブドウの生産を独占的に経営していた,沢田村の草分け的な家でしたが,この桜井家と,沢田村「枝郷」の「沢田村之内夙村」の住民全戸は,夙村内に真宗西本願寺派宗德寺があるのにも関わらず,八尾の「八尾御坊」(代々東本願寺門跡の連枝が住職を務めた格式の高い寺院)大信寺の檀家だったのです。この,沢田村本村の庄屋桜井家と「沢田村之内夙村」の全戸が,なぜ一般の沢田村住民と檀那寺が違うのか,この問題は,私たち編纂委員でも解明できませんでした。「沢田村之内夙村」の位置は,現藤井寺市国府の允恭天皇陵と,現藤井寺市沢田の仲津山古墳の丁度中間点辺りで,近鉄土師ノ里駅から南へ数百メートルのあたりです。住宅化が進む前の国土地理院の地形図や航空写真ではズバリわかります。また,現在の住宅地図でも,「沢田村之内夙村」を取り囲んでいた堀の跡がはっきりと読み取れます。江戸時代には沢田村の村内でしたが,現在の住所表記では,藤井寺市道明寺になります。また,林村は,沢田村とは北側で隣接しています。以上のように,かつての「沢田村之内夙村」が,周辺各村との境界に近いことから,現藤井寺市域に被差別部落がいくつか存在したという誤った情報が拡散されているものと,私は考えております。再度付け加えますが,私が同市史の編纂委員として,約10年間,毎月大阪に通って江戸時代の膨大な各村の文書を見た中で,林村に差別を受けているような住民が存在したことが記されている第一次的文書には,全く出会ったことがありません。明治以降,「沢田村之内夙村」が,旧林村の村域に存在したと誤記されたのではないかと思います。または明治以降,藤井寺市と隣接し,被差別部落が極めて多かった河内松原や羽曳野あたりから,差別を受けていた人々が,林村に移住して一集落を形成した可能性もあるかもしれませんが,ともかく江戸時代の林村村内に被差別部落が存在したという説は,九分九厘誤りと断言できます。「沢田村之内夙村」の住民は,ほとんど農業で生計を立てていましたが,「船頭」をしている家が存在していたことが記録された原史料が存在します。また,明治初年につけられた苗字で,現藤井寺市域に含まれる他の村にはない「沢田村之内夙村」の特徴的な姓は「辻本」さんです。私の印象では,私が同市史の執筆をしていた約20年ほど前の時点で,藤井寺市内では,差別問題はありませんでした。そのため,河内松原や羽曳野等の市史とは異なり,『藤井寺市史』では差別用語はすべて消去して,存在しなかったものとしてしまったわけです。最後に,私は当然ながら差別を容認するような立場のものではありませんが,誤った史実が拡散されていくことを危惧しています。私は現在,愛知県東部の三河地方に住んでいますが,愛知県内の被差別部落や被差別民についても,全くデタラメな歴史が孫引きされ,誤った史実が拡散されております。藤井寺市周辺の方が,正しい歴史研究をしていただけるように,元『藤井寺市史』の編纂委員である私は,あえて知っている事柄について投稿させていただきました。
「辻本」さんということは橿原市の洞部落との関連が考えられますね。洞も墓守の部落ですから。
本田豊によると愛知県下では津島神社が多くみうけられるとのことですが、「全国部落調査」や「愛知県下地方改善事業地区調査」を見る限り、津島神社との関連が裏付けられません。本田説は誤りなのでしょうか。
大変貴重かつ学術的なコメントをありがとうございます。
ということは、歴史的な意味では現在の道明寺1丁目、旧小林村の夙が、藤井寺市の唯一の部落ということですね。加筆しておきます。
愛知県東部の部落もぜひ探訪いたしたいと思います。
愛知県東部三河地方には,西部尾張地方の甚目寺・津島のような大規模なところはほとんど残っていません。知立市・豊川市(旧小坂井町)が比較的大きいですね。ネットの掲示板などの書きこみを見ますと,典拠もあやしいおかしな情報がほとんどです。一番肝心なことをほとんどの方が理解していません。それは,旧三河国には,江戸時代,天領をはじめ,20家ちかい大名家の本領・飛び地,80家以上の旗本家の本領・飛び地,それに家康公や三河武士たちの出身地であることから寺社領がたいへん多く存在しました。これらのおそらく数百にのぼる個々の領地は,小規模とはいえ独立した政治組織でした。だから,例えば,大きな旗本家の場合,陣屋を置き,そのそばに牢を設置し,「番太」と呼ばれた被差別民が1~数家あるという事例が,第一次的史料から数多く確認できます。また,新城市には,「陰陽師」が居住する村がありましたが(いわゆる指定地区です),この村の宗門改帳を調査すると,「本村」と陰陽師が居住する「山屋敷」は別帳として差別されており,また陰陽師たちの通婚関係は,前述の小坂井などの部落民にほぼ限定されています。つまり,江戸時代の三河国では,被差別身分の人々は分散して各地に居住しているものの,通婚関係などで横のつながりを持っていたというのが実態のようです。だから大規模な部落はなく,明治以降消滅していったのだと推測しています。実際,私も,同和教育なんて全く受けたことがありませんし,日常の生活でも,部落差別など全くないに等しいです。ちなみに,私は,江戸時代の武家の研究者であり,被差別部落史については全くの門外漢ですが,当然古文書が読めるので,第一次史料に基づいた部落史も,ある程度語ることができるわけです。
ぜひ愛知県の記事にも書いてください。
山屋敷や新屋敷は非人で陰陽師ではないですよ。
私のコメントをよく読んでくださいね。私は,確かに部落史の専門家ではありませんが,江戸時代の第一次的・同時代史料である「宗門改帳」を実際に読んで,書いているのですよ。歴史を研究する上では,第一次的史料に書かれている事柄は,そのまま受け止めなければなりません。
あなたは,その知識を,何から得ましたか?。第一次的史料にそう書いてあるのを,ご自分の目で見て,コメントされているのでしょうか?。もし,あなたが,部落史の専門家の著書等からその知識を得たとすると,それは「二次的資料」から得た知識ということですよ。なぜなら,その著者の「主観」が間に挟まれているからです。さらに,その著者の方が,自治体史や他者の先行研究から注を引用しているのであれば,その著書は,もはや三次的・四次的・・・資料であり,私たちのように専門的に近世史・江戸時代史を研究している者は,重要視しませんし,取り上げもしません。
ちなみに,第二次的・三次的研究書ではありますが,部落史の古典的著作といえる髙柳金芳氏の『江戸時代 部落民の生活』の巻頭図版には,『江都官鑰秘鑑』の「浅草弾左衛門由緒」が写真で紹介されていますね。おそらくご存じだとは思いますが,その第一次的史料では,陰陽師と非人は,他の被差別民とともに,おなじカテゴリーの中に隣り合って記録されています。前述のように,私は部落史については門外漢ですから,髙柳氏の同書が,現在,部落史研究家の間でどのような位置づけがなされているのかは存じませんが,「浅草弾左衛門由緒」で陰陽師と非人が同列で記録されているという第一次的史料を無視することはできません。
以下は,あくまで,私のこれまでの江戸時代史研究の中で持ち続けている問題意識ですが,たとえば穢多と非人を全く別物のように区別して考察する歴史観は,ナンセンスだと思います。江戸時代に穢多だったお宅のご子孫のお宅に江戸時代の同時代史料が現在まで残されているということはまずないでしょうし,非人とされていたお宅のご子孫の場合でも同様でしょう。つまり,第一次的史料が存在しない研究対象を研究するのは,想像や推測ばかりの研究に終わらざるを得ないからです。
ただ,私が旧三河国内に残された第一次的史料から断言できるのは,穢多も番太も陰陽師も非人も,それ以外の被差別民も,区別なく通婚関係を結んでいたことです。「宗門改帳」という第一次的史料に,そのように明記されているからです。
私は,興味本位ではなく,あくまで学術的に,江戸時代の武家について研究している者です。その点,ご了承ください。
ほう新説ですな
ぜひ論文をお書きになってください
私のコメントが「新説」であるならば,部落史・被差別民史は,たくさんの先行研究があるように見えて,その実第一次的文書に基づくしつかりとした研究がほとんどないということになりますね。あるいは,偏った歴史観をもつ研究者によって研究されてきたことの何よりの証拠です。私は,四半世紀の江戸時代史研究の中で,全く専門外の分野でありながら,第一次的史料から知ることのできたことを,そのままコメントしただけですからね。
白山神社や津島神社と被差別民との関係を研究されている方がいることは存じております。しかし,私の知る限りでは,これもナンセンスな研究視点です。たしかに,名古屋城下町東端の王子村(現中区新栄)の指定部落には,江戸時代から白山神社がまつられていたことは,第一次的史料である城下町絵図などから確認できます。被差別民が白山神社信仰を持っていたことは明らかでしょう。しかし,白山神社も津島神社も,私の住んでいる市および周辺を見渡しても,部落や部落民とは全く関係のなかった村むらに白山・津島神社が祀られているケースのほうが圧倒的に多いのです。しかも,岡崎城下町では,旧武家屋敷地区に白山神社が祀られていますし,大岡越前守忠相の先祖の本貫地であった,現安城市大岡町には立派な白山神社があり,江戸時代には大岡家からの信仰を受けておりました。さらに,德川将軍家の菩提寺大樹寺があった門前村には,その大樹寺の総門前の目抜き通りに白山神社があります。津島神社についても,のちに東京・青山の地名の由来となる,三河以来の青山家一統の本貫地百々村には,津島神社が祀られています。つまり,白山神社や津島神社は,むしろ武士階級の信仰を集めていたという揺るぎがたい事実があります。したがって,白山神社や津島神社が存在するからその村・地区は被差別部落であったという説明は,間違いであると言えます。
繰り返しますが,私は,江戸時代といっても,武家およびその家臣団を専門分野にしており,同じ江戸時代といえども部落史・部落民研究からは,最も遠い位置にいる者です。だから,研究史もほとんど知りませんし,論文なんて書く能力はありません。また,私は,父方先祖・母方先祖ともに全員士族という家に生まれ,育ちました。そのため,部落史・部落民研究を,偏りのない視点から描き出すことは不可能であろうと自覚しております。血です。
ありがとうございます。2つほどご教示ください。
1.知多市八幡に「穢多坂」という小字がありますが、旧賤民と関係しているのでしょうか?
2.愛知県の旧賤民の居住地を示す古絵図は「本多中務大輔家時代岡崎城下図」ぐらいしか私は存じ上げませんが、他にどのような絵図があるでしょうか?
よろしくお願いします。
1,現知多市については,第一次的史料を直接見た経験がないので,存じません。現知多市は,江戸時代には尾張德川家の領地であったわけですが,尾張藩は,地方知行制(上級・中級家臣に,俸禄として,蔵米ではなく領地を与える)を明治維新まで採用していました。加賀前田家や鹿児島島津家など,大大名家では,ほとんどそうでした。このきわめて基本的な史実も,ネットの掲示板などでは,ほとんどの方が知らないままで書きこんでいる印象を受けます。ここからは私の推測ですが,その当該の村が,尾張藩士の知行地であった場合,治安維持などのため穢多を居住させていた可能性はあるのではないでしょうか。
2,ご指摘の岡崎城下町絵図には,「エタ」・「猿屋」などの記述がありますよね。現在でも,この該当するあたりに,皮類専門店(かばん店)があります。ほかにもいくつか残されていますよ。一般の方でも刊行書籍でみられるものとしては,『西尾市史』所収の城下町絵図,奧殿藩の奥殿陣屋絵図(「番太小屋」が明記され,「番太」一軒が描かれています)あたりでしょうか。刊行されておらず,私たちのような専門の研究者でないとみられない絵図は,私も現物をかなり見てきました。一例をあげますと,現在の豊田市に領地・陣屋があったある旗本家の領地の一つであった村の幕末の絵図が現存しますが,この村には,のちに指定地区となる部落がありました。絵図をみると,「本村」から西へ細長い道を行くと,小さい集落が描かれています。はっきりとこの集落が被差別部落であるという記述はありませんが,大正以前のお生まれの地元の方に聞くと,ここが差別を受けていた部落であったことをみなさんご存じです。現在の,豊田スタジアムのあたりになります。なお,この旗本家は,陣屋のある村に,やはり牢を設置しており,穢多一軒がありました。このお宅のご子孫は,旧宅(土地の古老は「首切り坂と呼んでいます)のすぐそばに今でも住んで見えて,今では集落内で一番の豪邸にお住まいですが,三河国では極めて珍しい苗字です。
何かヒートアップしてますな。
山屋敷は非人で三河萬歳の集落ではありませんよ。
穢多非人三河萬歳に通婚関係は無いでしょう。
何か穢多と非人を混同している高須クリニックさんみたいですな。
申し訳ありませんが,二行目の文章の意味がよくわかりません。私は,まだ「三河萬歳」については,何も書いていないのですが・・・。ただ,武家文書を読んでいると,「三河萬歳」についての記述に行き当たることはありますし,私は,「三河萬歳」を専業にしていた部落についても,第一次的史料から把握しております。ただ,「三河万歳」は,現在でも地元では保存会があり,また小学校の学芸会でも恒例の出し物としているところがあるため,私は「三河万歳」の歴史に関する記述や発言はひかえるようにしています。
私のコメントをよく読んでくださいね。江戸時代の第一次的文書,現在でいえば戸籍に相当する「宗門改帳」に,穢多・非人・陰陽師などが,区別なく通婚していたことがズバリ明記されているのですよ。三河国では,新城市には指定地区をかかえていた村の「宗門改帳」が比較的多く残されており,私はそれらを直接見た経験からコメントしています。あなたは専門の研究者ではないようにお見受けしますが,新城市の「宗門改帳」を調査するだけでも,あなたのコメントが誤りであることが明確になります。ただ,現在では,専門の研究者以外では,原史料の閲覧は許可されないかと思います。
なお,高須先生のコメントがありましたが,高須先生のご認識のほうが,私は正しいと思います。高須先生のご先祖は,三河国幡豆郡(現在は西尾市)で,江戸時代より代々続く医家で,郷士でした(第一次的史料が現存します)。幡豆郡も,西尾藩の領地は二万石ほどで,あとは天領・大名家,旗本家領,寺社領が入り乱れておりました。私も,幡豆郡のある旗本家の陣屋詰家臣の日記の調査をした経験がありますが,やはり,陣屋のそばに牢があり,被差別身分のものが置かれていたと明記されています。穢多・非人などが各村に点在していたものと見てよいでしょう。高須先生のご世代ですと,ご両親や,祖父母から,直接被差別民のことを伝え聞いておられたのではないでしょうか?。その際,穢多も非人も別段区別なく伝え聞いておられたのではないでしょうか。「一般」の身分の人々が,明治以降,穢多も非人も区別なく伝承していたことのほうが,むしろ重要ではないかと,私はとらえています。
私は,『藤井寺市史』をはじめとする著書もあり,現在でもいくつかの『研究紀要』に毎年武家関係の論考を投稿している,一応専門の研究者です。ここでコメントを書こうと思ったきっかけは,たまたまユーチューブで,鳥取ループさんが,徹底したフィールドワークによる研究手法を取られていることを知り関心を持ったことと,かつて私自身も市史の編纂に携わった藤井寺市がとりあげられていたからです。また,繰り返しますが私は部落史は専門外であり,第一次的史料から知ることのできた史実についてだけはお答えできますが,そもそも「第一次的史料」という言葉の意味すらわからない興味本位で部落史を調べている方への質問には,解答不可能です。ご了承ください。
書く度に信憑性が無くなるからやめなさい
新城市や豊田市に指定地区はない
あんた5ch人権板を荒らしていた解同側の奴だな
豊田スタジアムで判った
何で顔写真が表示されたんだ?
