琵琶湖線(東海道本線)からは、レトロなニコイチが立ち並んだ風景がいくつか見られるが、それらは全て同和地区である。今回訪れた広野町も、それらのうちの1つだ。
1931年当時の戸数は288という大きな部落である。主な産業は農業と漁業。滋賀県内の部落の解説書『滋賀の部落』によれば、かつては「大野村」という名前であったという。
この「地域総合センター」(WAっとねす春日)から探訪を開始する。大規模同和地区では隣保館と教育集会所が隣接するか同じ建物内にあり、合わせて「地域総合センター」と呼ばれているのが滋賀県の特徴だ。そして、近年ではここのように親しみやすい愛称が付けられている。
広野町に隣保館が出来たのは1967年、つまり同和対策事業特別措置法が施行される直前だ。そして、1971年に現在の場所に移設された。
地域総合センターには市営住宅の入居者募集のお知らせが。家賃は極端に安くはなく、一般化されているとは思うのだが、わざわざカッコつきで旧地域改善向住宅と書いてある。ここは同和住宅なので、そのつもりで応募してね、ということなのだろうか。
「滋賀県版部落地名総鑑」こと『同和対策地域総合センター要覧』によれば、1995年当時の世帯数は594と概ね戦前の倍に増えている。
同要覧によれば、そのうち64世帯が生活保護世帯とされる。率にすると10.8%で、これは当時としても高いと思われる。例えば同じ彦根市内の里根地区は4.6%で、同和問題が根深いと思われている甲良町の呉竹地区は意外にも3.5%だ。スラムであった草津町の新田地区(11%)とほぼ変わらない。行政が「属人」をどう判断するかによってこの数値はいかようにもできるため、あくまで参考に留めておいた方がよいが、地区の「見た目」から判断すると、概ね地区の経済状況を反映しているように思う。
当時の時点では農家は92戸で、漁業に従事するのは29戸で、中高年者が多かったという。また、土建業も中高年者が多く、ほとんどは一人親方的な零細企業だったそうだ。若者は企業等のサラリーマンになることが多かった。今ではその傾向がさらに進んでいるものと考えられる。
部落の分類では、地方都市労働型といったところか。
隣保館の近くには井戸のようなものが。
隣保館の近くにお寺がある。見ての通り東本願寺だ。ということは、東本願寺が作成した大正期の穢寺リストである『大谷派地方関係寺院及檀徒に関する調査』に掲載されているかと思い、早速見るとお寺ではなく「道場」として掲載されている。確かに、寺という割には境内が狭く、もとは民家だったようにも見える。
ただ、「普賢寺」という名前は、犬方町がかつて「普賢寺村」と呼ばれ、広野部落が普賢寺村の枝村であったことと関係していると考えられ、それなりに歴史はありそうだ。
なお、1923年当時の世帯数は245なので、昭和に入ってから若干増えたということだろう。
ここは墓地。やはり浄土真宗である。
これは陸軍の戦死者のお墓。
空き地の向こうにニコイチが見える。
広野地区は、解放同盟滋賀県連委員長の地元でもある。親族がやっている店があるというので行ってみたが、残念ながら今日は閉まっていた。たこ焼きとソフトクリームが絶品と評判である。
ここは住所表記では「堀町」となる。「広野地区」と呼ばれるが、実際は広野町に加えて犬方町、堀町の一部が含まれる。
このような、なかなかセンスのよい看板の店もあった。
ニコイチ群の中へと進む。ブルドーザーは土建業者のものだろう。
ニコイチは、やはり一部空き家があるようで、草が生い茂っていた。
全般に雑草が多い。
そして、この放置されたピックアップトラック。このような物は奈良県の部落ではよく見られたが、滋賀県では珍しい。しかもかなり古いものだ。
日産製で1970年代のものだろう。
近くに老人がいたので、声をかけてみた。この放置された車のせいで、近隣住民も迷惑しているという。今年の台風の時はボンネットが風で開いてバンバン音を立てていたそうだ。
車は近くの住民の、亡くなった父親のものだったという。住民に言っても聞かないし、時々スクラップ業者が引き取ると声をかけてくるものの、一応は個人の所有物ということで勝手に片付けることもできないそうだ。
