前回は三重の明和町だったが、今回は大阪の明和である。とは言っても、かつての地名は「燈油」で1961年に国守、2006年に明和と変わった。
部落解放研究所が出版販売した『大阪の同和事業と解放運動』によれば、1958年当時の部落名は北河内郡水本村灯油、戸数は620、人口は2,657、主な職業はクズ物行商と記録されている。
まず、誤解のないように古村の正確な位置についての話からしておく。地図は大正から昭和初期のもの。旧水本村の燈油は「西ノ町」と「東」がある。解放運動があったのは西ノ町で、東は「一般」ということになる。
現地で昭和初期の生まれという古老から、詳しい話を聞くことができた。
それぞれ西燈油、東燈油と言われており、現在は西燈油が明和、東燈油は高倉という地名になっている。高倉は高倉神社が由来であり、明和についてはよく分からないという。
燈油の燈はもちろん灯油の旧字体。昔からある家は農家で、田んぼに菜の花を植えて、菜種を作っていた。そこから取れるのが菜種油。昔は灯油と言えば菜種油のことだったので、灯油の生産地であることから燈油と呼ばれるようになったということだ。
後に国守に地名が変わったのは、この国守神社が由来。
その国守神社の横に、廃墟が複数ある一角がある。
なお、廃墟は窓と入り口ががら空きだったので、これは外から撮影したものである。本サイトはコンプライアンス重視なので、中には入っていない。
つい、この不法投棄と空き地に目が行ってしまったが…
その近くに、真新しい住宅地があり、実はここに「市営国守住宅」という同和住宅があったが、2017年に解体されて土地が民間に売却され、オープンハウスの建売住宅となった。
そこから少し歩くと明和交差点がある。
精肉店があったので、土産を買おうかと思っていたが、残念ながら今日は閉まっていた。
こちらが西方寺。浄土真宗本願寺派である。
この辺りに昔からの村があり、その周囲に同和対策で作られた施設が点在している。この建物をよく見ると「自彊館跡」と書かれた石柱があり、融和事業の施設があったそうだ。
『大阪の同和事業と解放運動』によれば、昭和27年に次のような報告がされている。
北河内郡水本村灯油 本地区は五〇世帯二、三九五人の大部落で本文説明の如く非農村地区としてのすべての劣悪性をもっている。生活保護をうけるもの四六世帯、不就学児童、中小学校あわせて三五名に及び青少年のヒロポンによる被害も多く出ている。主産業が屑物回収であり、医療対策の必要と現在の経済事情により資金難におち生活状態は劣悪である。
井上清『戦後部落解放運動史』研究資料によれば、1950年頃には部落のボスが35歳以下には古物営業の鑑札を渡さないという方針をとったため、若者たちがデモを行い、この結果として20歳以上には許可を認めさせたと記録されている。
戦前から改善事業、融和事業が行われていたが、戦後も早くから同和事業が行われた。昔から村のあった場所には細い路地も残るが、「東燈油」と見た目はあまり変わらないように見える。
こちらは障害者施設だったが、老朽化のために最近移転したようである。
その移転先がこちら。「市立学び館」「市立東障害福祉センター」とあるが、実はこれはかつての解放会館である。
郵便局もここにある。
それを証明するものとして、水平社宣言の石碑が残されている。
なお、石碑の裏側には何もなかった。地元の解放同盟の有力者の名前が彫られていることが度々あるが、ここではそうではないようだ。
融和事業として村の風呂が作られた記録があるが、現在でも銭湯が残っている。様々な施設は残っているのだが「同和」「人権」と主張するものは徐々に消えている。前出の古老も、今はもう解放運動だの同和事業だのは終わったのではないかという。
なお、銭湯の入浴料が2023年に300円に値上げされたと自治会の掲示板にある。それでも安い。
旧解放会館前にはグラウンドがあり、野球の練習試合のようなものが行われ、子供で賑わっていた。
さらにグラウンドと公園の脇の道を進んだが、柵と団地があり、反対側には抜けられなかった。
この池は、明治末期の地図にもある。
この池のほとりのここに、市立教育センターがあった。
ストリートビューで時間を巻き戻すと、2015年頃までは巨大な教育センターがあり、公共施設の案内板があった。旧解放会館は「いきいき文化センター」であったことが分かる。
同和事業の痕跡がなくなっていく方向へと進んでいる。