愛知県に関してはこの人がいう二次資料に既出の絵地図文献ばかりであり新城市豊田市に指定地区はなく豊田スタジアムの場所に過去に穢多部落は無い
沢田村之内夙村が怪しくなってきた
この人
豊田市の上野山部落が豊田スタジアムの場所に有ったと書いて論破されて逃げた人
その後かなり二次資料を読み込んだのかなw
それより神奈川県南足柄市の関本は特定できるだろ鳥取ループ
この人か
https://blogs.yahoo.co.jp/tonomo_minamoto_s_0821/68873571.html
上野山部落が豊田スタジアムの場所に有ったは無理がある
ここのコメント欄で複数のハンドルを使い分けて暴れているのは旧名「打桐豊成」だろう?
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/rights/1484732721/
このスレではID:I5I0ogHca.netで暴れていた。
だからよ鳥取ループ
豊田市の上野山部落を特定してみろやw
「打桐豊成=AaA=ペ」さんは独自のフィールドワークをしているようだから、鳥取ループ氏に連絡して、一緒に愛知の部落を探訪すればいい。もし可能なら元藤井寺市史執筆者氏とも合流し、リアルで討論すればいいと思う。「おまえ解同だろ」といった、部落研究とは関係ない当てずっぽうには意味がないから。
・の本田豊信者の三品か
海外旅行したら絶対に日本人だとは言われないだろw
Aこと・の三品か鳥取ループ
やはり解同とはプロレスかw
暴れている?
正体を暴いただけだ
AaAって誰?何で西村ひろゆきのパクリサイトのscを貼るのかね?
掲示板はともかく,ここもこのレベルの人たちが読者なんですね。私は,江戸時代の武家の研究の中で偶然知ることのできた,部落史に関する第一次的史料をヒントとして提示することで,真面目に研究しようとしている人が部落史を大成されることを期待しているだけなんですけどね。私は,自分の武家にかんする研究だけで手いっぱいですからね。
ちなみに,私がコメントであげた第一次的史料の所蔵先だけはお伝えしておきます。史料を見せてもらえるのかどうかは,皆様の現在の社会的地位によるかと思いますが。
〇「沢田村之内 夙村」と明記された村絵図(延宝5年,1677)→市史編纂室解散後,藤井寺市沢田,元沢田村庄屋・沼田藩藩士格,松村様方に返却されています。沢田で一番の豪邸なので,すぐわかります。前述のとおり,『藤井寺市史』第二巻にも写真(386-387ページ)および土地利用図(392-393ページ)が掲載されております。「沢田村之内 夙村」の文字は,きれいに消去されていますが,夙村が円状の堀で囲まれていたことははっきりとわかります。なお,同市史第十巻(村絵図・地図集)も参考になるかと思います。
〇豊田市旧上野山村絵図→豊田市足助町,宇野樣方所蔵。
〇新城市「宗門改帳」→昭和47年の時点で261冊現存,各村および各村個人所有。その一部が『新城市誌資料XI 宗門人別改帳集成』(新城市教育委員会編)に所収されています。
では,江戸時代史の解明のためには,やはり避けては通れない正しい部落史を大成してくださる方が登場するのを期待しております。
部落研究者にはなぜか精神を病んでいる人が多くおりまして、このコメント欄にも異常な方が時々現れるので、気にしなくてもよいです。
たしか豊田スタジアムの場所は旧上野山村ではないと判明し君は逃亡したんだよね
彼女云々ブログは読んでいないが失恋は大変だね
新城市の被差別部落に関してはもっと役に立つ地誌があるのに知らないのか
お前が言うな鳥取ループ
はやく南足柄市関本に行け
もう場所は特定できておる
なら早く行けや
一緒に行きませんか?
鳥取ループ樣の徹底したフィールドワークは,第一次的史料が少ない部落史研究には,重要な研究手法といえます。今後も,各地の研究成果をアップしてください。
私も,藤井寺市史の調査をしていたころには,車で藤井寺市まで自転車を持ち込んで,自転車で藤井寺市旧全村のフィールドワークも実行しました。江戸時代の河内国大和川周辺の村むらは,当時の日本国内では極めて生産力の高い地域でした。持高百石クラスの百姓もゴロゴロいましたし,武家屋敷のような長屋門を構えたお宅が,あちこちにありました。
しかし,第一次的・同時代史料である「宗門改帳」よりも,著者や他者の研究の引用という「主観」が加わっている地誌のような第二次的・第三次的資料のほうが役に立つなどというコメントを見るとガッカリしますね。歴史学研究の研究方法を全くご存じでないまま,部落史研究というきわめて難しい問題に,興味本位で取り組んでいる方が多いということですからね。おそらく,私の長文を読み取る読解力もお持ちではない方々なのでしょうね。こういう方々の書きこみにより,誤った部落史の再生産が繰り返されていくことを,私は本当に危惧しております。
ここで写真がアップできるのであれば,上野山村の絵図の写真は今手元にありますし,沢田村の絵図のコピーも探せば出てくると思います。是非,私のコメントに疑問を持たれる方には,直接見ていただきたいですね。
上野山村の絵図は,前述のとおり,「本村」から西側にのびた道の先(矢作川東岸)に「枝郷」というかたちで部落が描かれているのですが,今の豊田市の地図に重ね合わせると,豊田スタジアムから豊田北高校あたりにピタリと一致します。現在の当該地域の町境は江戸時代とは大きく変わっており,上野町ではなく,近年つけられた町名になっています。
私は武家の研究者であり,また会社経営者でもありますから,部落史に関するコメントを書いてばかりはいられません。ご指摘があったように,5ちゃんねるに上野山村に関する情報を書きこんだのは私です。「逃げた」などと言っている方は,私がヒントとして紹介している新城などの第一次的史料を,ご自分の力で調査してみてください。ただし,江戸時代の文書がご自分でお読みになれない方は,そもそも部落史のような難しいテーマを研究する資格はありません。せいぜいご自分の読解力でお読みになれる部落関連の本でも読んで,ご自分の頭の中だけで,部落史の空想でもして,娯楽の範囲内にとどめ,書き込みなどはしないでくださいね。
画像は下記のようなサイトにアップロードしてURLを貼っていただければと思います。
https://imgur.com/
よろしくお願いします。
追記
自宅史料庫で探してみましたら,今ほど「沢田村之内 夙村」と明記された延宝年間の絵図のコピーが見つかりました。市史掲載前の,「沢田村之内 夙村」の部分が消去される前の,原図のコピーです。
専門的かつ真剣に部落史研究をされている方で,ご覧になりたい方は,コピーを送付いたします。
豊田市上野山絵図についても同様です。
画像添付機能をコメント欄に追加しました。
Choose Fileボタンを押してみてください。
1,延宝5年沢田村絵図(原図,藤井寺市沢田松村家文書)のコピー
2,同上,「沢田村之内 夙村」の部分の拡大
3,説明図
4,『藤井寺市史』第二巻所収の同絵図(「沢田村之内 夙村」の文字が,何の断りもなく消去されています。)
5,上野山村絵図(豊田市宇野家文書)
6,同上,説明図
以上を添付したつもりですが,私は極度の機械音痴であるため,もし添付できていなければお知らせください。
くれぐれも,正しい部落史の研究という目的にのみご利用ください。
上手くできていないみたいですね。とりあえず,沢田村絵図(原図)をもう一度アップします。
「沢田村之内 夙村」の拡大図。円状の堀で周囲を囲まれていたことがお分かりいただけるかと思います。私の執筆した当時(20年くらい前)は,堀の一部が残っていました。
上野山村枝郷とは君の加工以外は何処にも書いていないね
そこの三河では珍しい姓を書いてみたら?
三河の探訪はバツイチの48歳の古物商さんと行けよ鳥取ループ
一次資料に当たれない奴は書くなとは鳥取ループを含む殆んどに当てはまるな
ぺ樣
遠方でなければ,豊田市の上野町(かつての本村)の80歳くらいの古老の方に直接お話を聞かれると良いですね。おそらく,「あそこ(私が枝郷と書いたところ)のドームのところだよ。」と,教えてくれますよ。中には,「えったさん」なんて言われた古老もいました。豊田市は,トヨタの本社があるため,県外からの移住者のほうが人口が多いので,そのような方たちではなく,先祖代々上野や周辺の寺部・高橋あたりにお住まいの古老の方なら,おそらくご存じです。私は,豊田市内に領地をもっていた大名家や旗本家についてもかなり調べましたが,同じくこのあたりの歴史を調べている郷土史家の方たちの間では,上野山村の当該地区(矢作川東岸)に部落民がいたことは当たり前すぎて,話題にも上らないくらいなんですよ。今日は4時半迄は時間に余裕があるので,私でわかる範囲でしたら,質問にはお受けしますよ。
あと,せっかくなので,「沢田村之内 夙村」についても,なにかご意見がありましたらお願いします。
ぺ樣
質問に答え忘れましたね。ただし,私のコメントをよく読んでくださいね。三河で珍しい姓の元穢多であったお宅は,上野山村ではなく,上野山村の領主であった旗本家が,陣屋を置いていた別の村に住んでいました。前述のとおり,そのお宅のご子孫はいまでもお住まいですが,その姓は「東京の若者の街」〇〇〇の地名と同じです。わかりますよね。
藤井寺市なら惣社も物件安いし何かありそうな感じがしますがどうでしょうか?
