『三重県部落史料集 近代篇』によれば、水平社による私人に対する糾弾に端を発する水国事件に関連し、「下尾水平社外十二区分」が合わせて50円の義捐金を出している。
『部落問題・水平運動資料集成補巻一』によれば、群馬県であった水平社によるリンチを発端とする騒擾事件である世良田村事件に関連し、「三重県多気郡上御糸村佐田下尾水平社」が3円の義捐金を出している。
昭和初期の戸数は41。現地には人権センターがあり、同和事業の対象となったことが分かる。
明和町と言えば佐田、と言われるようだが、小字「下尾」と「南野」があり、水平社が2つあった。
行部と同じく、農業をしていた他、工業もあったという。
ここが「下尾公園」。電気設備会社の建物が見える。
ここは近世には「佐田新田」と言った。佐田村にはもともと大きな賎民の村があったことから、そこから新田開発で分かれたのであろう。文政年間の人口は93。天保の頃には下尾村と称するようになっていた。
佐田村では賎民を「ささら」と称した。ささらとは竹を束ねた楽器で、それを使った芸能を業としていた人々が、治安維持の役目を担うようになったと伝えられる。ただ、この地では穢多と同様の意味のようである。
昭和初期の時点では特に貧しい村でもなかったようで、今となっては同和施設がなければそうとは分からない。
かつては行部とも連携し、水平社運動が活発であった。
『三重県部落史料集 近代篇』によれば、かつて佐田事件という差別糾弾事件があったが、これは不発に終わった。村長とも助役だったとも言われる相手方が「差別をしたのが何故悪いか」と強硬に抵抗したので水平社は引き下がらざるを得なかった。後に水平社メンバーで徹底的にやるか合法的にやるか投票したところ、後者が多かったので発表しなかったという。
しかし、掲示物に同和、人権、部落といった文言の入ったようなものは見られない。やはり、かつて運動が過激だったところほど穏健になるということであろうか。
今では新しい住民の家や、アパートもある。
そして、この地の出身者で特筆すべき人物は「五寸釘寅吉」こと西川寅吉である。ゴールデンカムイの白石由竹のモデルともなった脱獄王。
『三重県部落史料集 近代篇』によれば、融和団体帝国公道会の機関誌『公道』大正4年9月20日号に「三重県下に於て頗る評判の好からざる多気部佐田部落は実に有名なる強盗殺人犯五寸釘寅吉の出生地なり。戸数八十余あり。内前科者四十余ありて職業は殆んど下駄直しなれば家計不如意の者多く風儀の好からざるは勿論なり」と赤裸々に書かれている。明治末期頃のことであろう。
その後、部落改善事業が行われ、「然るに数年前より改善の為め県庁及郡村長、警察官小学校教師の熱心指導の結果、近時大に面目を改めたり」とある。