部落に放置された廃車の背景が垣間見えた。しかし、公道上に放置というのは、今は一般地区ではあまり見られない。
「ここだと、強い者は何をやってもいいんや。よそから来た物は、よそ者や言われるし」
老人はそのように地域への不満を口にした。
地区内の掲示板には同和とか部落といったものはなかった。
ニコイチと若干の持ち家がある。地区内の道路はかなり改善された形跡があり、入り組んだ路地のようなものはない。
臭突のある家があるが、下水道は整備されているようだ。
大きな御殿も入り混じっている。
持ち家がある辺りだと、道は草取りがされているように見える。
最近、部落を探訪するとなぜか目にする、空き地に設置された太陽光パネル。この地区にもあった。
ニコイチ群から持ち家が多い地域に移動すると、道路脇の雑草が減るように感じられるが…
ここにも廃車が。
これは貸物件。倉庫や資材置き場にはよいかも。
「買う前に がまんで打ち勝つ むだづかい」。わざわざこのような標語が掲げられるのは、無駄遣いをしてしまう住民が多かったからだろうか。
昨今は滋賀県内の部落が大きく変わり、同和事業の縮小・廃止に伴ってその見た目も変わりつつあるが、この広野町はまだ解放されていないように感じる。
本文中では触れられていませんが、画像にあるバイクのスタイルを見ると、やはりそういうレベルなのかと残念に思ってしまいます。
その下の桃色カーテンのお宅。
軽のナンバーは何と「69・18」です。
無給で無休で六九して孫の代までの報いや!と。893並みのDQNですね。カーテンの中が気になりますorz
お墓を見て宗派がわかるものなのですか?
浄土真宗の場合は、南無阿弥陀仏と書かれていたり、戒名ではなく「法名」が書かれています。
妙とか蓮という字が入っていたら日蓮宗です。
前にも聞きましたが、近隣の、国道8号線を挟んで反対側、新幹線沿いの小川原というところはどういう地域でしょうか?
おそらくは、呉竹同和地区の一部ではないかと思います。
地図をよく見たら呉竹という地区に隣接してますね。ありがとうございました。昔このあたりの中小企業に出入りしてましたが、家畜舎のような匂いがすごかったです。
同じ学区内で暮らしていましたが、小中の道徳教育が露骨な同和教育だったのと地区児童の非行や問題行動が学内や地域で野放しだったのをよく覚えています。同和問題の差別という言葉に疑問を感じたきっかけでした。
公営住宅への応募に関しては不明ですが、犬上川を挟んで南彦根駅へのアクセスが良く、草津のようにうまく同化が進めば新興住宅地になり得た町だと思います。
やっぱり、貸付金方式にすべきで、ニコイチ建てまくったのはよくなかったと思います。
虎姫みたいに払い下げすれば今からでも変われるでしょうけど。
こういうのを見ていると、解放されている地区と言うのは、立地ももちろんあるでしょうけど、住民の意識の問題もあるのかなと感じます。
役所からの支援をきっかけに、部落からの脱却を図って解放の道を選ぶのか、はたまた支援を甘受するだけでそのままを維持するのか。
住んでいる隣の隣の市なので
何回か探訪にいったことがあります。
広野町だけじゃなくて隣りの町に
までニコイチが沢山広がって
いますよね…。
国道に近いところまで部落だったということでしょうか?
大学時代からの友人が、かつて彦根市役所に勤めていました。
その友人の話によると、2年目職員向けの人権研修で、広野町に実地研修に行ったそうです。
「彦根の同和の話と言えば、広野の事しか教えられなかったので、里根や甲田も部落だったとは知らなかった。」と言ってました。
コメント失礼致します。
以前訪れたことがあるのですが、甲良町尼子は被差別部落だったのでしょうか?私も大学での研究報告に使用したく可能であればお聞きしたいです。
#6f4a8094b54b8e795a61870aded96b2b
甲良町の部落は長寺と呉竹だけです
どちらも行政区域の全域が同和地区指定されたと聞いております
どんな研究か興味ありますね
研究結果が出ればぜひ見たいです