昔は惣社という地名自体が藤井寺市には無かったですよね。
4樣
前述の『藤井寺市史』第十巻(絵図,地図,航空写真など掲載)所収の文政年間の現藤井寺市市域の絵図で判明します。まず,同市史から,絵図の写真をあげます。
つづいて,絵図の同じ個所を活字にした図も上げます。
『藤井寺市史』第十巻は,このように絵図の写真と,活字化されたページが掲載された,贅沢な作りです。藤井寺市域の各町の字名とその境界まで記され,江戸時代の絵図と現代の絵図を重ね合わせて場所が特定されるようになっています。
すいません。写真1枚目の図と,2枚目のが逆ですね。つづいて,私が説明を加えたものをあげます。この絵図は,江戸時代後期の文政年間のものになります。
「沢田之内」は,原図では,ズバリ「夙」と書かれております。市の方針で消去されました。
しかし,ここで話題に上っている,林村の「瀬ケ井」には,当該地域に「林村〇〇」のような枝郷の記録はありませんね。
同じく,国府村の「惣社」にも,「国府村□□」のような枝郷の記録がありません。
つまり,現在の藤井寺市惣社は,すくなくとも江戸時代には,被差別部落は存在していなかったことが,第一次的史料であるこの絵図から確認できます。林瀬ケ井も同様ですね。そして,この江戸時代後期の現藤井寺市域の村むらで,被差別部落が存在したのは,「沢田村之内夙村」のみであったことが,この絵図からお分かりいただけるかと思います。
この村絵図のような,第一次的史料・絵図の調査が極めて重要であることがお分かりいただけたかと思います。
なお,同『藤井寺市史』第十巻には,河内国の村絵図が写真と活字化されたページで掲載されておりますが,現藤井寺市域はむしろ例外で,周辺の河内松原,羽曳野,柏原,八尾などの現在の市域には,「何々村之内〇〇」みたいな被差別部落が多すぎて,所収の写真も,わざと鮮明度を下げてあります。活字化されたページでは,全部消去です。私が紹介した沢田村の延宝絵図は,第十巻の刊行(平成3年)の調査段階では発見されておらず,掲載されなかったため,平成14年刊行の『藤井寺市史』第二巻に写真を掲載した次第です。
二点
尾張名古屋藩領の豊田スタジアムに上野山の飛び地の穢多屋敷が存在するのか
全国調査の時点での上野山は仮に飛び地が有ったとしても既に上野山とは呼ばれず上野山本村ではないのか
寺部と渋川村による旗本領の上野山に対しての総合的や差別か
なぜ一次資料さんは上野山だけにこだわったのか
新城市山屋敷の陰陽師は論外
影目とか茂津目とかか
これ一次資料を見られないならば特殊部落について語るな書くなの
もろ解放同盟側からの批判
ぺ様
三河国内に尾張藩領が存在したことはご存じということですね。ならば,私の説明はご理解いただけると思います。
私があげた江戸時代後期の上野山村絵図で,本村から西へ細長く道が伸び,枝郷が矢作川東岸に接していたことは,写真からご理解いただけましたね。ちなみに「枝郷」という言葉は,江戸時代の同時代史料としても使用されましたが,近世史研究の上では,学術用語としても使用されることをご理解ください。沢田村の夙村も,絵図には枝郷とは書かれていませんね。しかし,江戸時代の領主沼田藩への提出文書では,「同村枝郷夙村」と明記されています。
私が上野山村の絵図上で「枝郷」と示したところは,現在の地図と重ね合わせれば,豊田スタジアムや豊田北高校のある現豊田市広川町・千石町に当てはまることもご存じですね。広川町は,元は寺部村の一部,千石町は渋川町の一部であることも当然ご存じですね。寺部・渋川両村は,尾張德川家附家老,寺部陣屋の渡辺氏の領地でした。だから,あなたの言われるとおり,現豊田スタジアムから豊田北高校あたりは,大部分尾張藩領というご認識で正しいです。しかし,第一次的史料である,豊田市宇野家所蔵上野山村絵図にはっきりと書かれているように,尾張藩領を突き抜けるように細い道が西に通じていて,その尾張藩領に取り囲まれた矢作川東岸の一画が存在したことはお分かりいただけますね。そこが上野山村の被差別部落であったわけです。
江戸時代の村絵図と,現在の地図を重ね合わせて調査するのは,江戸時代・近世史研究を専門的に学んだ人間でなければかなり難しいのです。なぜなら,江戸時代の村には,飛び地や入会地が大変多かったからです。だから,第一次的史料である江戸時代の村絵図を綿密に調査する必要があるわけです。
二つ目のご質問は,よく意味が分からないのですが,上野山村の枝郷であった地区が,なぜ,いつ頃現在の町名になったのか,ということでしょうか?。おそらく土地区画整理事業などが実施されて,旧上野山村枝郷地区は,千石・広川町域に編入されたということではないでしょうか。これは,私も第一次的史料を見ておりませんので,あくまでも私の推測です。
なお,前述の,旗本家陣屋そばに居住していた〇〇〇家について,私の研究調査にも度々ご一緒された郷土史研究家の方が,〇〇〇家の檀那寺で過去帳の原本を調査しておりますが,そのお宅のご先祖たちは,はっきりと「穢多」と明記されているそうです。
あなたは,現在,何を生業とされている方ですか?。このような時間帯に書き込みができるということは,会社員や公務員ではなさそうですね。書き込みやご質問の内容を見る限り,専門の歴史学の研究者とも思えません。くれぐれも,私がここで述べたことを,軽々しく興味本位で拡散しないでくださいね。
私は,会社(4事業)の代表で,なおかつ専門の研究者でもありますから,いつでも比較的時間が取れるのですが。
あのな1935年の調査時点で仮にお前が言う上野山の飛び地が有ったとしても
全国調査の上野山では無い
あなたの日本語,よく意味が分からないのですが(笑)。なぜ,あなたは,矢作川東岸の,豊田スタジアムあたりに被差別部落があったことを,認めたがらないのですか?。
ちなみに,伏字にしたのは,渋谷(しぶや)さんです。
伏せ字は部落解放同盟か?
学術なんだから伏せ字はやめろ
お前は辻本姓を出している矛盾
辻本姓にフラれたか
被差別部落の史実に色恋の個人的な恨み辛みはやめろよ
追記
現新城市市域内の,ある村の「山屋敷」の「宗門改帳」。
陰陽師は,その他の被差別民と通婚していました。宝飯郡小坂井村については,もはや説明の必要もないでしょう。「片ノ原」(形原)村や「有海」は,のちの指定地区。形原の部落は,土地の古老から,「川殺生」などの漁民部落と聞いたことがあります。
新城市のある村の「山屋敷」の「宗門改帳」
まず
何で陰陽師が禅宗なのか
さっぱり解らん
インチキ陰陽師の非人だから山屋敷と謂われる
ぺ様
まんまと私が投下した「時限爆弾」に当たってくれましたね。
「インチキ陰陽師の非人だから山屋敷と謂われる」と明記されましたね。写真の「陰陽師」が非人で山屋敷と謂われると書きましたね。
実は,この写真,新城市「有海村 地之内 山屋敷」の表紙に,同市川路村の「陰陽師」・「陰陽師類」あわせて八軒の丁をくっつけて撮影しました。そして,あえて村名を黒塗りしてアップしました。ぺ様の史料読解力を試させていただくためです。
川路村の陰陽師らは被差別民でしょうが,「山屋敷」とは,川路村の「宗門改帳」には書いてありません。
まんまと引っかかっちゃいましたね(笑)。
但し,新城市には数百の「宗門改帳」が現存し,それらを丹念に調査すると,被差別部落民たちが,その呼称にとらわれず,通婚関係を結んでいたことは明らかです。
なんで学術で伏せ字にするのか
一次資料を見ていない論外が擦り付けるのか
地名を消さなかったならば具体的に何が陰陽師やと具体的に反論できる
お前は何なんだ48歳で失恋した古物商
これ初歩の初歩
有海の三件屋敷の番やろ
何がこんなもんで穢多非人三河萬歳の婚姻関係なんや?
さっぱり解らん意味不明やな
ぺ様
あなたのコメントを見ていると,学術的に研究されている方ではなさそうですね。
学術的に歴史研究をされている方なら,例えば新城市教育委員会などに問い合わせ,閲覧を申し込めば,自ら思う存分調査できますよね。まぁ,それなりの社会的地位がないと無理ですが(笑)。
それで,あなた,何のお仕事されているの?。部落史研究の目的は?。ご自分が被差別部落民の子孫だからですか?。私は,水平社とか解放同盟とか同和などについては全くの素人なので,決してコメントはしません。
ただ,武家の研究の中で読んできた,とてつもなく膨大な第一次的文書の中から,被差別部落に関するものについてのみコメントしているだけです。同じ江戸時代でも,私は部落史は全くの門外漢。それでも,以上のように,部落史に関する第一次的史料を紹介できるわけです。専門的に研究している者は,自分の専門外のテーマについても,これぐらいの知識を持っているんです。お医者様と同じですね。
あなた方のように,第二次的・三次的書籍やネットの書きこみなどで,興味があるところだけつまみ食いして書き込みをしているような素人への質問には,今後,お答えしません。
逃げたな嘘つきw
学術的?w
お前やw
新城市有海はお前が見下している奴以下の初歩の初歩や
これ緑が丘の小椋さんか
こいつは人権板で偽の養老の歴史を語る偽もっこすにしか見えない
まず二点
尾張名古屋藩領の矢作川岸に上野山の革鞣し部落が存在するかと
そしてもし有ったとしても1935年の全国調査で上野山部落と謂われるのかと
形原や有海は指定されてないからなアホ
だからお前なんか信用されない
こいつの市史編纂と自称武家は嘘やな
限り無くするQEQ臭さ
なにが一次資料や
上野山には行ってもいないな
今後,お答えしません。ってさ~
も~書くだけ無駄だよ~
このぺという人,何者ですか?。
私は,『藤井寺市史』の執筆をしたころの,編纂委員しか知りえない事実をコメントしたり,同じく同市史の編纂委員であったからこそ入手できた,沢田村の絵図の写真を見せつけられても,このぺというかたは,「市史編纂は嘘」などと言っていますね。たぶん,私の長文による説明を読むだけの読解力がないのでしょう。発達障害かな?。
そして,自分の興味のある語句のあたりだけ拾い読みしてコメントしていることがバレバレです。
それから,私は,父方は江戸時代以降德川氏幕臣,明治以降靜岡藩士,靜岡藩士族となった家系,母方は,參河奧殿(信濃龍岡)藩家中で,龍岡藩士族となった家系。ちなみに,今の3歳年上の二度目の連れ合いも,偶然ながら尾張德川家の家中,名古屋藩士族の末裔です。父方・母方双方から受け継いでいる刀・脇差・鎧甲冑,また親交のあった同じく元幕臣で靜岡藩士であった勝海舟伯や山岡鉄舟居士の書が数点残されて今に続いています。さらに,「士族」と明記のある「士族明細短冊」や壬申戸籍の謄本なども現存します。
Facebookでも紹介しているので,あなたが信頼できる方なら,いくらでもご覧になっていただけるのですが,とてもあぷなかっしいので,躊躇します。ご自分のコメントが,私によって次々に破滅に追い込まれていくため,嫉妬しているのでしょうか。または,ご自分のご先祖が部落民であったことから,元士族の当家に対してジェラシーでもおもちなのでしょうか?。
あなたのような歴史学研究法の素人には,早大大学院博士課程まで在籍して研究法を会得した私には,論破することなど逆立ちしてでもムリです。このぺという人,何者ですか?。
私は,『藤井寺市史』の執筆をしたころの,編纂委員しか知りえない事実をコメントしたり,同じく同市史の編纂委員であったからこそ入手できた,沢田村の絵図の写真を見せつけられても,このぺというかたは,「市史編纂は嘘」などと言っていますね。たぶん,私の長文による説明を読むだけの読解力がないのでしょう。発達障害かな?。
そして,自分の興味のある語句のあたりだけ拾い読みしてコメントしていることがバレバレです。
それから,私は,父方は江戸時代以降德川氏幕臣,明治以降靜岡藩士,靜岡藩士族となった家系,母方は,參河奧殿(信濃龍岡)藩家中で,龍岡藩士族となった家系。ちなみに,今の3歳年上の二度目の連れ合いも,偶然ながら尾張德川家の家中,名古屋藩士族の末裔です。父方・母方双方から受け継いでいる刀・脇差・鎧甲冑,また親交のあった同じく元幕臣で靜岡藩士であった勝海舟伯や山岡鉄舟居士の書が数点残されて今に続いています。さらに,「士族」と明記のある「士族明細短冊」や壬申戸籍の謄本なども現存します。
Facebookでも紹介しているので,あなたが信頼できる方なら,いくらでもご覧になっていただけるのですが,とてもあぷなかっしいので,躊躇します。ご自分のコメントが,私によって次々に破滅に追い込まれていくため,嫉妬しているのでしょうか。または,ご自分のご先祖が部落民であったことから,元士族の当家に対してジェラシーでもおもちなのでしょうか?。
あなたのような歴史学研究法の素人には,早大大学院博士課程まで在籍して研究法を会得した私には,論破することなど逆立ちしてでもムリです。
付記 当家先祖が元幕臣・靜岡藩士で会ったことを示す第一次的史料「士族明細短冊」の写真を紹介します。
写真
靜岡県士族の「明細短冊」です。
すいません。他家のものを送信してしまいました。我が家のものはこれです。
そんなもん古物商しとったら手に入るわアホ
ぽ樣
子孫の家に伝わったほかでは,まず手に入りません。私は,古美術商・古典籍商の経営者でもありますが,買取や市で,過去25年間,一度も見かけたことがありません。また,市などで仕入れ,商品として販売しても,よほどの専門家の方しか購入はされないでしょう。
あなた,そもそもここで見るまで「士族明細短冊」という第一次的史料が存在することをご存じでしたか?。こんなコメントをされる方ですから,ご存じではなかったのでしょうね。
元藤井寺市史執筆者様
ご返信ありがとうございます。
惣社は違うのですね。惣社には以前住んでおりましたが、葬儀屋等、香ばしい雰囲気でしたので・・・
柏原市には被差別部落は無いという認識なのですが、実際はあった、ということでしょうか?
4樣
お答えします。結論から言うと,現柏原市域には,第一次的史料から,10か所以上ありました。
前掲『藤井寺市史』第十巻には,「河内国国絵図」が,正保・元禄・天保と掲載されています。とりあえず,現近鉄柏原駅周辺の部分の,市史所収の写真と,活字化された図をあげます。
元藤井寺市史執筆者様
ご回答ありがとうございます。
認識と異なる回答で非常に興味深いです。
つまりは現在の柏原市域に事実上の被差別部落はあったが現代では誰も知らない、ということですね?
具体的な場所を教えて頂けませんか?
直接メール等でやり取りできませんでしょうか?
