旧時村、現在の大垣市上石津町下山に18戸の部落があった。農業や履物商、日雇、そして博労(牛馬商)をしていた。
この部落に注目したのは、読者の方から、この部落こそが部落史に残る重要な文書が発見された場所だと言うのである。文書の名前は『本村締盟規約旨趣』。その内容を端的に言えば「村の端にある部落は嫌な連中なので、皆で進んで差別しましょう」というものである。なぜそのような文書が見つかったのか、現地探訪記録と共に解説する。
国道365線沿いにある直売所。見た目はお世辞にもきれいとは言えないが、地元産の野菜が売られていた。ここから探訪を開始する。
地図で現地を見ると、明らかに100世帯近くの家があり、全体が部落ではない。まず、下山の中に「下地区」がある。結論から言えば、部落があったのはその下地区の東の端である。そこは「北組」と呼ばれた。
1921年(大正10年)のこと、北組のある住民が一般地区の土地を取得して家を建てた。それに対し一般地区住民が猛烈な嫌がらせをした。例えば、家に石を投げたり、糞便を塗りたくった縄で家を囲うといったことをしたという。そして、警察沙汰にまでなった。
この事件をきっかけに下地区で作られ、一般地区住民の間だけで回覧されたのが件の『本村締盟規約旨趣』なのである。
そして時は流れ、1970年のこと。当時の下地区の世帯数は90戸ほどで、自治会は8組に分かれていた。その頃には、差別は過去のものとしてほぼ忘れ去られていた。しかし、北組は8組のうちの1組として存在していた。ただ、その頃には既に牛馬商はしていなかったようである。
下地区には「年行司」という役回りがあり、毎年交代で2軒が津島神社と唯願寺の祭祀を執り行うことになっていた。世帯数から計算すると40年に一度くらい回ってくる役回りである。かつては、この役回りから北組は排除されていたのだが、この時代には人々のライフスタイルが代わり、年行司などという面倒な役回りはなるべく誰かに押し付けたいのが住民の本音であった。
ここが津嶋神社。
なお、唯願寺は下地区の中にある真宗大谷派の寺である。大正期に作られた真宗大谷派の部落檀徒リストには、旧時村の「明覧寺」という名前が出てくる。実はこれは「明覚寺」の誤記であり、明覚寺は隣の上地区にある同じく真宗大谷派の寺である。もとは道場であった唯願寺は言わば明覚寺の末寺という関係で、真宗大谷派本部とのやりとりは明覚寺が行っていたことから、あのリストに明覚寺が掲載されたと推定される。
さて、差別が過去のものとなっていた時代、年行司の役回りは当たり前のように北組の家にも回ってきた。年行司となった家には古い回覧箱が渡された。初めて回覧箱を見た北組の住民は、好奇心から回覧箱の中にあるものをくまなく調べた。その中に、毛筆で書かれた古い文書があった。
昔の人が書いた字で、内容がよく分からなかったので、住民はそれを然るべきところに持って行き、読んでもらったという。
その文書のことが、田中龍雄 著『定本被差別部落の民話』に書かれている。要は北組の住民は元穢多の新平民で卑しい者なので、相応の扱いをしろということだ。
「抑モ本村々端ニ住スル特別部落ハ所謂新平民ニシテ卑賤ナル一種族ナリ」で始まる文書には、北組との土地の売買には本村の承諾を得ること、北組住民と飲食を共にする等の親密な交際は禁ずること等が書かれていた。当時博労をしていた北組住民に家畜を診させることはせず、特に獣医を呼ぶようにといった決まりまであった。
上の写真はパノラマなので左右に動かせる。
この文書が出てきたことで、下地区は騒然となった。この騒動は新聞やテレビでも報道された。文書には当時の住民の署名があり「うちの爺さんの名前がある。なんであんな物を作ってしまったんやろ。あかなんだわな」と嘆く住民もいたという。当時はまだ署名した人物が1人だけ存命していたが、最後まで何も語らなかった。
かつての記録によれば、津嶋神社の前のこの道が部落と一般地区の境界で、この写真では左側が部落となる。ただ、部落住民が一般地区の土地を取得して騒動になったということは、逆に言えば本村締盟規約旨趣が死文化していた頃には普通に土地売買が行われて混在するようになっていたと考えられる。
左右を見渡してみたが、左の方が空き地と廃墟が多いように見える。過疎化は全般に進んでおり、現在は50戸くらい。
境内にあるこれは稲荷神社だろうか。
年行司から部落が排除されていたということは、津嶋神社の氏子からも排除されていたのかと思ったが…
皇紀2600年(1940年)に建てられたこの鳥居に刻まれた氏子には飯田、高橋といった名字が見える。住宅地図や後出の防火用水配置図から推定できる、旧北組の住民も含まれているようだ。唯願寺は部落も一般地区も檀徒となっていたので、津嶋神社もそうだったのではないだろうか。
※かつては氏子から排除されており、1932年に氏子として認められたということです。
地区内の防火用水配置図を見つけた。各世帯の名前までは記載されていないが、防火用水の場所は○○氏宅前というように記載されている。
(次回に続く)
>>もとは道場であった唯願寺は言わば明覚寺の末寺という関係で、… ??
唯願寺は鎮守府将軍・藤原秀郷の曾孫の浄金が天台宗の道場を開いた。
七代目・明貞は本願寺・蓮如の法子となり、天台宗から浄土真宗に改宗。
八代目・明慶は本願寺直参として證如・顕如に仕え、證如上人寿像・直参
出資規約「番衆の定」・顕如書状等を拝領。九代目・明覚は教如より十字
名号・法然上人起請文等を拝領。徳川家康の上洛の際、教如から大橋の苗字
・大橋山唯願寺の寺号を拝受。以降明治時代まで末寺十ヶ寺・道場二ヶ所。
一方、明覚寺は1465年に道永が道場を開き、1630年に明覚寺の寺号を得る。
格式からいくと唯願寺の方がかなり高そうですが…如何に?
お説はいろいろあるとは思いますが、大正終わり頃の「大谷派地方関係寺院及檀徒に関する調査」には、唯願寺ではなく「時村、明覧寺、金森某」と出て参ります。
また、次のような附言も付いております。
「以上の調査は教務所を通じてまとめたものですが、諸種の事情上、調査もれのものや、又種々なる意味で不備不正確のものが多いと思いますから、お気づきの点は御通知を願います。社会課」
お寺の格の違いというよりは、地区の違いのせいかもしれませんね。
今回のようにYouTube動画よりこっちに先に書いたほうが良いね。
なるべく動画と記事を同時に出せるようにしていこうと思います
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