学術・研究:部落探訪(201) 福岡県 田川郡川崎町 西田原

アバター By 鳥取ループ

筑豊の川崎町には「泥棒部落」が存在し、そのことを書いた「女性自身」が猛抗議を受け、NHKが作った番組は川崎町からの抗議でお蔵入りになった…1970年頃にあったこの出来事は今でも伝説のように語られているが、それでは肝心の「泥棒部落」はどこにあったのか。誰もが気になることであろうし、もちろん筆者も気になる。そこで、楠橋の松尾城に行くのを諦めて、最優先で川崎町に向かった。

しかし、事前調査ではこの地域には謎が多い。川崎町田原に「藤ケ瀬」という場所があり、そこから全国各地のデパートで集団万引を繰り返していた集団が「藤ケ瀬グループ」と言われていたことは分かった。そして、現地と思われる場所には同和対策の教育集会所があり、同和地区指定されたであろうということは分かるが、全国部落調査には記載がない。

西田原教育集会所は公民館を兼ねており、人権やら同和やらと言った掲示物は見られない。文字通りただの公民館として使われているように見える。

近くに山があったので登ってみた。いかにも人工的な山で、これはボタ山だなとすぐに分かった。かつては筑豊にはそこらじゅうにあった炭坑の残土の山である。

過去の航空写真ではこちらの方向にも同じくらいの大きさのボタ山が見える。藪で隠れてて見えないが、現在その場所にはスーパーがあるので、ボタ山はすっかり撤去されたようだ。

その他の記録を見ても、ここに「被差別部落」があったという根拠は見られない。女性自身の記事では、警察によれば藤ケ瀬グループは明治の頃に移り住んできた「山窩」だということだが、当時の警察は定住地のない人々を何でも山窩と言っていたようなので、あまり文字通りに受け取らない方がいいだろう。

筑豊、特に川崎町というと魔境のように言われることがあるが、案外普通だと感じた。時折目にする田舎ヤンキーの服装や髪型が独特だなと感じたが、北九州の辺りもそうで、特に川崎町が特異というわけでもない。

何か手がかりがないか教育集会所の周辺を歩いていると、90歳になるという地元の老人に出会った。「藤ケ瀬」という場所を知らないかと聞いたら、突然こんな話をした。

「スリ、万引、そういうことをやってたところだな。うちは昔からの農家だけど、見てて羨ましいと思ってたよ。働きもしないで贅沢してたからな」

しかし、そのような人々は警察に捕まりまくって、もうスリや万引は出来なくなったそうだ。

いきなりド直球な話である。老人が言うには、少なくとも教育集会所がある「西田原」が部落というわけではないという。もとは普通の農村で、この辺りの戸建ての家は、大体昔からの農家なのだという。そこに、明治になってから多くの炭坑労働者が移り住んできた。

新旧様々な公営住宅があるが、そこに入っているのはほとんどが元炭坑労働者なのだという。

そして、この墓地は昔からの農家の墓地である。

その近くに同和対策で作られた納骨堂があるが、部落とか関係なしに、周囲に適当な墓地がなかったので、あちこちから納骨に来ていたという。

そのようなことなので、あの教育集会所にしても同和対策で作られたことは知っているが、事実上は完全にただの公民館という認識なのだという。

ということは、西田原はえせ同和地区で、同和対策を事実上は炭坑労働者の失業対策等に使ったということになるのでは?

ただ、藤ケ瀬については周辺からは「被差別部落」と認識されたいたということだ。しかし、それがいつの時代からのことなのかは、はっきりとは分からないそうだ。

無論、藤ケ瀬がどこなのか聞かない手はない。老人によれば藤ケ瀬はボタ山と川の間の辺りに「あった」という。「あった」と過去形なのはどういう意味だろう?

とりあえず、地図で川がある方に行ってみた。

右側に川、そして左側にボタ山がある。条件に合うのはこの辺りだ。

急斜面に家がある。

斜面を登ってみた。

斜面の上の方は空き家が多いように見えた。

辺りを散策していると別の老人に鉢合わせた。何しに来たのかと聞かれたので、単刀直入に藤ケ瀬の泥棒部落を探しに来たと伝えた。当然かも知れないが、怒られた。藤ケ瀬などという名前はもうない、その話をここらでするな、ということだ。

「ここらの人は真面目に暮らししているのに、泥棒とか言うのは人権問題だぞ!」

怒る老人。しかし、一方で重要なことも話してくれた。藤ケ瀬は江戸時代の被差別身分とは無関係で、泥棒部落と言われたのは昭和に入ってからのことなのだという。そして、泥棒をやっていた人は今ではもう出ていくか亡くなっていた。

「自分がその一人だったけどな。今は自分一人だけだぞ、この辺りの家の人はもう関係ない」

老人はそうも漏らした。

事件があった頃の記録では、藤ケ瀬は何百世帯あったというので、あの斜面の辺りだけが藤ケ瀬だったとは考えにくい。斜面を登った辺りは新しい住宅が建ち、住民が入れ替わっているように感じた。

結局、泥棒部落とは同和とは無関係であろう。炭坑での仕事を求めてこの地に移り住んできた人々の一部が、都会に行ってスリや集団万引をして大成功したことで味をしめ、炭坑不況もあいまって周囲でそれを見て真似をする人が次々と出てしまった…ということではないだろうか。

写真を撮っていると、再び先程の老人に「人の家の写真撮りまわって、お前が泥棒しようとしてないか、警察呼ぶぞ!」と怒られたので帰ることにした。

なお、後で分かったがその老人の名字は過去の報道で藤ケ瀬グループのリーダーとされた人物と同じだった。

学術・研究:部落探訪(201) 福岡県 田川郡川崎町 西田原」への4件のフィードバック

  1. アバターきこりん

    お疲れ様でした。
    その辺りは炭鉱労働者の住居跡と言う感覚ですね。
    市と郡の境ですから。
    市の方はその辺りは部落ではありません。
    そこを下って南下すると川崎町の同和会がありましたが今はどうなっているか判りませんね。
    同和や右翼や暴力団の入り交じった感じでしょう。

    返信
    1. アバター鳥取ループ 投稿作成者

      川崎町は炭坑関係の移住者が多くて、全般的にどこが部落なのかよくわからなくなっているように思います。

      返信
    1. アバター鳥取ループ 投稿作成者

      その写真見ました。まさにその場所ですね。ただし、泥棒部落はその中でもごく一角と思います。

      返信

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