無理でしたらここでも構いません。
「ペ」は「打桐豊成」「ℵ」「犬神差別」「宮番」といったハンドルを使い分けて示現舎ブログに書き込んでいるが、文章が異常に下手なのですぐ同一人物とわかる。特に愛知県や静岡県の部落に関心があるらしく、彼なりにフィールドワークをしているようだが、日本語が崩壊しているので何を言おうとしているのかよくわからないことが多い。人権板の古くからの常連ということ以外は全く正体不明である。
ひょっとしたら人権板の古いコテハン「御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg」と同じ人なのかな。この人は「松阪市東町出身。現在は四日市市赤堀に在住」「祖父は朝鮮人、母方は部落民」といわれている。
https://tmp6.5ch.net/test/read.cgi/rights/1152445829/434
https://tmp5.5ch.net/test/read.cgi/rights/1120236293/
https://tmp6.5ch.net/test/read.cgi/rights/1186986400/78
活字化された部分です。
前述ですが,市史所収の写真は,差別用語を読み取りにくくするために,わざとピンボケにしてあります。
活字化されたページの方をご覧ください。「柏原村之内 」,「柏原村之内 」とありますね。これらの地名は,原図では,「柏原村之内今村」,「柏原村之内古村」と,実は明記されているのです。前述の「沢田村之内 」と同じですね。周辺の市よりも圧倒的に被差別部落が少なかった藤井寺市の方針で,差別用語はすべてカットでした。
現在の柏原市域を見渡してみますと,このように「何々村之内〇〇村」と書かれた村が,十数か所確認できます。前述のとおり,写真がかなりピンボケにしてあるので,「〇〇村」の部分は,『藤井寺市史』第十巻からでは読み取れないところがほとんどです。この「天保国絵図」は,現在宮内庁書陵部所蔵のため,専門の学者でないと閲覧は難しいでしょう。ただ,『藤井寺市史』の活字化されたページを見れば,どこの村の枝郷が被差別部落であったことは,はっきりとわかります。
つまり,江戸時代の現柏原市域に存在した村むらには,被差別地区がかなりあったと確定できます。
すいません。これが活字化された絵図です。
元藤井寺市史執筆者様、いつも貴重な第一次的史料に基づく学術的な考察には驚かされています。大変勉強になります。
私は、最近郷土史に興味を持ち地元和泉を中心に摂河泉あたりの歴史や街道を調べているうちに、タブー視されて情報が極端に少ない被差別部落の事実を把握しなくては全体像が分からないと思い、現在勉強中です。
基本的なことなのですが、ずっと疑問に思っていた事なのですが、「〇〇村之内◎◎」と記載されている地域は多いですが、全て当時は被差別部落だったと考えてよいのでしょうか?
もしよろしければ、ご教示いただけませんか?
元藤井寺市史執筆者様の様な経歴をお持ちの方も稀だと思います、一般の立場では絶対に触れられない様な資料に基づくお話には凄く興味があります。 今後とも、よろしくお願いいたします。
和泉守様
ご存じかもしれませんが,『藤井寺市史』第十巻(村絵図・地図・航空写真)に,「河内国村絵図」が掲載されております。しかも,ご丁寧に,全絵図写真を掲載し,活字化までしてあります。平成3年刊行なので,私が藤井寺市史の編纂に携わり始めた時期には,すでに完成していた巻です。著名な地理学者京大教授の故足利健亮博士が編集代表です。同巻所収の「河内国村絵図」には,おびただしい数の「何々村内◎◎」という村があります。◎◎の箇所は,「夙」であったり「古町」であったりと様々ですが,『藤井寺市史』では掲載写真をわざとぼかして見づらくし,活字化されたページでは,何の断りもなく,全か村不自然に空白にしてあります(上に写真をあげました)。ということは,足利先生以下,この巻の執筆・編集に携わった方々の間では,「◎◎」の部分は,差別的な呼称ととらえていたことになります。
愛知県三河地方の場合でも,「何々村枝郷」のような記載は見かけますが,私の知る限りでは,三河国における枝郷という表現は,被差別地域ではなく,本村から分家などによって独立した人々が村落を形成していたというパターンが圧倒的に多いです(被差別部落を枝郷と呼称しているケースも,極めて少ないですが,存在はします)。
専門的にご研究のようですね。ひとつお伝えしておくとすれば,私が『藤井寺市史』の通史編を執筆していた当時の,同巻近世代表者は,近世史学者としては著名な故佐々木潤之助博士でした。博士がつねづね私たちに語っていたのは,江戸時代の摂津・河内,特に大和川周辺の村むらは,当時の日本では,有数の生産力の高い豊かな地域であった,ということでした。三河国は,実は生産力では全国でも最下位くらいでした。渡辺や堺市の塩穴(でしたっけ?),京都の崇仁のようなバカでかい被差別地域が存在しえたのは,関西地方の流通経済の豊かさにあったと,私は推測しています。したがって,交通の要衝であり村方金融の中心ともなるような豊かな村には,各地に被差別部落が存在したものと思います。『藤井寺市史』の第二巻のうち,実は沢田村は私が調査担当で,執筆もしました。上記沢田村絵図を所有されている,現藤井寺市沢田の松村さんのお宅は,幕末期の建築ですが,武家屋敷のような門構えで,本宅は3階建てで総漆喰というたいへん豪華な作りとなっています。松村家は,幕末から大坂道頓堀に出店を出したり,領主上野沼田藩からは藩士の格式を与えられていましたが,明治初年の地券を私どもで集計したところ,沢田村内外で40町歩を超える大地主でした。河内国には,このようないわゆる「豪農」があちこちにいました。それだけに,後々まで,村方における身分の階級化が現存していて,被差別部落が数多く残ったのかなぁと,私は推測しています(あくまでも私の推論です。もう『藤井寺市史』第二巻の刊行から,15年以上たちますからね)。
A様
ぺさんは,そういう方なんですね。ぺさんのコメントに,私が第一次的史料をあげて否定すると,かなり感情的になって,典拠のあやしいコメントを書き,どんどん墓穴を掘っていきましたよね。すくなくとも,せいぜい第二次的・三次的な書籍や掲示板で得た典拠の全くおかしい情報を書きこむことができる程度の人間で,ご自分で江戸時代の原文書を読むことは全くできず,フィールドワークも,小心のビビりで,ズバリの地域に立ち入る勇気もないんでしょうね。ここでのコメントでよくわかりました。
柏原市の今町、古町がそうだとうことですか?
ごめんなさい、見方がわかりませぬ
グレープ様
すいません。私が間違えて,「村」と記入してしまいましたが,原図では,「柏原村内今町」,「柏原村内古町」とよめますね。申し訳ありません。ただ,市史掲載の河内国絵図は,これくらいわざとぼやかして,なるべく被差別地区をわからないようにしていたということです。
この絵図が所収されている『藤井寺市史』第十巻は,平成3年の刊行で,私たちが執筆した『藤井寺市史』第二巻よりも十年以上前に調査・執筆がなされたわけで,私たちは,足利先生をはじめ,当時の市史編纂担当者の方々とは直接面識がありませんので,なぜ「今町」や「古町」まで活字ページで消去したのかは,聞いておりません。ただ,はっきりしているのは,前述のとおり,『藤井寺市史』ではいわゆる「差別用語」は一切消去という編纂方針であったということです。したがって,「柏原村内今町」や「柏原村内古町」は,江戸時代以来,差別を受けていた地区であるというのが,足利先生以下の担当者の方のご認識ということになりますね。
しかしながら、現在の今町とは場所が異なっております。
地図のとおりですと恐らく、柏原村之内今町の場所は本郷かと思われますがどうでしょうか?
柏原市にBは無いと認識しております。
柏原市にはないですよ
勝手なこと言わない方がよろしいかと
グレープ様
江戸時代の「今町」と現在の「今町」とは,区画整理などで,場所が移動している可能性はありますね。また,江戸時代の絵図は,きちんと縮尺を計測しているわけではありませんからね。私は愛知県在住でしたし,藤井寺市以外の市については,詳しく調べたわけではありませんから,土地勘もないため,柏原市については,第一次的史料にかかれている以上のことは,述べる資格は無いと心得ております。
柏原民様
柏原民様の言われることには一理あります。私が上であげた河内国絵図は,江戸時代後,天保年間のものです。そして,市史で活字化されている図面で,「柏原内今町」のように,「今町」の部分が不自然に空白になっているような村については,足利健亮先生以下編纂者の方々が,江戸時代には被差別地域であると認識していたということです(くれぐれも,私の意見ではありませんからね)。よって,天保年間以降,消滅したり周辺の一般の地域と融合した被差別地域が存在したと考えれば,現在の柏原市域にはないという言い方もできますね。私が現在住んでいる愛知県東部のある市も,江戸時代の絵図をみると,被差別地域が存在したことはズバリ書かれているのですが,今現在では全く痕跡はなく,同市民も,自分の町に被差別部落があったことなんて全く知らない方のほうが断然多いです。関西のように,同和教育もまったくありませんしね。だから,柏原民様のようなご認識でよろしいのではないかと思います。
元藤井寺市史執筆者様が閲覧された国絵図とは以下のものでしょうか?
元禄国絵図 河内国
https://dotup.org/uploda/dotup.org1876327.jpg.htm
元禄国絵図 和泉国
lhttps://dotup.org/uploda/dotup.org1876321.jpg.html
天保国絵図 河内国
https://dotup.org/uploda/dotup.org1876335.jpg.html
DLpassはすべて92
もし「○○村之内◎◎」が被差別部落の呼称になるなら、被差別部落のない現枚方市などは、被差別部落だらけになってしまうのですが。
健様
私のコメントをよく読んでから質問してくださいね。私がコメントで使用したのは,『藤井寺市史』第十巻所収の天保期の国絵図です。たしかに,「何々村内◎◎」と書かれた地区が,大変多いですね。そのような記述の◎◎の部分が,『藤井寺市史』では消去され空白にしてあるのです。この巻は平成3年刊ですから,当時の足利健亮先生以下の編纂担当者は,◎◎のような記述のある地域を,差別されていた集落であるとご認識であったということになります。繰り返しますが,私はそれに関する第一次的史料を直接見てはいないので,断言はできません。私の推測になりますが,江戸時代には被差別地区がそんざいしたものの,その後消滅したということではないでしょうか。
今回,かなり久しぶりに,『藤井寺市史』第十巻所収の,天保の河内国絵図を見たのですが,あらためて「何々村内◎◎」のように記された地区が相当多いことに驚きました。
そして,大切なことに気づきました。一般の村には,すべて「村高」が記入されているのですが,「何々村内◎◎」のように記された,おそらく差別を受けていた地域については,村高記載が一切ないのです。これはどういうことかというと,これらの村は田畑からあがる年貢を納める必要がなかった,ということです。私の推測になりますが,何か特別な生業をもっていたのではないかと気づかされました。藤井寺市沢田の夙村の住民に「船頭」がいたことは前述しましたが,実は,夙村と「鋳物師」の関係を示す史料も残されていました。
関西地方の被差別部落史を調べるうえで,かなり重要なテーマとなるのではないでしょうか。
私は,もう三河の武家に関する原稿で手いっぱいなので,どなたか解明していただけることを期待しております。
なんかコメントが「承認待ちです」と表示されたので再送。
元藤井寺市史執筆者様が見られているのは下記の国絵図でしょうか?
元禄国絵図 河内国
https://dotup.org/uploda/dotup.org1876321.jpg.html
元禄国絵図 和泉国
https://dotup.org/uploda/dotup.org1876327.jpg.html
天保国絵図 河内国
https://dotup.org/uploda/dotup.org1876335.jpg.html
○○村之内××と書かれているのがすべて被差別部落であれば、部落のないはずの枚方市や交野市まで部落まみれになると思いますが。
「枝郷」と「枝村」このちがいが判ってらっしゃらないようですね。
元藤井寺市史執筆者様の解釈で言いますと、「王子村枝郷南王子」は石高が記載されているので、「部落ではない」と言うことになりますね。
健様
天保の河内国絵図になります。「何々村◎◎」と表記された地域がとても多いですよね。前述のとおり,この国絵図が所収されている『藤井寺市史』第十巻をご担当された,足利博士以下の担当者の間では,◎◎のような表現は,差別語であったと認識されておられたということになります。
私は地元ではないのでよく存じませんが,現在,枚方や交野には部落がなかったと言われているとすれば,私の住む愛知県の某市と同様,江戸時代には存在したが,その後消滅したとしか言えませんね。
枝郷と枝村は,江戸時代の原文書でも,現代の学術論文でも学術用語として使用される言葉で,江戸時代の専門的な研究者の間でも,たいした意味の区別はしておりません(部落史専門の方は違うかもしれませんが。部落史専門家の方々は歴史観が偏っているケースがほとんどなので,私たちのような江戸時代の武家の研究をしている者は,あまり相手にはしていません)。また,これらの言葉自体には,差別的なニュアンスは含まれていないと,同市史第二巻担当の前述佐々木潤之助博士もつねづねいっておられましたよ。
王子村枝郷南王子は,石高記載があるということは,検地を受けており,年貢地を持っていたという,ただそれだけの話です。石高記載がない地区は,検地を受けていない(検地の行われていない土地に,よそから被差別民が移住してきて集落を形成した)か,検地は受けたが例えば皮革生産の代償として無年貢地にしてもらっていたか,など,それぞれの当該村々について第一次的史料にあたらないと何とも言えないですね。市町村市などの自治体史は「第三次史料」であり,あてになりません。『藤井寺市史』についても,そのあたりの事情は説明した通りです。きわめて難しいですが,当該の村で,江戸時代から明治初年くらいまでの原文書を探すしかなさそうですね。
健様が,もし専門的に部落史を研究しいている方ということであれば,是非,解明していただきたいと思います。これまでの部落史の先行研究をひっくり返すような新説が出てくる可能性を,私は感じています。
再送のURLにダウンロードパスの記載を忘れていましたね。
DLpassは92です。
元藤井寺市史執筆者様
なるほどね、だから解釈がおかしくなっているのですね。
「枝郷」と「枝村」の違いは意外と重要なのですよ。その後の近代において神社の社格の違いになる程度は。
国絵図を読み解く上で、あなたは大事なものを見落としていませんか?
それは、郷帳です。
国絵図の石高は、郷帳を写した(転載)したものですよ。
そしてその郷帳に石高が記載される最小単位が「村」です。なのでその下の単位である「枝村」は石高が記載されません。
そこで私が例に出した「南王子村」を見てください。南王子は「枝」でありながら石高が記載されていますよね。しかし枝は枝でも違いがあります。それは「枝郷」であると言うことです。
そうです「郷」は「村」の上の単位なのです。「南王子村」は被差別部落ながら一村で独立した立派な「村」なのです。
現代で言えば、市、区、町の違いとでも言うべきでしょうか。(実際は、市区町の違いでもないですが)
と言うことで、眠いので次回気が向いたときに。。。つづく?
