筆者が長塚を訪れるのは初めてではなく、実は10年ほど前にも一度訪れている。その頃と何も変わっていないように見えた。その時の様子は『同和と在日②』に書いている。
昭和初期の戸数は50。生活程度は悪くなく、明治21年の調査記録にも「日常の衣食住の有様は概して上等」と書かれているとのことだ。平成7年の記録では64世帯となっており、長らく世帯数が大きく変わっていないことが分かる。
前に訪れていたときから気になっているのがこの「ふるさとは葡萄とともに」という大きな石碑。ブドウ栽培をこの地域の新たな産業にしたのかと思っていた。
確かに部落内にはブドウ畑がいくつかあるが、いずれも狭く、大きな収益になるとは思えない。平成7年当時の滋賀県内の同和地区の状況を記した『同和地区地域総合センター要覧』を改めて確認すると、昭和57年から地区の連帯感を高めるために取り組んだとある。
そして、この取組は近隣地域から当時の秦荘町全体へと広まった。産業というよりは、ブドウ栽培を通じて地域の親睦を深めるところに意義があるのだろう。
ここは2006年まで秦荘町だったので、街灯のプレートにその名残が残っている。
早朝の探訪なので写真が暗いのはご了承頂きたい。
ここは浄土真宗大谷派、西念寺。山号は光明山。『滋賀の部落』によれば、もとは天台宗の寺であったが、いつの頃からはっきりしないものの宗派が変わったようだ。
滋賀県内の部落はいずれも浄土真宗本願寺派から大谷派であるので、自主的に宗派替えしたのではなく、おそらく江戸時代初期に何か政治的な力が働いたと見るべきだろう。
ここが地域総合センター。滋賀県特有の方法で、隣保館と教育集会所と老人憩の家が一箇所にまとめられている。
この部落は江戸時代には斃牛馬の処理を行っていた。そして牛馬の売買、皮革の売買、明治中期まで太鼓の製造を行っていた。石碑の上の太鼓はそのような意味があるのだろう。それらの産業に関わっていた家は概ね上等の暮らしをしており、税金を納め、県議会の被選挙権を持っていたという。
また江戸時代より前から土地を持っていて、農業も行っていたという記録がある。
しかし、学校については他の村の一緒ではなく、独自に僧侶が教育を行っていたという記録も有る。
これは住宅案内図。10年前も見た気がするが、その時はもっと古かった。ここ10年のうちに新しく作り変えたのだろう。昨今は個人情報クレーマーがうるさいのでこのような住宅案内図が撤去されることが多いが、滋賀県でそのような様子が見られないのは貴重なことである。
ちなみに、 『同和地区地域総合センター要覧』 によれば、解放同盟長塚支部は全戸加入だそうだ。
当時の農家は34戸で全てが兼業農家。事業所は14箇所あり、ほとんどは個人経営。産業や生活形態も周辺の他の集落とほとんど変わらないという。同和事業をする意味はなかったのではないか。
秦荘西小学校が部落のすぐ近くにある。
その学校の前にあるのが集会所。この裏手が古墳になっている。
古墳には八幡神社がある。
ここは昔は大円寺というお寺の境内だった、奈良の興福寺の末寺ということなので、法相宗ということになるのだろう。しかし山号は光明山とあるから、先ほどの西念寺は山号を受け継いだのだろうか。
そして、古墳こそが地名の由来に関係しており、昔は7つの古墳があったことから、7つの塚「ななつか」の名前がいつしか長塚になったということである。
神社の前には新しい住宅がいくつか建っていた。
次回も愛荘町内の部落を巡る。実際に愛荘町内の部落を巡ると、興味深い共通点が見えてくる。
https://archive.ph/wip/9oeNA
「地元の方から、昭和の初め頃までこの近くに皮坊(かんぼう)と呼ばれた被差別部落があり、白山神社を信仰していたという話を聞きました。皮坊とは、動物の皮の加工などいわゆる「汚れ仕事」の従事者のことです。よって、この白山神社も上記の例のとおり、被差別民と関連があることが分かりました。
その後、そこに住んでいた人々は市内某所に移り住んだそうです」
この白山社は未探訪ですが「市内某所」とはどこでしょうか?
今昔マップで明治時代の地図を見ると谷戸の中に家が見当たりません。
これは調べるのはかなり困難ではないでしょうか。
滋賀県というか、神仏習合のある関西の穢多非人は、関東とちがい比較的裕福な人が多かったとのことです。
愛荘の近くに、百済寺があります。
聖徳太子か、百済から連れて来られた人のためにつくられたとかで〜古墳作りの為に連れて来られたのか?いろいろ調べてみると奥が深いですね
昔から代々住んでいる穢多の子孫は概ね裕福だと思います
無論例外もありますが