健様
貴重なご意見,ありがとうございます。農村史・部落史をある程度専門にご研究され,江戸時代における村について,基本的な事柄はご存じの方とお見受けしました。「郷帳」からのご指摘は,素人にはなかなかできませんよね。
ところで,南王子村は,ご存じかと思いますが,『旧高旧領取調帳』(同書も安易に引用されますが,厳密には第二次的史料です。)でも独立した村として記録されていますね。ちなみに,德川家「御三卿」一橋家領とありますね。
「枝郷」南王子村と明記されている第一次的史料が存在するということでよろしいですか?。
私は,前述のとおり,江戸時代の武家が専門であり,大学・大学院時代は,前述の佐々木博士や,百姓一揆研究者として著名な深谷克己博士のゼミに所属していながら(ここまで書いたら,大学名わかりますよね。東京の「都の西北」にある,あの大学です),村や百姓についてはほとんど興味はなく,不勉強です。
そこで,『藤井寺市史』第五巻所収「沢田村高反別差出帳」(享保15年,前述藤井寺市沢田松村家文書,51-60ページ)をほぼ20年ぶりに読み直してみました。沢田村が,領主上野沼田土岐氏に提出したものの控えです。同史料によれば,
(前略)
一 穢多無御座候 ←この「穢多」はなぜ消去されなかったのか不明。私が沢田
村を担当するはるか以前,昭和57年刊ですからね。
一 煙亡無御座候
一 猿牽簾竹無御座候
一 当村枝郷夙村 東江三町 ←『藤井寺市史』では,「夙村」の部分は,原史
料には明記されているのにもかかわらず,何の
断りもなく消去されています。
(以下略)
と書きあげられています。 「沢田村之内夙村」は,「枝郷」と明記されていますね。しかし,「沢田村之内夙村」が,独立した「村」として,その村高が記録されているような史料には,私は出会ったことがありません。当然,前掲『旧高旧領取調帳』にも,独立した村として記録はされていません。
「枝郷南王子村」は「郷帳」に村高が記載される一方で,享保年間の沢田村についての第一次的史料である,領主へ提出された差出帳では,夙村のことが,はっきりと「枝郷」と明記されているのです。
あなたの主張される,「郷」は「村」の上,という主張は,中世ならともかく,江戸時代においては,以上の枝郷南王子村と,(沢田村)当村枝郷夙村の事例からもわかるように,「枝郷」という言葉が,「郷帳」に記載される村であり,「沢田村之内夙村」は「郷帳」には記載されない「郷村」であるから南王子村より下位,という説は,たったこの一事例からも誤りであることが証明できます。もし,あなたが「郷帳」と河内国絵図をもとに,ご自分の主張を第一次的史料から証明するためには,相当な数の村むらを調査する必要がありますが,おそらく無駄な調査です。近世史研究では,私が前述した通り,「枝郷」と「枝村」の二つの言葉には,綿密な区別は認めておりませんし,肝心の同時代,江戸時代でも,上記で見た通り,特に区別なく使用されていた同時代用語なんですよ。
以上のことから,あなたの立論は,残念ながら第一次的史料から判断する限り誤りであることが明白です。
繰り返しますが,前述のとおり,我々のように専門的に江戸時代史を研究している者の間では,「枝郷」と「枝村」というふたつの言葉には,大きな差異は認めていないのです。
お分かりいただけたでしょうか?。
あと一点,「南王子村」は,江戸時代も一世紀を過ぎようとしている,元禄年間
に,本村王子村から独立した村ですよね。太閤検地や,その後の検地で形成された村ではありませんね。これは重要ですよ。なぜなら,元禄年間に,為政者側が被差別村を新設したともとれるからです。
しかし,あなたくらいの専門的な知識をお持ちの方とここで議論できるのは,楽しいですね。ネット上の書きこみなどは,ほぼ九分九厘,何にもわかっていないど素人ばかりがやっておりますからね。
元藤井寺市史執筆者様
一つ一つご丁寧に解説いただきありがとうございます。
やはり、「何々村内◎◎」の◎◎には、そういった意味があったりするのですね。河内国、和泉国と古地図をみたところやはり村高が無いですね。やはり、そういうことだったのですね。沢田に「船頭」に「鋳物師」とは…驚きました! これも史料に触れられる立場におられたからの情報ですね。ありがとうございます。渡辺や崇仁、和泉の塩穴、南王子等は、全国的には珍しい大規模なものとは聞いていたのですが、それは経済力によるものだったのですね。藤井寺市沢田の松村さんの40町歩!を超える大地主というのも驚きました。
つい先日三河の方に行く用があり、岡崎や安城、碧南あたりの街並みを見ていたのですが、関西でよくある、「知らなくとも、そういう地域だと気付く」事もなく、勿論そういう地域が面積比で少ないというのもあると思いますが、関西とは全く趣が異なっていて、村の成り立ちが違うからという事なのですね。(今となれば、三河は農業に加えてトヨタもあり随分豊かな様ですが…(笑))
いただいた情報を参考にさらに学んでいきたいと思っております。お忙しい中、色々と教えていただきありがとうございました。
和泉守様
是非,ご研究を大成させてください。
しかし,コメントがここまで専門的になってくると,ぺさんのような,全然何もわかっていない人のコメントが,しょぼく見えますね。逆に目立ちますね(笑)。
元藤井寺市史執筆者様
ありがとうございます。
又、教えていただくこともあるかと思いますが、その際はよろしくお願いいたします。
…とはいえまぁ、まだ約1日ですが静かになりましたね(笑)
和泉守樣
私が本物の第一次的史料を随分あげたので,「これは太刀打ちできない」と思ったのでしょうね。まさか本物の研究者がかコメントをここに書き記すとは,予想すらしていなかったのでしょうね。
元藤井寺市史執筆者様
いつも貴重なお話をありがとうございます。
研究が捗りとても感謝しております。
メールでの直接のやり取りは出来ませんか
[email protected]
無理でしたら大丈夫です。
4樣
申し訳ありません。私は4事業を手掛ける会社の代表であるため,まだ知り合って数日という方とはメールのやり取りはお断りします。ご了承ください。
元藤井寺市史執筆者様
ご返信ありがとうございます。
興味深く深入りしてしまい失礼致しました。
柏原市の被差別部落に関しては初めて聞いたことが多く、目から鱗です。
本郷という地名の隣接地域が怪しいかと思っております。
また藤井寺市の川北は昔の方々はややこしい地域だと口をそろえて言いますね。
大和川を挟んで唯一の藤井寺市域なのが川北です。
肥料工場などもあり、香ばしい雰囲気がしますがどうでしょうか?
4樣
藤井寺市川北の地名は新しいものです。
ご存じかと思いますが,大和川は,江戸時代に大規模な付け替え工事が行われました。今の河道より北部に流れていました。だから,現藤井寺市川北は,江戸時代には大井村・舟橋村の一部であったのです。新大和川の付け替えで,村域が分断されたわけです。
そこで,天保の河内国絵図をご覧ください。「大井村之内◎◎」とか「舟橋村之内◎◎」なんていう地区は,記録されていませんね。したがって,すくなくとも江戸時代には被差別部落ではなかったと断言できるでしょう。
ただし,近代以降,大和川北側に,貧困層の方々が流入して,被差別部落のような様相を示していた可能性はありますね。あくまで私の推測ですけどね。
鳥取ループ樣
私の長文コメントのせいで,こんなふうになってしまいましたが,よろしかったですか?。
私自身,むろん,鳥取ループさんのことは直接存じ上げておりませんし,実は,どのような活動を展開されているのかも,ユーチューブで見たくらいで,ほとんど存じ上げません。
私は,専門である江戸時代の武家に関する文章を書く時には,徹底した「同時代用語」主義を貫いています(『藤井寺市史』では,何か所か,編纂室の手によって消去されましたが)。穢多・番太・非人・猿屋・ポン・おんぼさんなど,第一次的史料に書かれている通りに記述します。それは,私自身,こうした人々のおかげで,江戸270年の平和という,世界に誇れる我が国の歴史が下から支えられていたという史観を持っているからです。私の原稿執筆に対し,差別的だなどと言われるのは,大変不愉快です。史実を追い求めているだけです。
『藤井寺市史』でお世話になった地域だけでも,今まで述べてきたくらいの知識は持ち合わせておりますが,地元の三河地方については,藤井寺の場合と比べて,ゆうに数十倍の知識と第一次的史料を調査できる立場におります。三河国については,被差別部落史の研究者は極めて少なく,正しい第一次的史料に基づいた研究は,皆無に等しいですね。5ちゃんねるなどを見ると,もうメチャクチャです。誰か,専門家が登場してくれるのを,期待しているのですが。
私自身は、古文や歴史はあまり得意ではなく、図書館等で珍しい資料を見つけるか、部落探訪して住民に聞くくらいしか能がありません。アカデミックな議論は読者の方々にお任せしております。
元藤井寺市史執筆者
柏原市に部落があるとかさすがに無理があるね
あるって本当に思うなら中途半端な言い回し辞めてはっきり言いなよ?
言えないよね、ないもん
あまり適当言ってると正しい事まで信じれなくなっちゃうね
三田様
私のコメントをよく読んでから,ご自分のご意見を書きましょうね。
現柏原市域に,江戸時代,被差別地域があると判断されたのは,私が『藤井寺市史』に携わるようになった頃よりかなり以前の,平成3年刊行の『藤井寺市史』第十巻をご担当されていた,当時の編纂委員の方がたです。私は地元の人間ではないし,当時の編纂委員の方とは面識もないので,現柏原市域に,江戸時代,被差別部落があったかどうかはわかりませんが,同市史第十巻のご担当の先生方の判断に従うのならば,江戸時代には存在したことになる,そして現在では消滅しているかもしれないと,書いたはずです。
『藤井寺市史』第十巻刊行に携わった方たちが,現柏原市に含まれる「何々村内◎◎」のような表記がある十か村ほどの地域について,活字の翻刻ページで◎◎の部分を消去という処置を取っているため,当時の編纂委員の方々は,現柏原市域にも,江戸時代,差別を受けていた地域が存在していたと判断されていた,と私は書いたはずですよ。『藤井寺市史』では,差別用語はすべて消去という編纂方針でしたからね。これについても,前述ですね。
あなたは,柏原の話題が出て以降の部分だけ拾い読みしてコメントをしているようですね。あなたが専門の研究者ではなく,また江戸時代史に関する知識を十分にお持ちではないことがバレバレになっていますよ。かりに,真面目に真剣に歴史に向き合う気持ちがあるのならば,まず私のコメントを,はじめから全部よく読んでからにしてくださいね。同じことを何度も繰り返して説明するのは,私もしんどいですから(笑)。
元藤井寺市史執筆者です。
私は,愛知県東部のある市に住み,4事業をてがける会社の代表です(会社事務所は岐阜県)。また,江戸時代のある研究分野においては,それなりに知られており,全国の方からお問い合わせがあるほか,現在も,論文2編,電子書籍1冊,書籍1冊の執筆中で,ある地元の研究会での講師も依頼されております。自分が経営者であるため,一般のサラリーマンの方と比べれば,時間は取りやすいのですが,最近,ここのコメントに時間をかけすぎているように思います。
したがって,今後は,学術的かつ真剣に史実を追求していることが明らかな方のコメントへは,詳しく丁寧にお答えさせていただきますが,この直前の方のように,そのように真面目に歴史に向き合っているとは考えにくいコメントや,差別の助長を面白半分に書いているコメントに対しては,「白痴」とだけ返答することにさせていただきます。ご了承ください。
「江戸時代には存在したことになる,そして現在では消滅しているかもしれないと,書いたはずです。」
過去に存在した事実が消滅する事は無いですよ?
いかがお考えでしょうか?
「現柏原市に含まれる「何々村内◎◎」のような表記がある十か村ほどの地域について」
本当にそのような村をご存知なら十か村を教えて頂けますか?
「ここのコメントに時間をかけすぎているように思います。」
あなたがここで長々書いている文章が元来蓄えている知識だとするならば、コメントする事は容易かつ時間もかからないと思うのですが・・・?
学術的かつ真剣に史実を追求しているのならば、当然この程度の事は蓄えておられますよね?
「差別の助長を面白半分に書いているコメントに対しては,「白痴」とだけ返答することにさせていただきます。ご了承ください。」
白痴という言葉は差別用語ですが。
ブーメランが刺さっていますよ、恥ずかしくないですか?
あなたには最後まで説明する責任がると私は考えます。
何故なら、最後まできっちりと書かないのならば、最初から書くべきではないからです。
ご回答よろしくお願い致します。 三田
三田樣
お答えします。
まず,江戸時代の現柏原市域に,「何々村内◎◎」と記録された村が十数か所あることは,天保の河内国絵図(宮内庁書陵部所蔵)から読み取れることは,私のコメントからご理解いただいていますね。また,この絵図の写真とそれを活字化したものが,平成3年刊行の『藤井寺市史』第十巻に所収されていることも,前述なのでご理解いただいておりますね。そして,その同市史第十巻の写真は意図的にピンボケにして読みにくく加工されていること,また活字化されたページでは「何々村内◎◎」の◎◎に相当する部分が,消去されていることもご理解いただいていますね。だから,現柏原市域で差別を受けていた地区を知るための一番簡単な方法としては,同市史第十巻の活字化された国絵図から,◎◎の部分が消去されている現柏原市域に含まれる村を拾えばいいだけの話です。これは,『藤井寺市史』第十巻を用いて,ご自分でやってみてください。「こんなにあったんだ。」というご感想を持たれるはずです。同市史で,国絵図の写真が,意図的にピンボケにしてある理由です。なお,繰り返しますが,藤井寺市では,差別用語は同市史中では消去という方針であったことも前述のとおりですが,平成3年刊行ということは,その数年前から調査・編纂活動がされていたということですが,その当時は,私がまだ『藤井寺市史』の仕事に携わるずいぶん前の時期であり,同市史第十巻をご担当された故足利健亮先生以下,当時の編纂担当者の方々とは,私は直接面識がありません。だから,第十巻において,「何々村内◎◎」の◎◎の部分を活字のページで消去された理由は,私にはわかりませんが,すくなくとも第十巻の編纂担当者の方々は,◎◎の部分に書かれた「今町」や「古町」などの用語を,差別的な用語とご認識であったことだけははっきりしておりますね。そのように,「何々村内◎◎」のように記された地域が,同市史第十巻をみると,現柏原市域にも十数か所あるということです。江戸時代の現柏原市域に,差別をうけていた地区があるというのは,私の個人的意見や推測などではなく,同市史第十巻の編纂をされた先生方のご認識ということです。前述なので,しっかりと私のコメントを読んでください。
また,あなたが言われるように,現在の柏原市域に,差別を受けていた地域が現在では知られていないということであれば,江戸時代には差別を受けていたものの,その後,住民の移住や本村などの周辺の村と融合して消滅したとしか,説明のしようがありませんね。私の現在住んでいる愛知県のある市も,江戸時代には被差別地域が存在したことは当時の絵図などに明記されているのですが,現在では全く消滅していて,それらの地区を特定することすらできません。
「白痴」という言葉について,私はすくなくとも差別用語とは認識しておりません。差別用語とは,それを使用する人間の認識によって変わってくるものです。かりに,あなたが,「白痴」という言葉を差別用語とご認識であるのであれば,ロシアのドストエフスキーや日本の坂口安吾の同名の名作「白痴」も差別用語ということですか?。私は,ここのコメントをみていると,「白痴」という言葉でしか表現できないような方が数名おられるため(言わなくてもあなたならわかりますよね),今後,そういう方のコメントには「白痴」とだけ答えることに決めたわけです。
あなたはどのような社会的立場の方か存じませんが,私は前述のごとくです。ただ,『藤井寺市史』の執筆も20年も前のことであり,ここでコメントを書く際にも,誤りのないよう,再度同市史および当時の調査資料を参照してから書いております。「沢田村之内 夙村」と明記されている江戸時代の村絵図も,よく保存してあったなと,自分でも驚いているくらいです。沢田村の江戸時代の文書の写真帳およそ300冊も,市史編纂室解散後引き取りてもなく,私の自宅の倉庫に眠ったままです。「夙村」にかんする史料もかなり含まれているので,地元大阪で本当に研究されたいという方がいるなら,お譲りしたいです。私は,武家の研究で手いっぱいで,関西の村の歴史をやっている時間は全くありませんから。現柏原市域の村に関する史料もかなり含まれていたはずですから,あなた,引き取っていただけませんか(笑)。ただでさえ本業に加え,江戸時代の武家研究という専門分野について日々研究している立場です。あなたは,真面目に部落史研究に向き合っておられる方だと判断したため,こうして長文のコメントをお返ししております。
三田様
天保の河内国絵図について,今,詳細に調べてみました。
藤井寺市以外の周辺の市については,市境を正確に覚えていなかったので(20年前の仕事ですからね),現柏原市域ではなく,八尾市や羽曳野市域についても,柏原市域と数えてしまっていた村・地区がありました。十数か村は多すぎました。訂正してお詫びします。八尾や羽曳野はとても多いですね。
現在の柏原市域の地図と,『藤井寺市史』第十巻所収の河内国絵図を照らし合わせた結果,現柏原市域で確定できたのは2か村3地区でした。
以下の3地区ですが,この3地区は,『藤井寺市史』第十巻の当時の編纂担当者が被差別地域と認識していたことになります(くりかえしますが,私の認識・判断ではありませんからね)。
◎柏原村内今町(『藤井寺市史』の活字のページでは,「今町」は消去されています)
◎柏原村内古町(同上)
◎国分村之内田邊(同上)
「今町」・「古町」・「田邊」は,差別的な表現とは思えませんが,同市史編纂担当者が活字ページで消去しているため,被差別地区と認識していたことになります。
私は,以上の3地域にはいったことはありませんが,地元の方からみて,現在はどんな感じですか。やはり「消滅」していますか?。
なお,同絵図では,「沢田村之内夙村」は記載されておりません。したがって,現柏原市域においても,江戸時代には差別を受けていた地区で記載漏れとなっている地区があった可能性があります。
横槍で申し訳無いのですが大変興味深く感じましたので質問させて下さい。
また、今日現在まてまここに書いて頂いておりますコメントは全て読んだ上での質問です事、ご了承下さい。
今町古町田邊の三ヶ所が江戸時代に差別を受けていた可能性がある、ここは理解しました。
そこで質問ですが、近隣の羽曳野市は
何ヶ所あり、また場所はどことなっていますか?
大変恐縮ですが、元藤井寺市執筆者様の認識が誤っている可能性が考えられます。その場合、藤井寺市、柏原市の見解も誤りとなります。
ご回答をお願い致します。
古墳研究会様
まず,私のコメントに関して,基本的な事柄を誤読されているようなので指摘しておきますが,『藤井寺市史』第十巻(平成3年刊)所収の天保の河内国絵図の写真およびその活字化された図で,「何々村内◎◎」と記された部分の◎◎の部分を差別されていた地域と認識し,消去したのは,私が藤井寺市史の仕事に携わるより以前の,故京大教授足利健亮博士を中心とする,第十巻の編纂委員の方々ですよ。私は,その第十巻に基づいてコメントしているだけです。それについてはご理解いただいていますか。つまり,「柏原村内今町」,「柏原村内古町」,「国分村之内田邊」を江戸時代に差別されていた地域と判断したのは,私ではありませんよ。お分かりですか?。
それで,お尋ねの羽曳野市についてですが,『藤井寺市史』第十巻所収の河内国絵図では,藤井寺市の市史であるため当然と言えば当然ですが,河内国全域の写真・活字化された図が掲載されているわけではありません。そのため現羽曳野市域全域については何とも申し上げようがありません。今,同市史第十巻と現在の藤井寺市・羽曳野市周辺の地図を見比べながら書いているのですが,まず「古市村之内◎◎◎」が目につきました。同市史掲載の写真は,前述のとおりかなりぼやかしてありますので,◎◎◎は読めません。ただ,活字化されたページでは◎◎◎の部分は消去されていますから,当時の第十巻の編纂委員の方は,この地区が江戸時代に差別されていたと判断されたことだけは間違いないですね。繰り返しますが,私の判断ではないですよ。あと,丹下村は,現羽曳野市市域でしょうか?。同村には「丹下村之内夙村」があり,写真のページからもうっすらと読み取れます。活字化されたページでは「夙村」は消去されています。また,「宮村之内小宮村」も,写真のページからうっすらと読み取れます。活字化されたベージでは「宮村之内」とだけあり、「小宮村」は消去されています。また,「碓井村之内新町」も写真のページからうっすらと読み取れますが,活字化されたベージでは「新町」は消去されています。
現羽曳野市域についても,私は土地勘がないため,同国絵図から全村を拾うことはできません。この宮内庁書陵部所蔵の河内国の国絵図の原図が現在閲覧可能であるのかはわかりませんが,閲覧可能であるのならば,是非,あなたが調査されるべきです。逆に,私が教えていただきたいです。
私は江戸時代の武家が専門であり,農村史や部落史は門外漢のため,ここでは第一次的史料からいえることだけをコメントしています。
私が執筆を分担した『藤井寺市史』第二巻は,第十巻の刊行よりも十年以上後の刊行であり,前述のとおり第十巻の編纂委員の方々や編纂室の方々とも全く面識がありません。ただ,『藤井寺市史』の編纂方針として受け継がれていたのは,差別用語の消去でした。沢田村の延宝の絵図を土地利用図として作図したのは実は私なんですが,私が作図した時点では,原史料に忠実に「沢田村之内夙村」という言葉が書かれていました。ところが,編纂室長がその図を見て,「これは消さしてもらいます。」といいながら手際よく(笑)修正テープで消去されたことは,今でもよく覚えています。だから,『藤井寺市史』第二巻の,私が作成した図では,「夙村」を囲む円状の堀はわかりますが,その内部に書かれていた「沢田村之内夙村」の部分は,空白にされています。
返信ありがとうございます。
「何々村内◎◎」と記された部分の◎◎の部分を差別されていた地域と認識し,消去したという根本的な部分が誤認識ではないかと私は疑っています。
これに関しては資料等一切なく、あくまで思い込み、想像の域を出ないと私は考えます。
差別的な理由で消したと断言出来る理由が聞きたいです。
ただ、誤解して欲しくないのですが、私は貴方様にとても興味があり、尊敬すらしております。
これほどの知識を持たれた方に初めて出会いましたので。
元藤井寺市史執筆者様
コメント内でアップされた「天保の河内国絵図」と私がうpろだに上げた「天保国絵図 河内国」は同じものではないでしょうか。(原版と版ものの違いはあるかもしれませんが)
私が上げたものは某所で公開されているもので、1983年に国の重要文化財に指定されているものを写真複製されたものです。(元禄国絵図を含め3枚とも)
添付画像は両者を重ねたものです。
元藤井寺市史執筆者様はコンデジ(たぶんソニーDSC-W200)でピントがボケるまで接近して撮影された物ですよね。なので。今町付近はほぼ一致していますが外へ向かってずれが大きくなっています。これは撮影時の被写体に対する角度とレンズの歪曲収差によるずれだと推定しました。
もしスキャナーで複写できるのであれば、確認のため、できれば上げなおしてほしいと思っています。
古墳研究会様,健様
なんだかここのコメント欄の記述が,極めて専門的かつ学術的になっていきますね。最初の方の,おそらく「〇痴」と思われる方の書き込みが,逆に気の毒なくらいですね(笑)。
「夙村」はともかく,「今町」や「新町」などは,全く差別地区の呼称には思えず,私自身も,なぜ『藤井寺市史』第十巻の編纂をされた方が,写真をわざわざピンボケにして読みにくくし,活字翻刻のページではすべて消去されたのかは,私にはわかりません。ただ,市史編纂室の方のお話では,『藤井寺市史』では,通史編・史料編ともに,差別的な言葉はすべて消去という方針で,編纂が続けられてきたそうです。
天保の国絵図は,同じもののようですね。ズバリ「今町」とありますね。私がアップしたのは,ソニーのデジカメで撮影したものです。
私は,会社経営者でありながらいまだにガラケーのみという,極端なほどの機械音痴でして,今うちにあるレーザープリンターでスキャンできるのか,やったことがないのでわかりません。
本日はもう遅いので,明日以降,試みてみます。
私は江戸時代の武家の研究者であり,部落史は全くの門外漢ですが,古墳研究会様や健様は,すくなくとも「第一次的史料」の重要性をしっかりと理解されている方とお見受けします。私にとっては専門外とはいえ,江戸時代を研究する上では,部落史についての知識は当然必要です。今後とも,ご教示いただければと存じます。
元藤井寺市史執筆者さん
羽曳野市の向野地区が削除されていない時点で貴方の見解は間違いかと
西光万様
私が繰り返し書いているコメントを,まだご理解できていないようですね。
天保の河内国絵図において,「何々村内◎◎」と記載されている地域の◎◎の部分を,活字のページで消去した,つまり差別されていた地区との見解をもっていたのは,平成3年刊の『藤井寺市史』第十巻の編纂委員であった方々ですよ。当時,私は,まだ藤井寺市史の編纂委員ではありませんでした。私は,ただ,同市史第十巻に基づいて,皆様にお伝えしているのみです。
私は,その十年以上後の平成14年刊の『藤井寺市史』第二巻の執筆者ですよ。おわかりでか?。ここまで説明してもお分かりにならないとすると,あなたも白痴に近いですよ。
それはさておき,あなたは新しい情報をくれましたね。あなたのコメントに従えば,向野地区には差別を受けていた地区が存在したということですよね。上記の天保の河内国絵図では,向野村には「向野村内◎◎」のように記載された地区はありません。ただ「向野村」とだけ記載されています。
これは,大変重要なコメントをいただいたと言えます。というのは,前述のとおり,天保の河内国絵図には「沢田村之内夙村」の記載もありません。私が沢田村の延宝期の絵図の原史料の写真をあげて証明したように,沢田村には,江戸時代,間違いなく「夙村」が存在していました。
以上の事柄をまとめると,これらの羽曳野市内の一か所,藤井寺市内の一か所の記載漏れというたったふたつの事実から,考察の範囲を河内国全体に広げた場合,天保の河内国絵図には,本来「何々村内◎◎」と記載されるべき差別を受けていた地域の記載漏れが,かなりあると推測せざるをえなくなるからです。
私が『藤井寺市史』第二巻の調査・執筆をしていた当時,編纂室の方々から,「藤井寺は少ないが,隣の羽曳野や河内松原,八尾は,被差別部落がとても多い。」と常々聞かされておりました。あなたのコメントは,現羽曳野市域には,天保の河内国絵図では記載漏れとなっているが実際には差別を受けていた地域がかなりあった,ということを言いたいわけですよね。とても示唆的なコメントです。やはり,あなたも,現羽曳野市域には,現藤井寺市域とは比較にならないほど,たくさんの被差別部落があったとお感じであるということになりますね。
「やはり,あなたも,現羽曳野市域には,現藤井寺市域とは比較にならないほど,たくさんの被差別部落があったとお感じであるということになりますね。 」
違います、あなたの言っている地域は差別地区ではない可能性が高いですよと教えてあげているんですよ。
では、あなたの思う羽曳野八尾松原の被差別部落の地名を、持っておられる資料を参考にここに書いてもらえますか?
ここを見ている大多数の方々は、羽曳野八尾松原の被差別部落の場所を知っています、有名ですから。これが合っているならば、信ぴょう性は高まります。
皆が知りたいのは柏原市藤井寺市の差別地区です。
ですが肝心要の元藤井寺市史執筆者 さんの見解が間違いならば意味がなですので。
西光様
白痴。
『藤井寺市史』第十巻(平成3年刊)で,天保の河内国絵図における「何々村◎◎」のような記載の◎◎の部分を,江戸時代における差別を受けていた地域と判断され,活字のページで消去したのは,当時の第十巻の編纂委員の先生方(代表,足利健亮京大教授)。
私は,平成14年刊の同市史第二巻の執筆者。この人は,第十巻の記述が,私の判断・見解ではないということが,まだ読み取れていない。
『藤井寺市史』第十巻(平成3年刊)で,天保の河内国絵図における「何々村◎◎」のような記載の◎◎の部分を,江戸時代における差別を受けていた地域と判断され,活字のページで消去したのは,当時の第十巻の編纂委員の先生方(代表,足利健亮京大教授)。
はっきり言ってこの見解が誤りですよ。
差別的な活字を消去したというのは貴方の判断・見解すよね。
白痴という言葉で逃げないでくださいね。(笑)
あまりにもレベルが低いですよ。(笑)
今後,私は,江戸時代の武家政治に関する大著の執筆にとりかかりますので,こちらでは,白痴レベルのコメントには全く無視します。
そして,今からあたしがあげる問題に対し,第一次的史料から,なんらかのご意見にたどり着く方が,登場することに期待しています・
問題は,
『宮内庁書陵部所蔵 天保年間河内国村絵図において,差別されていたとみられる地域の書き洩らしが諸所に見られても良い理由はなぜか。』
※専門的かつ学術的なコメントをお待ちしております。
※特に専門的に部落史を調べている方であれば,極めて基本的な事柄です。
元藤井寺市史執筆者
『藤井寺市史』第十巻(平成3年刊)で,天保の河内国絵図における「何々村◎◎」のような記載の◎◎の部分を,江戸時代における差別を受けていた地域と判断され,活字のページで消去したのは,当時の第十巻の編纂委員の先生方(代表,足利健亮京大教授)。
はっきり言ってこの見解が誤りですよ。
差別的な活字を消去したというのは貴方の判断・見解すよね。
白痴という言葉で逃げないでくださいね。(笑)
あまりにもレベルが低いですよ。(笑)
言い訳ばかりしていないで早くお答えになった方が早いかと。
答えをお持ちでないならなら仕方がないですがね。(笑)
元藤井寺市史執筆者って人は軽度の発達障害の疑いありですね
不必要な文脈が長く非常に読みづらい
話している回答も支離滅裂すぎてがっかりしました
元藤井寺市史執筆者は逃げちゃったみたいですね。
元藤井寺市史執筆者はタンカきったくせに途中で逃げたねwww
明らかに発達障害が書いたような文脈だったし予想通りだが、がっかりだね
被差別民を歴史研究のテーマとして考えることの困難は、部落問題という政治的問題によるものが大きいな。
歴史的研究がイデオロギーへの奉仕に捧げられて、解放同盟史観とでも言うべきものから逸脱すると見なされたものは、差別の名の下に攻撃される。
もはや被差別民の解明は不可能に近いんじゃないだろうか。
アロハさん、そうですよね。結局どういう組織に属しているかで主張が変わってしまいます。なので、組織とも関わりのない研究家の方の情報が貴重なんだと思います。
日本の様に民主主義が確立された自由な表現が保証されている国では、ありえない意図的な事実誤認(中傷)以外は言ってもいいと思うのですが…
短いコメントで個人を感情的に批判する方も居ますが…ちゃんと根拠ある事実を示した上での批判をできるだけの知識のある方であれば、研究者の方も、それを受け入れていると思うのですがねぇ…
そういった問題提起をされているのがこのブログだと思います。
私も、単に郷土史を調べたいだけなのに、もしかしたら『差別する側』なんて認定されてしまったらつらいです。(これも差別なのでは?)
歴史の真実というのは、本当に偏見のない立場で見なくてはならないので、本当に難しいものですよね。自戒も込めて書かせていただきました。
あれから,私は,資料を調べなおしましたが,認識に数々の,誤りが見受けられました。
私の完全なるミスではあります。
私は,白痴レベルのコメントをした事を.お詫び申し上げます。
元藤井寺市史白痴執筆者って結局はただの発達障害だったのな
読み返すと支離滅裂すぎて大爆笑ですわ
結局誤った情報を書き込んで追及され答えられなくなり逃げた白痴
そう言えるだけの知識をお持ちの方であれば、具体的に何が間違っていたか指摘したらよろし
批判だけなら、ほうれん草でも、空き缶でもできるよ ポッポ~
藤井寺だZ
誤った知識を,ネットの世界に書き込むこと,が一番の悪であり批判されても,止む無しでしょ?
憶測で適当に書きこむだけならそれこそ健常者なら誰にでも出来ますから。
あと,ほうれん草と空き缶、これらの物は,批判する事が出来るのでしょうか?
ちょっと言っている意味が分からないですね、白痴ですか?
西光万様
それ、たぶん成りすましですよ。
私のコメントにも、成りすましが1つあります。
まあ実際の所、元藤井寺市史執筆者さんの書いてる地区は部落ちゃいますわ
柏原市えた村はおまへんよってに
ほうれん草 蓮舫?
空き缶 管?
でっしゃろ?
辻元がおらんのは残念やけど
ポッポ~ははとぽっぽで元首相だね!おじさん
元藤井寺市史執筆者はこれの同一人物か、なりきり
愛知の人間で藤井寺の編纂に関わっていると言っている
愛知県史 のあきれた実態 長屋隆幸の資料編23近世9維新における小学生レベルの史料誤読
https://ameblo.jp/nijuwafutatsukarigane/entry-12450552303.html
なぜ,ここまで追求するのかというと,私(柴田)自身も,早大の院生時代より,大阪府の『藤井寺市史』の通史編の調査・執筆を経験しており,自治体史の編纂の現場を見ているからです
詳しいのでしたら教えていただきたいです。
メール、いただけませんか?
[email protected]
元藤井寺球場研究家はとんだインチキ野郎だったな
石川左岸の善正寺のある藤井寺市瀬ヶ井と 石川上流左岸の富田林市の若松町との間で、昔争いがあったようです。石川に死牛が流れてきたのを瀬ヶ井が処理したのを、若松から抗議され、訴訟となったようです。
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中世史愛好家氏ご指摘の点の補強。
氏の挙げられた2点目の資料『信太山地域の歴史と生活』は、タイトルで検索すると本の正誤表がヒットして表が見られますが、「瀬ヶ井」以外の村も、すべて江戸時代のえた村です。
元史料の『大阪府南王子村文書』(1976)で確認できますし、一人でも一ヶ所でもないので、原本の記入ミスや読み取りや翻刻のミスとは考えにくいです。
同じ南王子村文書(奥田家文書)を使った研究に、『歴史研究 (19)』(1978年)所載「竹皮値下げ運動をめぐって」がありますが、48頁 51頁に瀬ヶ井村が他のえた村と連携している一次史料が掲載されています。
4点目は「柴屋文書」を元にしていますが、こちらは原文が載っていません。
なお、『富田林市史 第2巻 (本文編 2)』570頁にも、宗門改帳から整理した女房の出身地の表があり、「志紀郡 1」があります。
『藤井寺市史 第5巻 (史料編 3)』53頁に、「24 太鼓張替請状」として、「瀬ヶ井 張替主 元三郎」から沢田村村方宛に「御太鼓張替御用 此度私ニ被為仰付…」という文久3年の史料が挙げられています。
太鼓張替はえたの専業とされていますので、もし藤井寺市史編纂側がこれを、えた身分でない者が太鼓張替に従事していた例外という裏付けがあって掲載されたのであれば、別の意味で重要な史料ではないかと思います。
善正寺について。
『近世部落の成立と展開に関する研究』(寺木伸明 1998年)237頁と255頁では、穢寺帳に載っている志紀郡の寺院は一地区一寺院のみ、「志紀郡善正寺」は金福寺末となっており、「金福寺文書」でも末寺として志紀郡善正寺を挙げている(金福寺の下寺はすべて部落寺院)。
だが、一般寺院も多く末寺に持つ顕証寺(八尾・久宝寺)に関して、『顕証寺殿御由緒書』では末寺を列記した後ろに「穢多」が別にしてあり、そこに志紀郡善正寺も入っている、と。この矛盾については「今後の課題の一つ」としています。
なお、明治12年の寺院明細帳(『藤井寺市史 第9巻 (史料編 7)』562頁)では、善正寺は「本山本願寺末 真宗本願寺派」と本山直末になっており、檀徒335人。これが中世史愛好家氏の1点目の資料「西郡村関係文書から見えるもの-その特異性と普遍性について-」と同じ寺を指すのであれば、江戸時代の檀徒は林村内に限られず、少なくとも植松村東八尾座の住人も含んでいるので、明治12年時点でも同じである可能性があります。また、林村の尊光寺の檀徒は385人です。
ここまでの資料で確認できる一次史料の表記は「瀬ヶ井」「瀬ヶ井村」「志紀郡瀬ヶ井村」で、かつ、ほぼえた身分関係側からの史料ですので、厳密に言えば、この瀬ヶ井が林村に含まれる集落を指しているとは断定できません。
『近世部落の成立と展開に関する研究』でも、「志紀郡善正寺」という表記ですので、理論上は、当時、志紀郡内に別の善正寺があり現在は廃寺になっている可能性、今の善正寺が別の土地から瀬ヶ井に移動した可能性は残ります。
今のところ、旧志紀郡内に他のえた村は確認できませんが、そうなると、旧志紀郡内に(そして元藤井寺市史執筆者氏の見解を支持するのであれば藤井寺市域外に)別の「江戸時代にえた村だった瀬ヶ井(村)」を探さねばならないことになります。
『藤井寺市史 第2巻 (通史編 2)』の巻末、資料提供者・協力者のリストに、林村の尊光寺は入っていますが、善正寺の名前はありません。
市町村史は、人口動態等の貴重な史料として寺院の協力の下、過去帳の分析を行っているものが少なくないですが、『藤井寺市史』では、少なくとも善正寺の過去帳は参照していないことになります。
もっとも、火事等で過去帳を含む文書を失った寺院もありますし、編纂側が、閲覧できたものだけ使うと全体のバランスを欠くと判断することも閲覧を依頼しないこともあり得ますし、そもそも協力であって強制でも義務でもありませんから、あくまで「藤井寺市史は、善正寺の過去帳の内容を反映していない」というだけのことですが。
なお、金石文等他の項目については、提供者・協力者として善正寺の名前があります。
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> この古墳の周囲に大井、北條、船橋、国府、道明寺、林、澤田、古室の部落がある。1935年の記録では国府、船橋、北條、古室は100世帯に満たないが、他は100~250世帯もある比較的大きな部落である。
以下はこれについての推測ですが。
『藤井寺市史 第2巻 (通史編 3)』によれば、道明寺村(村域は、林、大井、道明寺、沢田、船橋、北條、国府、古室)では、昭和7(1932)年度から昭和9(1934)年度まで不況対策として農村振興土木事業を実施、終了後もしばらく現:外環状線の改修工事を失業対策としたとのことです。
次男以下で、瀬ヶ井で父親や兄の仕事(農業や履物作り)を手伝っていた者、都市に移住して働いていたが不況で失業して帰郷した者がこの仕事に就いていれば、この時には現場で飯場のような仮住まいをしていた可能性があるのではないでしょうか。
戦前は、次男以下は分家しない限り、結婚しても子供がいても都市部に稼ぎに行っても戸主の籍に入ったままですから、役場で書類上の戸籍をカウントするだけの調査なら全員まとめて「瀬ヶ井に1戸」です。が、もし工事が村内の広範囲に同時に行われていたとして、もしこの時の調査が現住所で数えたものであれば、全世帯数が戸籍上の戸数の3倍以上になることはあり得ると思います。
また、村の予算で行う事業でしたから、仕事に就くには本籍が道明寺村の者という条件があったのかもしれませんが、他の被差別部落居住者が仕事を得るために、伝手を頼って(妻の実家とか)瀬ヶ井に転居してきた可能性もあるかと思います。
ただそうなると、「職業、生活程度は全て共通しており、いずれも農業商業工業、その他雑業」という点がひっかかりますが。
事業前の瀬ヶ井の人口・戸数・世帯数は不明です。
1918(大正7)年に大阪府救済課によってまとめられた「部落台帳」を使った研究「大阪・部落台帳の分析」(『部落解放研究(35)』1983年所載)にある集計表によると、南河内郡に集落は3ヶ所で、70戸~99戸のものが1ヶ所、200戸~299戸が2ヶ所です。南河内郡域の他の被差別部落は、現在の富田林市若松と羽曳野市向野だけでどちらも比較的大きな集落ですから、70戸~99戸のものが瀬ヶ井と思われます。
「郊外都市藤井寺の都市化」(『地理学報(15)』1976年所載)16頁に地図がありますが、昭和22年時点で、瀬ヶ井は南西方向に市街地が拡がっています。
『部落 (40)』(部落問題研究所出版部 1953年)で、大阪府同和促進協議会は、南河内郡道明寺町林に関して「現在は約4倍にふくれ」としていますが、どの時点を基準に何が(人数か世帯数か戸数か居住地か)4倍なのかは不明です。
『大阪市同和事業史』(1968年)には、昭和38(1963)年1月1日現在の「大阪府部落人口・戸数表」(同和対策審議会の全国調査のうち、大阪府に委託されたものの集計)があり 南河内郡は「部落数 1、人口 733人、161世帯、150戸」(羽曳野と冨田林は市制施行済み)となっています。
これは現行戸籍法に改正後ですから、戦前のデータとは戸数の数え方が異なるかもしれません。
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不況対策ということは
全国部落調査の大阪の部分では、明らかに賤民とは無関係な都市スラムが入っていますが
藤井寺もそのカテゴリーで入った可能性があるということでしょうか
裏付けの取れない推測で申し訳ないですが。
ひょっとしたら全国部落調査の集計は、旧えた村とスラムという地域的カテゴリーで調べた結果というよりは、属人主義で、「旧えた村出身者が×人住んでいる場所」という枠組みでの結果だったのではないでしょうか。
出身地と縁を切って出身を隠しバラバラに生活している人についてはともかく、都市スラムには統計的に無視できない人数がいた、と。
どうも当時の水平社に「未解放部落に住んでいなければ差別されないというものではないのに、行政は限定した地域しか調査しておらず不十分だ、我々の手で調査をやる」といった論調があったようなので、そのあたりも含んでのことだったのかもしれません。
『大阪・部落台帳の分析』(前出)によれば、1921年(大正10年)の「部落ニ関スル諸統計」から分かることは、
・大阪の部落に住む者のうち、
本籍地に住む者、55.4%
本籍地以外の部落に住む者、44.2%
つまり、部落相互の人口の移動はかなり激しい
・部落に住んでいる者のうち、部落外(いわゆる一般地区)からの転入者、0.8%
部落に本籍を持つもののうち、部落外に住んでいる者、14.8%
部落内外の人口移動が、僅かながら始まっている。
・社会増(現住人口-本籍人口)の99.1%はは、他の部落からの流入
とのことなのですが、この時は「部落に本籍を持つもののうち、部落外に住んでいる者、14.8%」が現在どこに住んでいるかという調査はなされていないようです。
大阪府全体として10人中1~2人が部落外に出ているとしても、そもそもこの数字自体が都市部と農村部をひっくるめた数字ですし、差別、仕事、住居等の点から考えても純農村に引っ越すことは考えづらいですから、流入先はほぼ都市スラムだったと思われます。
全国部落調査はこの15年ほど後になりますし、空前の不況時でしたから、流出の割合はもっと高かったかもしれません。
というわけで、それぞれの都市スラムの昭和10年前後の人口統計があれば、それと全国部落調査の該当地の数字を比較して、かなり近ければ「全国部落調査は、都市スラムを被差別部落の一カテゴリとし土地単位で調査した」ということになるし、人口に比して全国部落調査の数字の割合が低ければ、仕事を求めての流入と仮定しても良いのでは…と思ったのですが、この都市スラムの人口の統計が探し当てられません。
もう少し時間をかけてみて、何か分かりましたらまた書き込ませていただきますが、該当する「明らかに賤民とは無関係な都市スラム」の名称と世帯数のデータが手持ちにありませんので、ご教示いただけると助かります。
なお、『部落問題研究 : 部落問題研究所紀要 (151)』(2000年)26頁によると、
「戦前で最も信頼できる部落調査は、大正10年3月『部落ニ関スル諸統計』(内務省社会局)」で、
「中央融和事業協会『全国部落調査』(大正7年、昭和10年)は脱漏が多く、数字も曖昧」
とのことなのですが、「部落ニ関スル諸統計」も、大正8~10年の3回を比較すると「府県による調査が全部落に及んでいない」「ある年次で回答した部落が、大正一〇年調べで未回答」ということがあるとのことです(『日本庶民生活史料集成 第25巻』)。
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全国部落調査は長町スラムや西成も入っているので、被差別部落というくくりで地名を載せたとは思えないところがあります
ここよりも地名総監のページに移動した方が良いような内容になってしまいましたが、とりあえずここで。長くなります、
まず、「全国部落調査」について。以下、戦前の感覚での被差別部落は「部落」と表記します。
ざっくり検索した限りでは、「全国部落調査」そのものについての研究を見付けられませんでした。
実際、地域ごとに事情が非常に異なるので、地域の研究者が自分の地域についてしか語れないのがネックなのだとは思いますが、それにしても、部落名のリストはともかく集計結果の人口などはよく使われている調査なのに、その調査そのものに対する資料批判がほとんどないとは意外でした。
統計の数字について、同和研究者はおおむね「正確とは言えないが、この時代のおよその傾向は分かるという使い方をするしかない」という捉え方で、一般地域史では無批判に数字をそのまま使っている、という印象です。
様々な人が断片的に論じているものをまとめると、以下のようになります(繁雑になるので引用元省略。必要な方は質問して下さい)。
・昭和10年に決定した「融和事業の綜合的進展に関する要綱」と「融和事業完成十箇年計画」の基礎資料とするための調査。
・上記のための調査なので、対象は「融和事業の対象」と認められる部落。「全部落のリストアップ」が目的ではない。
よって調査結果には基本的に、部落外居住者、東京のように居住境界があいまいで混住している地域、融和事業の対象とならないほど規模の小さい集団、生活状態が既に一般化して融和事業の必要を認めない集団等は除外されてることになる。
ただし、実際には一戸のみの集落(?)まで書き上げた県もあるなど、府県によって基準がかなり異なっている。
・実施以前に、調査について中央融和事業協会の協議会等で討議された様子はない。
・調査は、中央融和事業協会が各府県に依頼。集計は協会が行っている。
・数字そのものが不正確な府県もある。100とか50といったキリの良い数字、あるいは十単位の戸数・人口を出している所がきわめて多い。戸数を概数で示し、それに5とか4とかを掛けて人口を出しているとみられる場合も多々ある。
・人口は本籍地ではなく、現住所のもの。
・46府県中、部落所在の報告がなかったのは、宮城、岩手、青森、沖縄の4県。
前回の大正10年の調査で部落所在の報告がなかったのは、宮城、岩手、秋田、沖縄の4県。
秋田は、今回の調査で新たに報告。
青森は、前回の調査で部落類似のもの1部落37戸の報告があったが、今回は報告なし。
この2県を含む東北北陸地方では、調査が甘い。
昭和10年時点で 東日本では融和地方団体がほとんど組織されておらず(埼玉、群馬、茨城、新潟が北限)、部落問題に対する認識や取り組みが弱いのが調査結果に反映していると思われる。
・長野県の部落数はほぼ正確。
・京都の戦前の調査の人口には、地区内居住の朝鮮半島出身者が含まれている(戦後の調査では含まれていない)。
・山陽では旧茶筅、山陰では旧鉢屋の集落が含まれている。
・岡山では、隠亡・非人の集落が含まれている。
拾えた限りでは以上です。 (続く)
#59e6b4cf0d41acb77d8c0ab5ec965bf6
細かい分析ありがとうございます
ほぼおっしゃる通りだと思います
「全国部落調査」の大阪府の部落数を、他の時期の各調査のものと比べると
大正7年 59
大正10年 60
大正15年以後昭和4年8月迄の調査 66
昭和10年「全国部落調査」 106
昭和24年 64
昭和38年 59
となり、確かに「全国部落調査」が極端に突出しています。
大阪府の調査は、部落をリストアップしてその地区の居住人口を数えるという属地主義の方法ではなく、属人主義で部落出身者を現住所でカウントし、その居住地をリストアップした結果、地域リストに都市スラムに属する住所が混じっている…ということなのでしょうが、融和事業の対象地区とするための調査に、なぜこの方法を使ったのか。
昭和3年 大阪府を統一する融和機関として大阪府公道会ができます。
ここは他府県の融和団体と異なり、仕事は府の当局者に任せていたということですので、「融和事業の対象と認められる部落」の調査基準決定と集計とりまとめの責任者は、府の社会課長(=公道会常務理事)藤澤喜久郎と社会事業主事(=同理事)前田宇治郎と思われるのですが、二人とも特に極端な意見を持っていた様子でもありません。前田宇治郎が昭和12年11月の『融和事業研究』に寄稿した文には
「大阪市内の地区は西成区外7ヶ区に渉り、其の町数実に52ヶ町に跨りて散在せり」
「昭和7年8月に調査したる重なる19箇地区の戸数5,674戸、人口28,095人」
とあって、把握に問題はなさそうです。
調査の実務は市町村役場、でけなければ警察が行ったと思われますが、大阪市役所での担当は恐らく社会部の川上賢叟です。氏は浄土宗の僧侶、宗務所の命でアメリカに派遣留学して社会学を学び、帰国後は住職と官吏を兼務、昭和5年頃から引き続きこの職に就いています。社会事業関係の寄稿もあるという、職務に熱意のある人ではあります。
以下は昭和13年2月(集計発表後)に開かれた、融和事業十ヶ年計画に関する「都市融和事業協議会」(『融和事業研究 48』1938年)でのやりとりから抜粋しましたが、この「大阪市 川上」が川上賢叟の発言です。
大阪市 川上
「大阪市内には14の地区があり」
「その内二つの地区は農業地帯にあり、他は市街地域内である」
(中略)
兵庫県 内海
「新川は融和事業の対象となるかどうかは研究すべきで、明治初年の神戸市の地図には載っていない。(中略)吾々としては融和事業地区として見るには一抹の疑問を持っている」
大阪市 川上
「神戸の新川は融和事業地区としての対象とすることが困難だとのことであるが、新川を密集住宅地区等のため融和事業対象地区とすることは考えものですね」
奈良県 吉川
「それは、元は対象地区でなくても、その後地区の人が入って来たので差別を受けるようになったのではなかろうか」
兵庫県 内海
「その差別が融和事業の対象ではないようである」
「新川には30%位しか含んでいない」
大阪市の調査結果はこの人を通して府に上がっているでしょうし、この発言を見る限りでは「実情に無知で、無関係な都市スラムを混ぜた」とは考えにくいです。
となるとこの結果には、何らかの政策的意図があったことになります。まあ公式の場の建前とは別に、裏に怪しい思惑(笑)があったのではと勘ぐれなくもないですが、証拠がないのでそれはともかく。
(続く)
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上を前提として、以下は裏付けのない推測になりますが。
京都市では不良住宅密集地区がイコール部落でしたから、一般社会事業としての不良住宅対策がそのまま融和事業になりました。京都市の戦前の部落の現住人口調査に半島出身者が入っているのは、属地主義的に地区の居住人口を数えたためでしょうし、地区の環境整備のための調査であれば、排除する理由がないのも確かです。
大阪市では、部落ではない細民スラムがあって規模も大きかったため、不良住宅対策と融和事業は元々分離して扱われていました。一般都市スラムに対しては「改良事業」「改良住宅」、部落については「融和事業」「融和住宅」のように呼称されています。不良住宅に関する調査(非常に細かく、町丁ごとのデータを出している)には部落も挙げられていますが、面積人口住宅問題の深刻さで優先順位を付けると、部落が最優先にはなりません。
最初に大規模な改良事業が入ったのは長町スラムで、昭和6年から「全国部落調査」の時期までに、改良住宅が4ヶ所(鉄筋3階建アパート16棟650戸、木造二階建35棟156戸)作られ、かなりの面積で住宅密集状態が解消されています。
その時点での「全国部落調査」に長町スラム居住の部落民が挙がっているということは、彼らの住居はこの時点までの改良事業の対象外だったわけで、もちろんたまたま事業の順番が遅い区域だったのかもしれませんが、ひょっとしたら故意に外されたのかもしれません。
当時、融和問題の解決策の一つとして、部落民の地域外への移動と混住で、農村部の耕地面積の狭さや都市部の住宅密集の解消を試みてはどうかという案が出ることもあったのですが、行政側が無理にやっても肝心の差別は解消されないし、むしろ問題が出るだろうという見方がされていました。
部落民が細民スラムに混住していたといっても、バラバラに住んでいたのではなく集住していたでしょうし、ここに町区を丸ごと改良住宅に移す方式を適用すると、少数の部落民を無理矢理混住させることになります。
大阪市はこのあたりを前提に、都市スラム内居住の部落民の小集団については、スラム対策とは別に融和枠での対策をしたい(予算無視の理想論なら、それぞれの地区に改良住宅とは別に小規模な融和住宅を作るといったような)という意図で、細民スラム内の部落民を調査リストに挙げた、とは考えられないでしょうか。
あと一つ。
昭和9年9月21日の室戸台風で、大阪市は大きな被害を受けています。
部落の被害をまとめたものがないので具体的には分かりませんが、元々低地が多いですし、当座は被災による一時的な移転や帰郷等もあったと思われます。
その後は復旧に労働力が大量に必要になったため日雇労働は空前の好景気となりましたので、農村部から仕事を求めて来た部落民の流入など、人の動きが激しかったと思われます。
「全国部落調査」は昭和9年の2~3月に調査した府県が多いのですが、大阪府は翌10年3月と、台風被災の半年後になります。調査は現住所での統計ですから、少なくとも大阪府に限っては、「全国部落調査」が平常(と言うか何と言うか)の状態を反映しているとは言い難い気もします。
肝心の藤井寺ですが、「朝鮮半島出身者の密住居住地」に、現藤井寺市域の住所は挙がっていないのは確認しました。
室戸台風で現藤井寺市域も被害を受けましたが、大阪市や堺市のような大規模なインフラ破壊は免れています。
以上です。長くなってしまい、申し訳ありません。
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大変お詳しいので、出来れば直接フォームから連絡してWikiの編集にご協力願えませんでしょうか